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2020-01-31

中高年になっても衰えない「知能」の話

「明らかに衰えるのは80代になってから」の知能もあるという話に元気をもらったので同輩~先輩に共有したく。大久保幸夫さんの本(*1)に紹介されていたシェイエ(K. W. Schaie) の研究によれば、

知能には、新しいことを覚える流動性知能と、経験を活かす結晶性知能とがあり、どちらも25歳を100とした場合、高年齢になっても概ね若年以上の高い水準を保つ

この本に掲載されていたグラフ「知能と年齢の関係」は1980年のものだったので、もっと新しいのがあるかもしれないと思ってネットで調べてみたところ、たどり着いた2013年の情報も、引き続きポジティブでありがたい研究結果、胸をなでおろした。

健康長寿ネット「高齢期における知能の加齢変化」のページ中ほどにある「2.同一の対象者を追跡する縦断研究」によれば、なんと先ほどのシェイエさん、1956年から2005年まで半世紀にわたって、7年間隔で8回、複数の年齢集団(すべての調査回が新しい標本)を対象とする知能検査を行ってきたという。さらに各々に対して、7年ごとに再検査を行ってきたというから、頼りがいある研究者。

ちなみに、このページを著した西田裕紀子さんの解説で、改めて2つの知能の違いを確認しておくと。

▼結晶性知能
個人が長年にわたる経験、教育や学習などから獲得していく知能(言語能力、理解力、洞察力などを含む)

▼流動性知能
新しい環境に適応するために、新しい情報を獲得し、それを処理し、操作していく知能(処理のスピード、直感力、法則を発見する能力などを含む)

西田裕紀子さんが先のページで挙げているポイントを2つ、まずは手みじかに列挙。

●結晶性知能である「言語能力」がピークを迎えるのは、なんと60代!

●流動性知能を含むその他ほとんどの知能が55~60歳頃までは高く維持される

さらに、このページに掲載されている「図3:縦断研究による知能の加齢変化」のグラフを食い入るように見ていると、6種類の知能の加齢による変化を表した折れ線ぐあいが、ざっと3パターンに分けられる気がしてくる(しろうと目)。

【Aパターン】25歳を頂点に下り坂、ではあるものの、下降線はなだらか。明らかに衰えてくるのは60歳過ぎてから(数的処理、知覚速度)

【Bパターン】25歳以降も多少の上り調子~維持が続く。明らかに衰えてくるのは60歳過ぎてから(推論、言語性記憶)

【Cパターン】25歳以降も調子よく伸びていき、空間認知は53歳がピーク、言語理解に至っては67歳がピーク。25歳レベルを明らかに下回ってくるのは80歳を超えてから(空間認知、言語理解)

Cパターンの、なんてワンダフルなこと。でも、いずれにしても、けっこうな老齢まで、けっこう元気なんである。ものによっては、25歳と同等か、それを上回る知能を米寿まで維持できる勢い。

といっても、頭を冷やして考えると「個人差がある」というのは言うまでもない話なのだけど…。

それでいうと、先ほどの大久保幸夫さんの本に、「あくまで仕事を継続している限りにおいて言えること」であって、「一年を超えるようなブランクをつくってしま」うと急速に落ちると考えられているそう。時間の使い方、頭の使い方、生き方次第というのは、さもありなん。

年齢・年代でひとくくりに語れることって、歳をとればとるほど少なくなっていくんだろうなぁと思う。四十も過ぎたら、もう「年相応」も何もなく、健康に、楽しく、社会と調和して、知性をもって、個性的にやっていけるのが幸せだな。そのためにも、体も頭もブランクをあけずに使っていかないと。

*1: 大久保幸夫「キャリアデザイン入門[II]専門力編<第2版>」(日経文庫)P173

2020-01-30

「Web系キャリア探訪」第18回、負も正の機会に変えていく

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第18回が公開されました。今回は、プロミュージシャンから音楽学校の広報宣伝に職業を転じた後、劇団四季で2年、良品計画で11年と事業会社でキャリアを積み、現在は顧客時間でクライアントのデジタルマーケティングを支援する風間公太さんを取材しました。

伝説のTwitter企業アカウント“中の人”の先駆け。「誰と働くか」を基準に新しいキャリアに挑戦

2000年代、各社がデジタルでできることをどう本格的にマーケティング活動に取りこんでいくのか試行錯誤しだした時期から、ど真ん中で企業の広報宣伝の現場に立ち続けてキャリアを積んでこられた風間さん。音楽、教育、エンタメ、小売業を渡り歩き、先駆者的かつ、地に足ついた挑戦と適応の日々、大変興味深く伺いました。

すごく率直にお話ししてくださる中には、「フリーミュージシャンだけでは食べて行けず」とか、「仕事があまりおもしろく感じなくなって」といった発言もあるのですが、そうした自分を正面から受け止めて、新しい展開を作り出していくエネルギーも素晴らしいし、選ぶ道筋にコンセプトが立っているところも聴きごたえがありました。

一見ネガティブな状況、自分のありようも、会社への不平不満や自分の不遇を嘆くだけで心のうちを充満させることなく、目線をあげて、自分より会社よりもっと外に目を向けてみることで、まったく別のチャレンジを外から調達することもできたりする。

と言うとちょっと抽象的ですけど、そういうキャリアデザインの醍醐味みたいなものも感じ入る取材となりました。お時間あるときに、ぜひご一読いただければ幸いです。

 

2020-01-16

似て非なる「スペシャリスト」と「プロフェッショナル」

「特定分野に専門性をもって働く人」という意味で共通イメージはあると思うのだけど、専門化の向かう先に実は大きな違いがある「スペシャリスト」と「プロフェッショナル」という話。

専門性を活かして働きたいという場合、スペシャリストの方では、この先なかなかつぶしがきかないのではないかと思い、2つの違いについてしたためてみることにした。

ちなみに、この分類はV.A.Thompson氏による「専門化の類型」らしい。私個人的には、この2つの方向性を見分ける分別さえつけば、その呼び名にさしたるこだわりはないので、「自分はここでいうプロフェッショナルの意味をもって、スペシャリストという言葉を使ってきたし、これからも使い続けていく!」という人は、それはそれで、そういうことで、斧をおいて穏やかな気持ちでおつきあいください。

大久保幸夫氏の著書(*1)によれば、スペシャリストとプロフェッショナルは混同されやすいけれども別物とのこと。頭の整理がてら起こしてみたのが、次のスライド(箇条書き以下、私の考えも混入している)。

Photo_20200116185901

スペシャリストは、領域があらかじめ定義された仕事の一部を担当し、一定水準に達すると、その先の成長はスピードや正確さに限定される、一つの業務に精通する道。

対してプロフェッショナルというのは、専門性が高まるにつれ、自分で概念的な定義を加えながら自分の仕事や役割も上書きし、広がりや深みをつくりだして成長していく、終わりなき道。

と対比して2つ並べてみると、左方向のスペシャリスト的な専門化に向かうと、たいそう危ういなぁというふうに感じられる。

「一定水準の専門性をもって、一人前と呼ばれるようになりました。その後も、そのスピードや正確さを絶えず磨き上げてスキルアップしています」というだけの専門性では、その領域がなくなるや息の根が止まってしまう。

エリア固定というのが危ういのだ。地名がつくような領域は早晩、若者に取って代わられてしまうなり、自動化されて人間の仕事から取り上げられてしまう恐れがある。

地名がつくエリア=名前がつく職業ということは、それなりの労働市場があり、そこに今のところそれなりの人件費が割かれており、そこを無人化できたらコスト効率がいいなとか、その無人化を一極集中で預かるサービス作ったら一儲けできるなとか、誰かが思いついて実現しようと企むエリアだ。

その領域をカポッと、どこかのグローバルカンパニーに持っていかれたら、そこの労働市場は一気に沈没する。

そういう話じゃなくても、こういう変化の激しい時代には、今まで無法地帯だった領域に法整備が入って、今の仕事が数年以内に違法行為になるみたいなことも想定されるし、違法ならずともモラル違反になって実質まともな仕事でなくなることもある。人の価値観は変化するし、社会の常識も塗り替えられていくから、そういう意味でも、いつまでも市場ニーズが安定している仕事領域はない。

狭い専門領域に安住して、引っ越しを想定外にしていると、そこが消失したときに、にっちもさっちもいかなくなる。

ガラケーやFlashコンテンツの顛末、ネット広告の趨勢に思いを馳せつつ、思う。自分の役割・仕事領域を「私の専門はこれだ!」と絞り込んで固定してしまうのはリスキーである。

市場変化に応じて活動領域そのものを拡張したり軸足を移したりして、自分の役割・職域・職能を上書きし続ける人。エリア固定せず、上でいうプロフェッショナル方向に専門化の道を進む構えでないと、専門性を活かしたキャリア道は厳しそうである。

能力を階層的・複合的に構えて、表層が取られても足元は堅い、この範囲は奪われても隣りのエリアに活動拠点を移せるという職能を構築していくキャリアデザインが大事というか。

それはもう、勤め先に依存的ではなかなか難しくて、現実的には個人が生存戦略としてやらざるを得ないというか。そういうところを意識してクリエイティブ職のキャリア開発をサポートしていくのが自分の仕事なんだという心持ち。

*1: 大久保幸夫「キャリアデザイン入門[II]専門力編<第2版>」(日経文庫)

2020-01-13

さようなら、自己実現。自己はそこにない

仕事始めの1月6日、会社の勤怠管理システムから「リフレッシュ休暇が付与されました」という通知メールが届いた。私の勤め先は、勤続5年ごとに5日間のリフレッシュ休暇が付与される。

私はこれが3回目、つまり丸15年この会社に在籍していることになる。ということに、このメールで気づかされて、そっちのほうにびっくりした。この1月から勤続16年目に突入である。

20代に4回転職して、今の会社は5社目。ここに転職してきたときは、まだ20代後半だった。そこから30代まるまる、40代の今もって在籍中、たいそう長いことお世話になっている。

昨年10月に部署異動して、久々に自社の中核事業に仕えるようになったし、これまでとは意識を変えて…会社の事業展開にも寄与するかたちで社会貢献を自分なりにやっていけたらと思う新年。当たり前すぎるけど。

秋の異動では、2つの大きな転換があった。一つは、主な支援対象がクライアントではなく社内に向いたこと、自社やグループ会社の従業員、派遣スタッフになったこと。もう一つが、能力開発だけでなくキャリア開発の支援に、注力分野を広げて活動しだしたこと。これまでもゼロではなかったけれど、明らかに能力開発の方面に時間を割いていた。

というわけで秋口からは、キャリア関連の文献に目を通すことも増えたのだけど、年始に再読して目に止まったのが「自己実現」という考え方に関する言及(*1)。

「自己実現」って言葉は、「なぜ働くのか?」の選択肢に「自己実現のため」とあったりして、キャリアを語るときによく出てくる言葉だけれども、これは20世紀的で、とりわけ変化の激しい21世紀は「自己構築」にコンセプトを置き換えたほうがいいのではないかという話。

自己実現という考え方には、中核となる自己はすでに個人の中に存在するものであるという前提がある。しかし、21世紀においては(略)、基礎となる自己とは前もって存在するのではなく、自己を構築することが生涯のプロジェクトであるという考えへの置き換え

が必要ではないか、というメッセージ。

なんとなくよそから持ってきた言葉を借りて、自己実現のために仕事しているなんて軽々しく使ってしまいがちだけど、「自分は(努力もなしに)何かをあらかじめ持っている」感に懐疑心を向けてみるのは、なかなか健全な眼差しだなと思った。

私は、自己実現のために仕事するって思った記憶がなく、たぶんそういう志向性ではないのだけど…。ただ、近くに書かれていた、この一節には共鳴するところがあるし、いい考え方だなぁって思った。

自己とは一つのストーリーであり、自己を一連の特性によって定義される静的な実態とは捉えない

キャリアカウンセラーとして誰かの相談にのっているときにも、その人の話の中にストーリーを見出して、自分の解釈を話して聴かせてみることで、その人の活動の意味づけを一緒に検討する働きをしていることがわりにあって、なので、ストーリーっていう表し方は、なんかしっくり来るのだった。

と、そんなこんなで、今年も人から大いに学び、よく噛んでよく揉んで自分の内側を豊かに耕しつつ、人にも事にも素直に実直に向き合い、自分で考えられるかぎりを考え抜いて、伝えたい人に伝えたいことが伝わるように言葉を大切に表し、相手からのフィードバックを真正面からきちんと受け止めて、物ごとを前へ展開し、行けるところまで行ってみて、あとは野となれ山となれだ。頑張ろう。

*1: 編著者 渡辺三枝子「新版 キャリアの心理学[第2版]キャリア支援への発達的アプローチ」(ナカニシヤ出版)

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