叔父の急逝と、自分の誕生日
一昨年の夏、「俺の娘の日記」と題した話をここに書いたのだけど、そこに登場した叔父が、先日急逝した。急逝といっているのは、私が事情をよく把握していないだけで、家族にはもういくらかの期間があったのかもしれない。けれど、出向いたお通夜の席で話を聴いたかぎりだと、癌の治療そのものはうまくいったようにも窺え、治療過程や後のあれこれが重なって最近急に体調をくずしてしまったようにも聞けた。
亡くなる1週間ほど前に、いとこ(叔父の息子)から私の父(叔父の兄)に連絡が入り、もう長くないかもしれないというので、父は急いで京都の病院まで、叔父に会いに行った。が、その時点でほとんど意識はなかったようだ。
とすると、ゆっくり会って話せたのは、一昨年の夏、叔父と叔母が千葉まで会いに来てくれた、私も同席したあのときが、父にとっても最後だったということになるかもしれない。
その時点では、がんの治療をして胃をだいぶ小さくしたので、そんなに食べられなくなったという話をしていたのだけど、しゃきしゃきおしゃべりしていたし、すたすた歩いていたし、カラオケも振り付きで歌っていた。治療も一段落して、京都から千葉まで車でドライブしてやってこられる体力もあるのだし、これからぐんぐん回復して元気になると願っていたし、信じていた。
しかしながら、このほど父が訪問して数日後に叔父は亡くなってしまった。
父は、お通夜や葬儀は欠席すると言った。まぁ新型コロナウイルスのこともあるし、1週間に二度も新幹線移動の往復は体にこたえるし、なにより生前に本人に会いにいけたんだから…と思い、私は「お通夜は私が行ってくるよ」と電話で応じた。兄も行くというので、京都駅で待ち合わせて、そこから2人で葬儀場へ向かった。
私は一応、父の年賀状リストをもとに親戚データを予習(復習?)してきたので、父の兄弟は上から順にこうなっていて(兄弟がすごく多いのだ)、それぞれの奥さんの名前はこうで、あそこは子ども3人で…とかいう情報を兄と共有しながら、ローカル線に揺られていった。
父方の親戚はだいたい関西圏に集結しているのだけど、私たち一家だけずっと千葉なので、父は別として、私たち子ども連中は、向こうの親戚とあまり交流がなく今日に至る。
9年前の母の葬儀のときには、遠方からみんな足を運んでくれたけれど、あのときは私のほうに余裕がなくて、十分な挨拶もできずじまいだった。それ以前というと、もう子どもの頃に京都や大阪に遊びに行ったときの記憶に向かってしまうくらい遠い距離がある。
そうした中でも、このたび亡くなった叔父は、よく叔母とともに千葉のわが家を訪ねてくれた。というのは、この叔父がまだ若い頃に(とはいえ結婚して、奥さんも子どもも小さいのが3人いる状態だったのだが)、税理士を目指すといって会社を辞めてしまったことに端を発している。
今とは時代背景が異なると思うのだけど、その当時、所帯をもった男が、親・兄弟にも相談しないでいきなり会社を辞めるというのは、なかなかの修羅場だったようだ。以降、今日に至るまで、この叔父と兄弟らの仲は断絶状態にあったようである。みんな一斉に「なんちゅう無責任なことをするんだ、家族だっているのに」と大反対したらしい。
その中で、うちの父は弟を応援する側にまわったという。父も最初は反対したらしいが、辞めちゃったものはしょうがない、じゃあ頑張れ!というので、叔父が一から税理士の勉強をして合格するまでの数年間?、5人家族の生活を経済的にサポートしたそうなのだ。
うちの家族も3人兄弟の5人家族で、時期を同じくしてちびっこ3人衆だったから、地理的にはかなり離れていたけど、父にとっては擬似的に10人家族を養っている感じだったかもしれない…。
経済的にサポートしていたという話は、大人になってだいぶ経ってから、叔父に聞いて知った。父はものすごいおしゃべりのくせに、そういうことは一切しゃべらなかった。母もだ。なので叔父が教えてくれるまで、なぜ叔父が会うたびに、うちの父には足を向けて寝られないと繰り返すのか、理由がずっとわからなかった。兄弟間にはまぁ、それはそれでいろいろあるんだろうと聞き流していた。
そこまではまぁ、すでに知っていたこととして、今回、お通夜の後の御斎(お食事会みたいなの)の席で、新たなびっくりがあった。叔父とは絶縁状態的な感じだった兄ら(私の伯父たち)もお通夜には来ていたので、私は彼らの隣りに座って話を聴くかっこうとなった。
それで伯父ら(父の兄たち)の話を聴いていると、うちの父は借金をして、それをやっていたんだそうである。たぶん父はサラリーマンをやっていたから、銀行とかにまとまったお金を借りやすかったんだろう。帽子をかぶっていたら、思わず脱いでいたところだ。
びっくりして、「それは知らなかったです、はぁ、そりゃすごいですねぇ」、そう率直に返すと、伯父たちが「そやろ。さすがにそれはやらんわ、普通。そんなのできるの、あいつだけやで」と(関西弁があっているかは怪しいが)、父の名前を出して感心していた(か、あきれていた…)。
私は(別に私が何したわけでもないのに)いくらか誇らしい気持ちになったが、その後にわかに見えてきたのは、自分はぜんぜん親を超えていないんだなぁという現実だった。
今日(日付かわって昨日)、誕生日を迎えた。最近は、わりとエネルギーを放出して、せっせと仕事をしている。自分の至らぬところを発見してがっくしすることもあるけれど、自分の未熟なところを、この歳になっても発見して、よし頑張ろうと腹すえて向き合えるのは、まだ成長の余地があるってことだろうと、とことん前向きな解釈をしつつ、この1年もささやかな進化を目論んでいる。
ちなみに、亡くなった叔父はしっかり税理士になり、3人の子どもも立派に育ち、全員が士業に就いて大活躍である。会えばみんな温かな人柄で、敬意を抱かずにはいられないスーパー家族になった。叔父とお話しできたのは本当に短い時間だったけれど、本当に魅力的な人、そして素敵な家族だなと思う。
人生は、ときに「むごい」としか言いようのないこともあるけれども、その凄まじさ以上の尊さがあって、だから遺された私たちは、大事に、いっそう大事に、生きていこう。
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