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2020-08-14

コロナ禍の母のお墓参り

昨日は、母のお墓参りに行った。お盆の立ちまわりとしては、できるだけオーソドックスな日どりで母を迎えに行ってあげたいという気持ちがあって(正式な立ちまわり方がどんなものかしらないが)、父と兄も都合がついたので8月13日に行くことにした。

これまでお墓参りはだいたい3ヶ月おきに行っていたのだけど、今年はコロナの影響でゴールデンウィークに身動きがとれず、2月の命日に行って以来、半年ほど間があいてしまった。

二人は千葉県在住で、お墓も千葉県。私は都民なので、となりの県に行くのにまったく抵抗がなかったとはいえないが、夏の間じゅう父を一人で過ごさせる気にもなれないし、兄も行く気になっているし、さすがにそろそろお墓を掃除してあげなきゃというのもあり。

これまでは父の運転で、父と私の二人で行くことも多かったのだけど、父が昨年、車の免許を返納して車を手放し、私は相変わらずきれい過ぎるペーパードライバーなので、今年の初めからは兄に車を出してもらって行くのが基本スタイルになろうかというところ。

そんなわけで最初、兄と連絡をとっているときは、父と兄と私の3人で行くものと思っていたのだけど、前日になって兄が一家4人全員で行けそうだという。それはぜひ、父に孫を会わせてあげたい。けれど、さすがに兄の車1台に6人乗り込むのは密が過ぎるなと思い、父と私はタクシーで移動することに。ほとんど気分の問題だが…。

兄一家とは、墓地で待ち合わせ。私たちのほうが早く着いたので、タクシーを降りるや掃除を始める。カンカン照りで猛烈な暑さ、気温は35度くらいだったか。こんな中で父に掃除をさせたらぶっ倒れるなと思い、さりげなく父には線香を取りに行ってくるよう促し、その間に水を汲んで掃除を終わらせようとテキパキ動く。

一人で黙々とお墓を掃除していると、なんだか清々しい気分に。炎天下、墓石に水をぱしゃぱしゃかけると、石がきらきら輝いて、いかにも「あぁ気持ちいい」と応じているように見える。

とはいえ、石は水をかけたそばから陽射しに照らされてどんどん乾いていく。私は墓石に半分よじのぼるようにして、石面をあちこち布でふきふきして全身の汚れを落とす。一通りふき終えたところで、またきれいな水を頭からかけると、お風呂あがりのようにすっきりして、再びきらきら石が輝く。

半年ぶりだったのもあって、けっこう汚れがついていたので、それを全部洗い流すと、とってもきれいになった。

汗だくのふらふらになっていたためか、掃除途中で濡れた墓石に足をすべらせてつるっと態勢を崩し、墓石に頭を打ってそのまま遠くへ行ってしまいそうになったのだけど、そこはやっぱり母の墓前。私にしては珍しくさっと態勢を戻せて事なきを得た。

全身を使ってせっせとお墓を掃除したから守ってくれたのかしら、なんてことを思いつき、母に掃除のお礼を言われたような、なんとなくコミュニケーションが通じたような気分になる。いっとき、母と私、二人の時間がもてたような今回の墓参りだった。

ほどなく父が戻ってきて、兄一家もやってきて、みんなで手を合わせる。みんなで健康にやってこられて良かった。家族の健康は、本当に嬉しい。

母を見送って、9年半が経つ。お盆に戻ってきたら銀座をぶらぶら散歩するんだって言っていた気がするんだけど、ほんとかな、いつ言ってたっけ、どんな顔して言ってたっけなと、記憶が曖昧になっていることに気づいて、ちょっとしょんぼりもした。でも、おりに触れて懐かしむとともに改めて悲しむことも、きっと尊いことなんだろう。静けさの中であなたを思い、心通わせられたような気分になるのも、きっと尊いことなのだ。

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