大きな街の、小さな親切
都心はターミナル駅を筆頭にして、ちょっと困っている人との遭遇率が非常に高い。目線を周囲に向けて歩いていれば、一日に一度はあっという場面に遭遇する。そこで、さっと手助けできれば一日一善くらい、たやすく達成できるレベルで、ちょっと困っている人に遭遇する。
人助けをさほど特別なものととらえず日常的にしている人は、道案内をしたとか、切符を買うのを手伝ってあげたとか、拾い物をして届けてあげたとか、優先席じゃなくても席を譲ってあげたとか、そういう親切をいちいちSNSに書き込んだりしない。
ときどき、そうしたことがSNS上で話題になるけれど、小さな親切の多くは、ネット上に記録されていないのだろうと思っている。不親切のほうが記録化されやすいのでは?とも。
小さな親切を当たり前にする人は、特別なことをしたと意識に刻んで反芻することもなく、あちこちに誇らしげに語ることもない。だけど日々そうしたことは、街のいたるところで実はあるのじゃないかな。私はそんなふうに東京をみている。
週末に会った同い年の友人は、そういうことを当たり前の所作としているような人で、そういう生き方をして歳を重ねてきた友人と話していると、とてもよい刺激をもらって、快いものが心のうちに浸透していくのを感じる。
私はまだ、道半ばにいる。あっと気づくと、さっと動けることは多くなったけれど、まだ自分の中で、よいしょって気持ちを起き上がらせて取りかかるようなこともある。躊躇して、結局動けずじまいになってしまうこともある。
それでも、ずいぶん変化しているのは確かだ。
以前は、街中で人助けするなんて1ヶ月に一回あるかないかくらいだった気がする。けれど、少し前を振り返ると1週間に一度くらいになっていて、そういえば最近はというと2日3日に一度くらいはやっている感じだ。
駅の改札口で困っている観光客を誘導したり、白杖を手にきょろきょろしている人に声をかけたり、ものを拾って届けたり、駅中や街中でなんやかんや、ちょいちょいやっていることに気づく。
そんな頻繁にあるかって話だけど、とにかくすれ違う人の数が多いし、土地に不慣れな人の行き来も多いから、都心の駅とか街とかって驚くほどそういう場面との遭遇に満ち満ちているのだ。
目を光らせてすべてに手を出していったら、いつまでも自分の目的地に到着できないんじゃないかとすら思う。だから自ずと、困っている人に無反応になっていってしまうとも言えるかもしれない。
今は、「よいしょ」くらいの感覚を覚えながら手を出すこともあれど、自然と気づいたら声をかけていることも増えてきたし、どっこいしょとか、よっこいしょってレベルで意を決して親切な行いに挑む心持ちもなくなった気がする。完成形まで、もう少しだろうか。
あとは慣れの問題という気もする。過去経験したのと同じようなシチュエーションだと無意識に手が出たり声が出ているのだけど、新しいシチュエーションだと検討モードに入ってしまったり。
でも、そのシチュエーションも対応レパートリーが増えていくと、さして似ていない状況下でも、あっ、さっ、ぱっと動ける応用力がついてくるらしい。こういうのにもキャズム超えみたいなタイミングがあって、一気に爆発的な成長を遂げる、とかあるのだろうかと期待してしまう。
細心の注意を払って探しまわる気合いもなく、毎日一日一善を成し遂げるぞ!という志しもない。ただ普通に日常生活を送って街中をてくてく歩いている中で、困っている人に遭遇したら自然とそれに気づける人でありたいし、あっと気づいたら当たり前に、さっと動ける人でありたい。
問題が大きくなった先に勇者が現れて人々を救う物語より、小さな親切をする街の人がそこかしこにいて問題が大きくなる前に互いが困りごとを摘みあっていく、そういう物語のほうが、実際に日常を営む街の住人としたら、断然いいと思うんだよな。地味だけど、みんなが主役だ。
まずまず、いい調子である。このまま自分の当たり前をアップデートできますように。
« 答えは、人との対話の中にある | トップページ | [読書メモ]インタフェースデザインの心理学 »
コメント