説明されるべきものではなく、呑み込まれるべきもの
最近は、わりと多くの時間を小説を読むことにあてている。村上春樹は「騎士団長殺し」と「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を立て続けに読んだのだけど、後者→前者の順で書かれたものらしく、多崎つくるのほうが小説としては荒削りな感じがある。だけど、そのぶんメッセージが直截に語られている感じもあって、両者の行き来が豊かな読書体験をもたらした。
小説や音楽や絵画といったものが、どんなふうに私たちに働きかけているものなのか、私たちはそれにどう向き合うべきなのか、改めて感じ入った。それは、「騎士団長殺し」の中の一節で、騎士団長がはっきり言葉にあらわしてくれている。
なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。呑み込まれるべきものだ
騎士団長、かっこいい(し、かわいい!)。この小説の中では、別のところにも「呑み込む」という表現が出てくる。
真実とはすなはち表象のことであり、表象とはすなはち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。そこには理屈も事実も、豚のへそもアリの金玉も、なんにもあらない。人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮かべんとするようなものだ
自分が生業としている「学習の設計」にも思い馳せるところあり、表象をそのままぐいと呑み込むというのが、結局のところ一番能率的な「理解の道」ではないかなって思ったりもするのだった。
「呑み込む」という表現は、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」にも出てくる。
不思議な話を、不思議な話としてそのまますっぽり呑み込んだのだと思います
これを発展させたのが、騎士団長のセリフなのかなぁとも思ったりして、2つの作品を立て続けに読む味わい深さも堪能した。
色彩を欠いているという無個性の自覚が根をはっている自分には、多崎つくるの思うところに共感するところ多く、そういう中でも他者に嫉妬することなく、穏やかに暮らせている理由も、たぶんに言葉に起こされていて、こっちの小説も、なんというか、自己肯定感が高まるというか、自分の幸いを再認識させられ、改めて今に感謝したりした。
読者に多くの考えごとを、さまざまな観点で呼び起こす力をもつ小説、やっぱりすごいなぁ。
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