さようなら、自己実現。自己はそこにない
仕事始めの1月6日、会社の勤怠管理システムから「リフレッシュ休暇が付与されました」という通知メールが届いた。私の勤め先は、勤続5年ごとに5日間のリフレッシュ休暇が付与される。
私はこれが3回目、つまり丸15年この会社に在籍していることになる。ということに、このメールで気づかされて、そっちのほうにびっくりした。この1月から勤続16年目に突入である。
20代に4回転職して、今の会社は5社目。ここに転職してきたときは、まだ20代後半だった。そこから30代まるまる、40代の今もって在籍中、たいそう長いことお世話になっている。
昨年10月に部署異動して、久々に自社の中核事業に仕えるようになったし、これまでとは意識を変えて…会社の事業展開にも寄与するかたちで社会貢献を自分なりにやっていけたらと思う新年。当たり前すぎるけど。
秋の異動では、2つの大きな転換があった。一つは、主な支援対象がクライアントではなく社内に向いたこと、自社やグループ会社の従業員、派遣スタッフになったこと。もう一つが、能力開発だけでなくキャリア開発の支援に、注力分野を広げて活動しだしたこと。これまでもゼロではなかったけれど、明らかに能力開発の方面に時間を割いていた。
というわけで秋口からは、キャリア関連の文献に目を通すことも増えたのだけど、年始に再読して目に止まったのが「自己実現」という考え方に関する言及(*1)。
「自己実現」って言葉は、「なぜ働くのか?」の選択肢に「自己実現のため」とあったりして、キャリアを語るときによく出てくる言葉だけれども、これは20世紀的で、とりわけ変化の激しい21世紀は「自己構築」にコンセプトを置き換えたほうがいいのではないかという話。
自己実現という考え方には、中核となる自己はすでに個人の中に存在するものであるという前提がある。しかし、21世紀においては(略)、基礎となる自己とは前もって存在するのではなく、自己を構築することが生涯のプロジェクトであるという考えへの置き換え
が必要ではないか、というメッセージ。
なんとなくよそから持ってきた言葉を借りて、自己実現のために仕事しているなんて軽々しく使ってしまいがちだけど、「自分は(努力もなしに)何かをあらかじめ持っている」感に懐疑心を向けてみるのは、なかなか健全な眼差しだなと思った。
私は、自己実現のために仕事するって思った記憶がなく、たぶんそういう志向性ではないのだけど…。ただ、近くに書かれていた、この一節には共鳴するところがあるし、いい考え方だなぁって思った。
自己とは一つのストーリーであり、自己を一連の特性によって定義される静的な実態とは捉えない
キャリアカウンセラーとして誰かの相談にのっているときにも、その人の話の中にストーリーを見出して、自分の解釈を話して聴かせてみることで、その人の活動の意味づけを一緒に検討する働きをしていることがわりにあって、なので、ストーリーっていう表し方は、なんかしっくり来るのだった。
と、そんなこんなで、今年も人から大いに学び、よく噛んでよく揉んで自分の内側を豊かに耕しつつ、人にも事にも素直に実直に向き合い、自分で考えられるかぎりを考え抜いて、伝えたい人に伝えたいことが伝わるように言葉を大切に表し、相手からのフィードバックを真正面からきちんと受け止めて、物ごとを前へ展開し、行けるところまで行ってみて、あとは野となれ山となれだ。頑張ろう。
*1: 編著者 渡辺三枝子「新版 キャリアの心理学[第2版]キャリア支援への発達的アプローチ」(ナカニシヤ出版)
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