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2020-09-16

転職活動する思考実験

8月末からの流れで、出来損ないな自分もこみこみで「自分を楽しもう」という標語を掲げるに至り、忘れないように立て看板を頭の中に取りつけているような9月初旬に、人材育成の案件が舞い込んできた。「今日ちょっと話す時間あります?ちょっともやもやっとした相談ごとがあって…」と、会社に出勤しているときに声がかかった。「あります、あります、何時以降だったら、いつでも」と応じると、思いがけず人材育成の相談ごとだった。

私はここ数ヶ月、人材育成の案件から遠のいていた。もう何十年とやってきた仕事領域である。言葉の分類の仕方によっては、やっていないこともないのだろうけど、「キャリア開発か、能力開発か」で分けると、最近はキャリア開発に寄った案件に偏っていたし、より多くの時間を割いてきたのは「事業をどう立て直すか」案件の編集者のような役まわりだった。

元となるネタがごちゃっと山になっているのを整理して、問題と要因を分けて構造化したり、問題と課題とアイデアを紐づけて順序立ててシナリオに起こしたり、使う言葉を自分なりに洗練させたり、枝葉を切って論旨をすっきりさせたりする感じの仕事だ。

それはそれで、サラリーマンだからこそ、ちょっと手伝って!と仕事をふられるのであって、私が個人でぼーっと突っ立っても、そんなやったこともない仕事、やって!とは振られないので、良い機会だと思ってやっている。役割に対して力不足なのは否めないけれど、いくらかでも人の力になれるのは嬉しいことだし、助かるよと言われれば良かったなと思うし。

が、キャリア開発寄り、事業開発寄りの仕事で就業時間が埋め尽くされ、人材育成の仕事に関わっていない状態でしばらく過ごしたとき、ふと思ったのは、私はやっぱり人材育成の仕事を軸に仕事がしたいのだろうなぁということだった。

それで全部を埋め尽くしたい潔癖さはもたないし、その周辺のいろんな仕事に関われることは、それはそれで有意義だと思う。自分で企てられる機会なんてたかが知れているし、いろんな広がりを与えてもらえることは、ありがたいことだと率直に思う。ただ、人材育成に従事する仕事は、手放したくなさそうなのである。決めつけられないけど、なんとなく、そんな気がしている。

そんなわけで、先ほどの人材育成の話が舞い込んだときは、これはやりがいあるなぁと前のめりになった。ひと通り話を聴いて、自分なりにあれこれ意見を述べると、じゃあ一緒に協力して話を前に進めようということになり、そこからプロジェクトに参加することになった。

そんな折Facebookで、とある方が勤め先で人材開発系の人材を募集しているという投稿を見かけた。その方は人材開発の界隈では著名な方で、明らかに見識豊かで、仕事ができそうな方である。こういう方と仕事をご一緒すると、きっと学びが多く、やりがいもあるのだろうと想像して、その場で自分がその募集にエントリーする思考実験をしてみた。

具体的に、自分が今、転職活動するイメージをすると、いや、今、少なくとも半年は、手放すわけにはいかない案件が4つは手元にあると、自分の脳内で早々に「待った!」がかかった。

一つは事業立て直しプロジェクトの編集者として、一つは若手の仕事基礎力の習得〜実際に現場でパフォーマンス発揮するまでを支援するインストラクショナルデザイナーとして、一つはクリエイティブ職のキャリア形成を支援するキャリアカウンセラーとして、一つは人と仕事をマッチングする能率的な仕組みを作り変えるエンジニアとビジネスサイドの架け橋として。とりあえず直近、自分が果たすべきこと、自分が果たしたいことがあり、「すべき」と「したい」が結束している感覚があった。それであれば、まずはそれをやろう。

いずれにしても、これくらい具体的に、自分の今〜今後というのを生々しく考えて、選んで、生きていくのが本当なんだろうなぁと思った。個人で仕事するにしても、どういう形で市場が成り立って、どれくらい一人で開拓しうる市場があるかないか、まったく情報をもっていない自分がいる。なんか、やっぱり、ちょっと他人事だったんだろうな。それが癖づいているんだろうから、ちょっと注意していかないといけない。来年3月に、直近半年の自分を、自分ごととして振り返ってみたい。今の感じを忘れないで、振り返れるといいんだけども。世の中にも、もう少し個として関わっていきたい。

2020-09-15

低い自己評価

実際に何が影響して、いつからそうなったのか自分でも一言では言い切れないのだけど、私は自分の人生に対して、そう長い見通しというのをもたなくなり、それが過剰に前景化してしまっていた。

別段ひどく沈んだ状態で鬱々と過ごしていたわけではないし、楽しく人と過ごす時間もあれば、熱心に仕事に打ち込む時間ももってはきていたのだけど、いつからか「今を大事にするほかない」という刹那的な感覚が足元をひたすようになり、(過去自分比でいえば)自分の将来を志向する感覚から遠のいていた。

あと30年とか40年とか生きる想定で、自分の先々に具体的な期待をもって計画立てたり活動を仕掛けていくという自発的な生命力は、どこかの時点から手放してしまっていたような。悔いが残らないように頑張るというより、いつ終わってもさほど悔いがわかないように抑え込んできたような。

今あるものを、ありがたくいただく。今あるものに満足し、今ある立場に安住し、今いただける機会を活かして、その役割を果たせるように努める。いつか、どこかで、などと言っていても今しかないのだから。それは死生観によるところもあるし、無価値な自分をどう健全に受け止めて平静に生きていくか考えた末の苦肉の策でもあった。

常にニュートラルに自分を置いて、自然の巡りに身をゆだねる。それが私個人として快いこともあれば、不快なこともあるかもしれないが、いずれも自然現象として受け止め、外の世界の動きに身をゆだねる。上がった気分はゼロに戻し、下がった気分はゼロに引き上げる。そうやって、できるだけ淡々と毎日を、できるだけ丁寧に生きていく。そんな心もちに落ち着いていた。

それは静かで穏やかで、ある意味では平和だったが、一方で人間味を欠いていた。当然、ただの人間である、何も達観していない私には、いよいよちょっとつまらない、物足りないということになり、その無理が今頃ようやく、わかり出してきたということかもしれない。いや、もう少し主体的に生きたいのだと、私の中の小僧がうごめきだしたということなのか。

凡人、サポーター、脇役、裏方、下支え、無為自然、そういう言葉をかぶせにかぶせて、自分で自分の役どころを縛りつけ、役割を型にあてはめすぎてしまっていたような。

でも、人間も人生も、そんなに単純ではない。それは凡人だろうが変わらない。多面性をもつのが人間であり、人の生きる道なのに、何をやっているのか。定義することで、思考停止して楽をしたかったのだろうか。

今その紐をほどいて、とかしている。自然界に、人間界に、そんな縛りは別にないのだ。そんなのは自分で作ったただの紐に過ぎないじゃないか。自分の意識から消失させてしまえば、ただの野っ原である。そっち側の人とこっち側の人と分類する紐は、どこにも見当たらない。

世の中視点で自分が脇役スペックだろうとも、それはそれで。そうであっても自分の人生はとりあえず、自分を主人公に自分でとりまわすほかないのだし、それは逃れられない配役なのだ。遠のけても遠のけてもついてきて、逃げ腰ではつまらなくなってしまうのだ。

何者でもない無価値な自分というものの自己評価にくたびれて、くたくたになって、それを前向きに受け止めて健全な心もちで生きていけるように、いろんな自分の位置づけ方というのを頭の中で思考巡らし、たどりついたのが、これまでのスタンスだったのかもしれない。

が、それなら低くしか見積もれない自己評価そのものを手放してしまえば良かったのだ。自分ではなく、自分がやることに集中して、それが意味あるものになるように、そちらに焦点をあわせて、やっていったらいいのだ。やれやれ。

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