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2020-08-31

撃沈からの復活

8月末の夕暮れどき、私はぽろぽろ泣いていた。泣きながら、御茶ノ水の坂下あたりを歩き続けた。久しぶりに涙が止まらなかった。時々しゃくり上げて泣いた。ときどき足に力が入らなくなって、立ち止まって泣いた。それでも歩くのを止めるわけにはいかなかった。だから3駅だか4駅だか、泣きながら通りを歩き続けた。

頭の中では、たくさんの言葉が私を責め立ててきた。ときどき無が訪れた。またしばらくすると、たくさんの言葉に飲み込まれた。それでも、おぼれなかった。私はオールをしっかり握りしめた。これは、私のボートなのだ。手放すわけにはいかない。手放したところで、これは私のボートなのだ。難破したボートの主人として、やはりこのボートに私は乗り続けるしかないのだ。なのだから、やはりオールを手放すわけにはいかなかった。

私は、できるだけ自分の中にわいてくる考えだとか気持ちだとかの動きを精細にとらえようと、内側に注意を向けて、自分のことを理解しようと努めた。

自分は、何を考えているのだろうかと。自分は何に泣いていて、どうしたくて、私は何によって咎められていて、何ができていないんだろうかと。自分は開放的にものを考えたとき、どうしたいのだろうかと、そういうことに耳を澄ませた。

そういうことは案外、きちんと向き合わないと見えてこないし、きちんと向き合ったところで、なかなかわからない。言葉でわかりやすく説明してくれるほど、自分の言語化力は優れていないし、私は自分の本当のところを理解していない。

それでも、誰かに説明する用の言葉ではなく、自分が私だけに説明する用の言葉でしゃべるように、私は自分に問いかけ、自分に率直な答えを求めた。耳を澄ませて、夕空を見上げて、夏風に吹かれて、歩き続けた。

あぁもう一度、生きなければ、どうしようもない出来損ないの自分でも、それはそれとして、自分を楽しんで生きなければもったいないのだと思い直した。ようやっと、喪があけるのかもしれない。

2020-08-27

「Web系キャリア探訪」第23回、やりたいことは1つに絞らなくていい

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第23回が公開されました。今回はパナソニック株式会社コネクテッドソリューションズ社でPR、ブランディングを手がける鈴木恭平さんを取材しました。

キャリアの軸はPR。軸からスキルを広げてパラレルキャリアを見据えた働き方をしたい

新卒時から「終身雇用の発想はなかった」という鈴木さん、キャリア遍歴をたどるとPR会社→外資系PR会社→外資系事業会社のPR→日系事業会社のPRと、経験豊かなフィールドに片足を残しつつ、もう一方の足をコンフォートゾーンの枠外に一歩踏み出すようにして専門性を広げてこられた挑戦の軌跡が見てとれました。

自身の成長に貪欲であるとともに、それを社内外に役立ててもらおうという活動にも精力的で、会社の枠を超えた学びを「越境学習」と呼ぶのが仰々しく感じられるくらい、開放的な活動を当たり前のものとしている感じがしました。中途入社した先で人間関係を築いて社内に自身の知見をシェアしていくふるまいも、Web広告研究会などの業界コミュニティでの活動も頼もしいかぎり。

また、やりたいことを1つに絞る必要はないし、やりたいことは必ずしも「仕事でやる」ことを前提にしなきゃいけないわけじゃない。漫才をしたり、DJをしたり、プライベートも込みで自分がやりたいことを自分の人生の中でやっていく自然体のパラレルキャリア観が伝わってきた取材でもありました。ご興味ある方は、ぜひ読んでみてくださいませ。

2020-08-20

「スキル習得には練習期間が要る」という話

この間、おしゃべりの中で「練習って大事だねぇ」っていう話になった。

何かを習得するっていうと、それを「知った、わかった、理解した」ってところで身につけた気分になりやすいのは、もう人のサガと言っていいと思うのだけど、それであれば、そのサガの存在を意識してうまくつきあっていくことで、まっとうに何かを習得しやすくなるとも言える。

「知った、わかった、理解した」では終わらないよ。スキルを身につけるには、もう少し入り組んだプロセスが必要なんだっていう知識をもっておいて、何かを習得する時そのことに注意を働かせられれば、落とし穴を回避できる。

特に大人になってからは、自分で学習プロセスを計画立ててマネジメントすることが多くなるし、学習に失敗していても注意してくれる人が年々減っていくので、早いうちに自分への注意喚起のアラーム機能を搭載しておきたい。そうでないと、その先の生涯さまざまな学習が、ままならなくなってしまうし、身につけ損なっていることにも気づけず空回りし続けてしまう。

世の中には、練習しないと身につかないものというのが、たくさんある。知った、わかった、理解したの後に、練習を繰り返してものにするって学習工程が必要だ。仕事で求められるスキルなんかは、そういう類いのものが多分に含まれている。だからこそ仕事として成り立ち、お金をもらえるわけなのだし。

練習を繰り返して、その過程で自分で内省して改善を試みるのはもちろんのこと、他の人からフィードバックをもらって、他者の目で(できれば、その熟練者から)どこができていてどこが足りないかを指摘してもらい、どうしたら良くなるかという方法をアドバイスもらいながら修正を加えられれば効率が良い。

ここで見逃しちゃいけないのは、必然ながら「期間を要する」ということだ。知った、わかった、理解したというのは、ものにもよるけれども、例えば1分とか、1時間とか、1日で事足りることも往々にしてあるわけだけど、練習するには、それと比にならない「期間」が要る。

一度にまとめてやっても、習得はままならない。期間をかけて練習を重ねるうち上手くなるというのは誰もが、これまでの経験を振り返って、まぁそりゃそうだわなって納得を覚えるのではないか。

走るスキルだって、「1日24時間走り続けて、その翌日から23日間ぼーっと暮らす」よりも、「1日1時間ずつ、24日間走り続ける」というほうが身になりそうだし。車の運転だって、1日に2時間ぶっ通しで車庫入れの練習するより、1ヶ月半かけて1日20分を6回に分けて1週間おきにやったほうが身になる感じがする。英語の発音とかを身につけるのだって腑に落ちる。

同じ時間かけるなら、一度に学習するより、期間をかけて時間を小分けして学習したほうが効果が高いとされている。目安としては15~30分を一区切りにすると費用対効果が高い。

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とはいえ、短期間で習得できるならそれに越したことはないし、学習意欲を持続させるのも大変なので、できるだけ短期間に押し込めたくなるのが、これまた人の常。

さらに、これまではなんだかんだ「教える・運営する側の効率・コスト」の観点から、一度にまとめて教えるというやり方が当たり前に採用されてきた。短期集中を売り文句にする教育商材はたくさんある。私たちの頭は、そういうやり方が一般的なやり方というふうに、想像以上にひたひた浸かっているようにも思う。

しかし、本当にその学習は成り立っているのか、成功しているのだろうか、学習効果をあげる最良の策なのだろうか。コロナ禍にあってあらゆるやり方が抜本的に見直されている今、学び方も教え方も、教える側の都合・諸事情から解放されて、「学ぶ側の学習効果」の観点から、やり方を一から見直すチャンスなんだろう。

学習者中心設計へ向かえ!という問題提起はもう何十年と言われているけれども、実際的に変更を加えていくという意味では、今がまさに好機。

オンラインで事が進めやすくなった今、誰かに何かを教えるプロセスも、ただ教室空間をオンラインに置き換えるだけじゃなくて、プログラムをもっと小分けにして時間を分散させて、回数を増やして、期間を長めにとって、練習を積む機会を設けて、こまめな個別フィードバックから効果的にスキル習得していくアプローチに見直していく検討を要する。

教材はそのまま統一したものを使うにしても、「時間の使い方」は真っ先に学習方法をパーソナライズできるところかなって思うので、そこからでもこれまでのやり方を崩して、学び手その人にとって学習効果が高い方法を模索したいところ。

頭が凝り固まっていて、なんとなく従来の方法を採用しているところがあるから、注意深く「効率じゃなくて、効果が高いほう」のやり方を一から見直して創り出していく注意が必要なときだなと思う今日この頃。

2020-08-16

かたくなな知識と、柔軟な知恵

「中心がいくつもあって、外周を持たない円」というのが、村上春樹の新刊「一人称単数」という短編小説集の中ほどに出てくる。「クリーム」というタイトルの話だ。

この短編集に編まれた小説は「一人称単数」という名の通り、どれも主人公が村上春樹本人と読んでいいと思う仕立てになっているのだけど、その主人公が少年時代に出会った老人から、こう問われる。

中心がいくつもあって、ときとして無数にある、しかも外周を持たない円を、きみは思い浮かべられるか?

これは、難しい問いとして設えられている。主人公の少年は困惑する。そりゃ、そうだ。円とは「中心をひとつだけ持ち、そこから等距離にある点を繋いだ、曲線の外周を持つ図形」なのだから。

でも私の頭には、わりとすんなり、こんな感じだろうというイメージがぼんやり描かれた。なぜかと言えば、それはたぶん、私が著しく数学的センスを欠いているからだ。数学的センスがある人ほど難しい問いに聞こえるのではないだろうか(数学を得意としたことが一度もないので実際のところはよくわからない)。

私は極めて非数学的に、これを読み、これをイメージした。定義に即した「円」ではなく、幼少期におぼえた「丸」で頭に描いたというのか。あるいは、文学的に読んだといえばいいのか、自然界の実線で描いてみたら、幾何学の厳密さから解放されるのはそう難しいことじゃなかったといえばいいのか。

例えば、山の稜線というのは、遠くから眺めているときれいな線に見えるけれども、山の中に分け入ってみれば樹木ごとに葉や枝がじくざくしていて、直線的とも曲線的とも言い表せない。海岸線にしても、地図で見ている分にはきれいな線に見える海辺が、実際に行って歩いてみると、波が打ち寄せるごとに陸と海の境い目が変わり続けていて、幾何学的には語れないものがある。

そういう話なのだが、この説明で腑に落ちているのは自分だけかもしれない、とは自覚しながら書いている。

概念としての「円」は極めてきれいな線をもつのに違いないのだけど、自然界というか、実社会というか、そうした現実世界ではむしろ、「中心がいくつもあって、外周を持たない円」を探すほうが容易なのではないか。そういう複雑性をもった事物をこそ、当たり前のものとして折り合いをつけていくのが、世の常、人の常なのではないかと。

大人になった主人公は、その円をこのように言い表す。

それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう。たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰(あるいは信仰に似たもの)を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないか──それはあくまでぼくの漠然とした推論に過ぎないわけだけれど。

概念的な言葉で語ることの役割と、その限界のようなものが、大人になるにつれて分別ついてきて、「あれはこれでない」と断じるのでなく、あれとこれに違いを認めつつも、双方を丸めこんだり、飲みこんだり、包みこんだりするようになっていく。

このお話を読み終えて、私が思ったのは「かたくなになってはいけない」ということだ。世の中も、人の心も、そんなにぱっきり線を引いて分けられないものばかり。そういう中で私たちは、その都度都度で、便宜的にあれとこれと分け、言葉を選び、線を引いて、物事に対峙し、人と対面し。ままならないことがあれば、あれとこれをもう一度もとに戻して、やっぱり分けないでおこうとか、違うやり方で分けてみようとかして、言葉を与え直したり、線を引き直したり、気持ちを立て直したりする。

りきんで立ち向かっていることって、本当に大事にしたい中心点から、ちょっとずれたところのものになっている気もするのだ。りきみをほどいて、力が入っているところをほぐして、そうやって大事な人のことを大事にしよう、大事にしたいことを大事にしよう、そうじゃないことに心奪われないようにしよう、そんなことを思うのだった。

小林秀雄が「学生との対話」の中で、「かたくなな知識と反対の、柔軟な知恵」という言い回しをしていた。知識を身につけた先には、確かな知恵を使える成長が約束されていそうなものだけれど、「かたくなな知識」と「柔軟な知恵」を対置させて示されると、なるほど、そういうことにもなるかもしれないと思う。知識には、人をかたくなにさせる副作用がある。そうかもなと、どきっとさせられる。かたくなになってはいけない。

2020-08-14

コロナ禍の母のお墓参り

昨日は、母のお墓参りに行った。お盆の立ちまわりとしては、できるだけオーソドックスな日どりで母を迎えに行ってあげたいという気持ちがあって(正式な立ちまわり方がどんなものかしらないが)、父と兄も都合がついたので8月13日に行くことにした。

これまでお墓参りはだいたい3ヶ月おきに行っていたのだけど、今年はコロナの影響でゴールデンウィークに身動きがとれず、2月の命日に行って以来、半年ほど間があいてしまった。

二人は千葉県在住で、お墓も千葉県。私は都民なので、となりの県に行くのにまったく抵抗がなかったとはいえないが、夏の間じゅう父を一人で過ごさせる気にもなれないし、兄も行く気になっているし、さすがにそろそろお墓を掃除してあげなきゃというのもあり。

これまでは父の運転で、父と私の二人で行くことも多かったのだけど、父が昨年、車の免許を返納して車を手放し、私は相変わらずきれい過ぎるペーパードライバーなので、今年の初めからは兄に車を出してもらって行くのが基本スタイルになろうかというところ。

そんなわけで最初、兄と連絡をとっているときは、父と兄と私の3人で行くものと思っていたのだけど、前日になって兄が一家4人全員で行けそうだという。それはぜひ、父に孫を会わせてあげたい。けれど、さすがに兄の車1台に6人乗り込むのは密が過ぎるなと思い、父と私はタクシーで移動することに。ほとんど気分の問題だが…。

兄一家とは、墓地で待ち合わせ。私たちのほうが早く着いたので、タクシーを降りるや掃除を始める。カンカン照りで猛烈な暑さ、気温は35度くらいだったか。こんな中で父に掃除をさせたらぶっ倒れるなと思い、さりげなく父には線香を取りに行ってくるよう促し、その間に水を汲んで掃除を終わらせようとテキパキ動く。

一人で黙々とお墓を掃除していると、なんだか清々しい気分に。炎天下、墓石に水をぱしゃぱしゃかけると、石がきらきら輝いて、いかにも「あぁ気持ちいい」と応じているように見える。

とはいえ、石は水をかけたそばから陽射しに照らされてどんどん乾いていく。私は墓石に半分よじのぼるようにして、石面をあちこち布でふきふきして全身の汚れを落とす。一通りふき終えたところで、またきれいな水を頭からかけると、お風呂あがりのようにすっきりして、再びきらきら石が輝く。

半年ぶりだったのもあって、けっこう汚れがついていたので、それを全部洗い流すと、とってもきれいになった。

汗だくのふらふらになっていたためか、掃除途中で濡れた墓石に足をすべらせてつるっと態勢を崩し、墓石に頭を打ってそのまま遠くへ行ってしまいそうになったのだけど、そこはやっぱり母の墓前。私にしては珍しくさっと態勢を戻せて事なきを得た。

全身を使ってせっせとお墓を掃除したから守ってくれたのかしら、なんてことを思いつき、母に掃除のお礼を言われたような、なんとなくコミュニケーションが通じたような気分になる。いっとき、母と私、二人の時間がもてたような今回の墓参りだった。

ほどなく父が戻ってきて、兄一家もやってきて、みんなで手を合わせる。みんなで健康にやってこられて良かった。家族の健康は、本当に嬉しい。

母を見送って、9年半が経つ。お盆に戻ってきたら銀座をぶらぶら散歩するんだって言っていた気がするんだけど、ほんとかな、いつ言ってたっけ、どんな顔して言ってたっけなと、記憶が曖昧になっていることに気づいて、ちょっとしょんぼりもした。でも、おりに触れて懐かしむとともに改めて悲しむことも、きっと尊いことなんだろう。静けさの中であなたを思い、心通わせられたような気分になるのも、きっと尊いことなのだ。

2020-08-01

「Web系キャリア探訪」第22回、「業績を上げること」と「人を大切にすること」の両立

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第22回が公開されました。今回は旅行サイトを運営するエクスペディア・ジャパンで、アジア圏のSEOチームを率いる田中樹里さんを取材しました。

プレイングマネージャーの今が楽しい! チームマネジメントは「褒める」「期限を設ける」で円滑に

田中さんは、自分がその時どきで何に関心が向いていて何をしたいのかについて、きちんと意識が働いていて、実際にそれができるよう自分の居場所を移すという行動に出ていて、それをすごく自然体でやってこられた印象を受けました。

だから発言としては「あまり絞り込んで何か目指してという感じでもなかったのですが」とか「流されるまま今に至っているような気がしているのですが」というふうにも出てくるんだけど、具体的なキャリア変遷をたどっていくと常に、イヤイヤじゃなく自分が好きなこと、関心が向くこと、意味を感じられる仕事、伸ばしたい能力を選んで、キャリアを歩んでこられているという感じがしました。

SEOのスペシャリストであり、かつエクスペディアのアジア圏のSEOチームを束ねるマネージャーでもあり、今はちょうど五分五分で、プレイヤーとマネージャー両方の役割を務めているそう。

上司も部下も全員海外なので、コロナ以前からネットごしにマネジメント業務をされていたということで、オンラインでの部下とのコミュニケーション、会議のファシリテーションなども、いろいろエッセンスを伺うことができました。

素敵なマネージャー、上司なんだろうなぁっていうのが、チームメンバーとどう関わっているかというお話から伺えて、ブレーク&ムートンが提唱した「マネジリアル・グリッド」のことを思い出しました。

「業績を上げること」と「人を大切にすること」、「仕事ができる能力があること」と「人間関係を円滑に保つこと」は、必ずしも相反するものではなく、両方に対する関心を高めて統合することが可能であるという話。

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※詳しくは、以前書いた「トレードオフの関係」に分け入るにて。

田中さんは、まさにこの両立の実践者という感じ、直接お目にかかることができず残念でしたが、とっても健やかな気持ちになるインタビューでした。よろしければ、ぜひリンク先でご一読くださいませ。

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