かたくなな知識と、柔軟な知恵
「中心がいくつもあって、外周を持たない円」というのが、村上春樹の新刊「一人称単数」という短編小説集の中ほどに出てくる。「クリーム」というタイトルの話だ。
この短編集に編まれた小説は「一人称単数」という名の通り、どれも主人公が村上春樹本人と読んでいいと思う仕立てになっているのだけど、その主人公が少年時代に出会った老人から、こう問われる。
中心がいくつもあって、ときとして無数にある、しかも外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?
これは、難しい問いとして設えられている。主人公の少年は困惑する。そりゃ、そうだ。円とは「中心をひとつだけ持ち、そこから等距離にある点を繋いだ、曲線の外周を持つ図形」なのだから。
でも私の頭には、わりとすんなり、こんな感じだろうというイメージがぼんやり描かれた。なぜかと言えば、それはたぶん、私が著しく数学的センスを欠いているからだ。数学的センスがある人ほど難しい問いに聞こえるのではないだろうか(数学を得意としたことが一度もないので実際のところはよくわからない)。
私は極めて非数学的に、これを読み、これをイメージした。定義に即した「円」ではなく、幼少期におぼえた「丸」で頭に描いたというのか。あるいは、文学的に読んだといえばいいのか、自然界の実線で描いてみたら、幾何学の厳密さから解放されるのはそう難しいことじゃなかったといえばいいのか。
例えば、山の稜線というのは、遠くから眺めているときれいな線に見えるけれども、山の中に分け入ってみれば樹木ごとに葉や枝がじくざくしていて、直線的とも曲線的とも言い表せない。海岸線にしても、地図で見ている分にはきれいな線に見える海辺が、実際に行って歩いてみると、波が打ち寄せるごとに陸と海の境い目が変わり続けていて、幾何学的には語れないものがある。
そういう話なのだが、この説明で腑に落ちているのは自分だけかもしれない、とは自覚しながら書いている。
概念としての「円」は極めてきれいな線をもつのに違いないのだけど、自然界というか、実社会というか、そうした現実世界ではむしろ、「中心がいくつもあって、外周を持たない円」を探すほうが容易なのではないか。そういう複雑性をもった事物をこそ、当たり前のものとして折り合いをつけていくのが、世の常、人の常なのではないかと。
大人になった主人公は、その円をこのように言い表す。
それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないか──それはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。
概念的な言葉で語ることの役割と、その限界のようなものが、大人になるにつれて分別ついてきて、「あれはこれでない」と断じるのでなく、あれとこれに違いを認めつつも、双方を丸めこんだり、飲みこんだり、包みこんだりするようになっていく。
このお話を読み終えて、私が思ったのは「かたくなになってはいけない」ということだ。世の中も、人の心も、そんなにぱっきり線を引いて分けられないものばかり。そういう中で私たちは、その都度都度で、便宜的にあれとこれと分け、言葉を選び、線を引いて、物事に対峙し、人と対面し。ままならないことがあれば、あれとこれをもう一度もとに戻して、やっぱり分けないでおこうとか、違うやり方で分けてみようとかして、言葉を与え直したり、線を引き直したり、気持ちを立て直したりする。
りきんで立ち向かっていることって、本当に大事にしたい中心点から、ちょっとずれたところのものになっている気もするのだ。りきみをほどいて、力が入っているところをほぐして、そうやって大事な人のことを大事にしよう、大事にしたいことを大事にしよう、そうじゃないことに心奪われないようにしよう、そんなことを思うのだった。
小林秀雄が「学生との対話」の中で、「かたくなな知識と反対の、柔軟な知恵」という言い回しをしていた。知識を身につけた先には、確かな知恵を使える成長が約束されていそうなものだけれど、「かたくなな知識」と「柔軟な知恵」を対置させて示されると、なるほど、そういうことにもなるかもしれないと思う。知識には、人をかたくなにさせる副作用がある。そうかもなと、どきっとさせられる。かたくなになってはいけない。
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