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2019-10-24

「Web系キャリア探訪」第15回、現代版しなやかなキャリアの歩み方

インタビュアを担当しているWeb担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第15回が公開されました。今回は、Chatworkでプロダクトデザインを手がける守谷絵美さんを取材しました。

「デザインへの情熱は途絶えない」
WebサイトのデザイナーからWebプロダクトのデザイナーに転身した「しなやか」な生き方

守谷さんとは、ずいぶん前からお知り合いなのですが、じっくりお話しする機会がなかなかもてずじまいで来ていたので、今回たっぷりお話を伺えて大満足でした。

Webデザイナーからプロダクトデザイナーへ転身する、しなやかで自然体のキャリア話には、無理なく取り入れたいポイントが詰まっていました。

また、キャンペーンページ制作に感じた虚無感とか、3.11を契機に変わりゆく広告やデザインまわりの価値観とか、時代背景とともに自身のキャリアを振り返って、手探りで言葉に表していく感じが読みどころだなと思っています。

聞き手の森田さんがまた、当時の業界全体の空気感のようなものを関連づけながら合いの手を入れて、守谷さん個人のキャリア話に奥行きをもたせているのが、よい感じです。

デザイナー職に限らず、「現代版のキャリアの歩み方」のポイントがたくさん詰まっていたなぁとも、取材後に振り返りました。その辺りを、最後の「二人の帰り道」(編集後記のような文章)にしたためましたので、最後までおつきあいいただければ幸いです。お時間あるときに、ぜひ。

2019-10-20

「内容より、まずデザインをどうにかしましょうよ」と推したいときの説得材料

自社のウェブサイトをテコ入れしたいとき、「コンテンツが先か、デザインが先か」という問題が浮上したとする。一気に両方をどうにかすることはできない。優先順位をつけて、「今期はこっちをやって、そっちは来期予算でやりましょう」と、時期を分けて取り組まなきゃいけない、としよう。

そのとき、コンテンツを見直したい勢と、デザインを見直したい勢が出てくる。話し合いは平行線、互いに引かず、根性比べの様相。

とまでややこしい状況じゃなくても、一人の頭の中で、どっち先行で手をつけるべきかを根拠づけなきゃいけないシーンはあるかもしれない。ないかもしれない。よくわからない…。が、もしあったとしたら、次の研究結果は、話し合いを建設的に進める役に立つかもしれない。

エリザベス・シレンスの研究チームが、高血圧症の患者を被験者に、高血圧に関する情報をウェブで探してもらったところ、こんな研究成果が得られた。(*1)

人はまず、信用できないサイトを「デザイン」でみて排除してから、残ったサイトについて信用に値するかどうかを「内容」をみて判断するという。

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確かに、自分のウェブ検索行動を振り返ってみても、何か調べものをするときは、Google検索で上位にあがってくるページの数々をざざざーっとタブで開いていった後、まずは「信用できない」第一印象を受けるところを削って、絞り込み作業をしていたりする。フォントやレイアウトや色といったデザインから受ける漠とした印象から、まともそうで読む気がするところを厳選してから、内容を読み込んでいくステップを踏んでいる気がする。

とすれば、「デザインのテコ入れが先行」ということになる。

コンテンツの充実を先行したところで、デザインに問題があれば、まず見てもらえず意味がない。デザイン上の問題を先行して解決するのが賢明でしょう、という話。

とはいえ、「デザインの問題」が致命的なものでないかぎり、そう話は単純じゃないんだろう。デザインもそこそこ、コンテンツもそこそこというときに、この話がどれくらい使えるものかという現実問題は頭に浮かぶけれど、まぁ何かに使えることもあろうかなと、ちょっとスライドにしてみた次第。

これを踏み台にして、定量調査として「アクセス解析すると、〜から来訪したうち○%の人が1ページ目で離脱しているんですよ。見た目の第一印象で「信用できない」と判断されていることが懸念されます」というのとか。

定性調査として「同様の調査を、当社の事業領域をテーマにユーザーテスト形式でやってみたところ、○%の人が当社のサイトを「信用できない」と判断して1ページ目で離脱してしまったのです」とかいうのを入れて、肉づけていく感じなのか。

世の中そんな単純に話は運ばないのかもしれないけど、何かの検討の一助になればということで。

*1: Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

2019-10-09

[読書メモ]インタフェースデザインの心理学

スーザン・ワインチェンク著「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(*1)を読んでいる。翻訳本が出たのが7年前になるのだけど、今でも増刷を重ねている名著として知られる(のに今はじめて読んでいる)。けど、これは本当に名著だ!(遅)

おもしろく、わかりやすく、しっかりした根拠をもって、インタフェースデザイン実務に役立つ100の指針を丁寧に解説しているところが素晴らしい。

一言で言えば、そういうことなのだけど、この本のすごいところを個人的にもう少しくどくど書き連ねるなら、書いてあることを、この本づくりの中で体現して、手本として成立させているのがすごい。

この本の読書体験をもって、読者はその実践例を目の当たりにし、その指針を取り入れることの効果を十二分に体感できる仕立てになっている。つまり、この本のインタフェースが素晴らしい。

副題に「ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」とある通り、この本は心理学の知見を「ウェブやアプリ」を作るのに役立つエッセンスに落とし込んだものなので、全部が全部、「本」という体裁に持ち込めるわけじゃない。けれども、本にも共通するエッセンスを多く含んでいて、それが余すところなく、この紙面で体現されている。

あらゆる標題や見出しが洗練された言葉で付けられているし、各項目のポイントは4つ以内に整理されて簡潔明瞭に示されているし、具体的な言葉や絵を見せてわかりやすく&記憶に残りやすく例示する工夫も随所にあるし…。

読者である私は、書かれている指針そのものに理解を深められるのはもちろんのこと、この紙面でもそれが実践されているからこそ、私の中に今この深い理解が成立しているのだという重層性に思いを馳せ、インタフェースデザインの心理学に基づく指針に倣うことの価値を実感させられる作りになっている。

10章100項目にわたる指針は、1項目2〜3ページくらいで小気味よく語られていくのだけど、私がこれまで読んだ中で最も心打たれた項目が、「人は物語を使って情報をうまく処理する」である。この項目は、こんな書き出しで始まる。

何年か前のある日、筆者はユーザーインタフェース関連のデザイナーが集まるセミナーの講師を務めました。部屋は満杯でしたが、参加したくもないのに上司の指示で参加している人がほとんどでした。

こんなふうに、「いきなり理屈」ではなく「著者の物語り」から、新たな項目が書き起こされている。

物語は、この項目の中で示されている通りに、「場面設定、登場人物、状況や(主人公が立ち向かう)障害を聞き手に説明」していく流れをたどっている。読者の私は、これを読んで「筆者はこの後、やる気もない参加者にどう立ち向かっていくのか」と、物語の次の展開が気になる。

それで自然と、その先を読み進めていく。すると、筆者が「物語」の力を使って、参加者の注意を引きつけ、このセミナーを成功におさめる着地をみる。その様子を、私たち読者に物語った後、こう続ける。

さて、ここまでの話も立派な「物語」であることに気がつきましたか?物語には説得力があります。相手の注意を引き、その後も気をそらさせません。しかし、それ以上の力もあります。物語は、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝えてもくれるのです。

ここまで読み終えたとき、私は今しがた筆者の物語を読んだ体験をもって、物語には説得力があること、相手の注意を引き、その後も気をそらさせない力があること、人が情報を処理するのを助け、物事の関係を伝える力ももつことに、疑いの余地なく腹落ちした状態になっている。

しかも、こうした物語の挿入は、この「物語」の項目のところだけにとどまらない。100の指針のいろんなところで、著者の物語は書き起こされ、挿入されている。そんな書き出しに出会うたび、厚ぼったい本だけど、読み物を楽しむようにページをめくっていける物語の力を、読者として体感する。

自身の読書体験を通じて、「あぁほんとだ、筆者がいうとおりだ」と思う。「物語は人が情報を処理するのに適した自然な形式」であり、「物語を使えばわかりやすく、興味深く、記憶しやすいものになる」という物語の効果を、ひしひしと感じるのだった。

いちいちそれぞれの指針に自分の物語をこしらえるなんて、実に大変な仕事である。この重層的で、丁寧な本づくりに感服する。

そんなわけで、この本は私にとって、一冊で三重においしい本だった。まず、自分がサポートする対象の人たちが学ぶべきサイトやアプリのインタフェースデザインについて学べる(支援対象の学習テーマ)。

次に、私こそが学ぶべきインストラクショナルデザイン(私自身の学習テーマ)とも領域がかなりかぶるので、そこの指針としてもおさらいや知識補完ができる。

さらに先に述べた通り、この本自体の読者に対するインストラクションが見事で、事例として素晴らしい。何を具体例に示して納得を得るか素材選びもドンピシャだし、説明にどんな言葉を用いるかもシャープで、教え方や伝え方の手際も良く、素晴らしい学習体験だった。

ちなみに、まだ少し先が残っているけれど、今のところ(ラジオリスナー的に)この本の中で一番テンションが上がったのは、「人はどう見るのか」という章の中にあった一節。

あるものを実際に知覚しているときよりも、それを想像しているときのほうが視覚野の活性度は高くなります[Solso 2005]。活性化する領域は同じなのですが、想像しているときのほうが活性度が高いのです。ロバート・ソルソの説によると、刺激となる物体が実在しないため、その分、視覚野が奮闘しなければならないとのことです。

「実際にものを見ているときより、目の前にものがない状態で想像しているときのほうが、脳の視覚野は活性化している」というのだ。全ラジオリスナーにシェアしたい!と思った。

Susan Weinschenk(著)、武舎広幸+武舎るみ+阿部和也(訳)「インタフェースデザインの心理学 ウェブやアプリに新たな視点をもたらす100の指針」(オライリー・ジャパン)

2019-10-08

大きな街の、小さな親切

都心はターミナル駅を筆頭にして、ちょっと困っている人との遭遇率が非常に高い。目線を周囲に向けて歩いていれば、一日に一度はあっという場面に遭遇する。そこで、さっと手助けできれば一日一善くらい、たやすく達成できるレベルで、ちょっと困っている人に遭遇する。

人助けをさほど特別なものととらえず日常的にしている人は、道案内をしたとか、切符を買うのを手伝ってあげたとか、拾い物をして届けてあげたとか、優先席じゃなくても席を譲ってあげたとか、そういう親切をいちいちSNSに書き込んだりしない。

ときどき、そうしたことがSNS上で話題になるけれど、小さな親切の多くは、ネット上に記録されていないのだろうと思っている。不親切のほうが記録化されやすいのでは?とも。

小さな親切を当たり前にする人は、特別なことをしたと意識に刻んで反芻することもなく、あちこちに誇らしげに語ることもない。だけど日々そうしたことは、街のいたるところで実はあるのじゃないかな。私はそんなふうに東京をみている。

週末に会った同い年の友人は、そういうことを当たり前の所作としているような人で、そういう生き方をして歳を重ねてきた友人と話していると、とてもよい刺激をもらって、快いものが心のうちに浸透していくのを感じる。

私はまだ、道半ばにいる。あっと気づくと、さっと動けることは多くなったけれど、まだ自分の中で、よいしょって気持ちを起き上がらせて取りかかるようなこともある。躊躇して、結局動けずじまいになってしまうこともある。

それでも、ずいぶん変化しているのは確かだ。

以前は、街中で人助けするなんて1ヶ月に一回あるかないかくらいだった気がする。けれど、少し前を振り返ると1週間に一度くらいになっていて、そういえば最近はというと2日3日に一度くらいはやっている感じだ。

駅の改札口で困っている観光客を誘導したり、白杖を手にきょろきょろしている人に声をかけたり、ものを拾って届けたり、駅中や街中でなんやかんや、ちょいちょいやっていることに気づく。

そんな頻繁にあるかって話だけど、とにかくすれ違う人の数が多いし、土地に不慣れな人の行き来も多いから、都心の駅とか街とかって驚くほどそういう場面との遭遇に満ち満ちているのだ。

目を光らせてすべてに手を出していったら、いつまでも自分の目的地に到着できないんじゃないかとすら思う。だから自ずと、困っている人に無反応になっていってしまうとも言えるかもしれない。

今は、「よいしょ」くらいの感覚を覚えながら手を出すこともあれど、自然と気づいたら声をかけていることも増えてきたし、どっこいしょとか、よっこいしょってレベルで意を決して親切な行いに挑む心持ちもなくなった気がする。完成形まで、もう少しだろうか。

あとは慣れの問題という気もする。過去経験したのと同じようなシチュエーションだと無意識に手が出たり声が出ているのだけど、新しいシチュエーションだと検討モードに入ってしまったり。

でも、そのシチュエーションも対応レパートリーが増えていくと、さして似ていない状況下でも、あっ、さっ、ぱっと動ける応用力がついてくるらしい。こういうのにもキャズム超えみたいなタイミングがあって、一気に爆発的な成長を遂げる、とかあるのだろうかと期待してしまう。

細心の注意を払って探しまわる気合いもなく、毎日一日一善を成し遂げるぞ!という志しもない。ただ普通に日常生活を送って街中をてくてく歩いている中で、困っている人に遭遇したら自然とそれに気づける人でありたいし、あっと気づいたら当たり前に、さっと動ける人でありたい。

問題が大きくなった先に勇者が現れて人々を救う物語より、小さな親切をする街の人がそこかしこにいて問題が大きくなる前に互いが困りごとを摘みあっていく、そういう物語のほうが、実際に日常を営む街の住人としたら、断然いいと思うんだよな。地味だけど、みんなが主役だ。

まずまず、いい調子である。このまま自分の当たり前をアップデートできますように。

2019-10-07

答えは、人との対話の中にある

部署異動して1週間。実質は10月に入る少し前から、社内の仕事比率がずいぶん高まっているのだけど、それとあわせて、自分が社内でめちゃめちゃしゃべるようになっていることに驚く。この変化をもって、わりと仕事ががらっと変わった感を覚えている。

体感的には、この1週間で、自分の過去平均1年分の話量に達したといってもいいくらい。前の部署でどんだけしゃべっていなかったんだ…という話だけど、ずっと自分の話し相手は、社外のお客さんや、参画くださる講師の方がメインだったので、社内ではかなり寡黙だったのだ。

今は社内がメインなので、すぐそばにいろんな人がいるし、サポートする対象もいろいろ部署をまたぐし、近くにいる分、あぁしたらいいかな、ここはどうにかしたほうがいいんじゃないかなと、思いつく問題点・仮説・アイデアの量も増える。

取引・契約の云々関係なくさっさとやり始めたり声かけたりすれば進むことも多いので、意見出してなんぼという感じもある。

特に初めは、こちら側が出せるものを全力で出していかないと、向こうも私がどう使いものになって、どう使いものにならないか判断もできないのだろうと思うので自然と、懸念点もアイデアも仮説も言いまくり、しゃべりまくりの1週間になった。狙ってそうしたというより、自然体でそうなっていただけだけど…。

思うところを惜しみなく率直に話して、向こう側の意見も聴きまくって、腹割って話し合って、そこからこれというものを作り出すのが仕事だと思うのだけど、注意しなきゃいけないのは、相手には相手の仕事の流儀や常識というのがあって、いきなり腹割って話し出す人ばかりじゃない。考えることの量も解像度も方向性も違うし、今は自分がまだ見えていない相手に対面していることを重々自覚して、丁寧に論点をすり合わせて話を聴きだしていく、相手のことを理解していくという時間を大事にしないとなとも思った。

最初から思っとけという話だが、わりと野生の勘で生きているので、分け入って相手との対話の中で感じ取って改めるところも多分にあるのは仕方ない。これからちょっと心がけていこう。

自分が思うことが絶対じゃないし、意見を出しているだけなので、もっといいアイデアがあるかもしれないし、私のはヘタレな考えの可能性も十分にある。それでも、そのボールを投げてみたことをきっかけにして議論が深まったり、論点が整理されたり、新しいアイデアが出てきたりすれば御の字だ。

だけど、ぱっと思い切って出した意見が、「じゃあ、それで」と、そのまま通っちゃうようであれば、やり方を変えたほうがいいかもしれない。私が論破したいと思ってわーわー言っていると思われては、相手が私を勝たせてあげなきゃと思って引いてしまうかもしれないし、これまでのその人の仕事環境、仕事相手、その人が大事にしていること、大事にしていないことによって、私のふるまいの受け止め方もさまざまだろう。よい話し合いが深まるように、よい答えが生み出されるように、相手との対話の中で、自分のふるまいを見直していかないと。

先日、仕事の下調べでちょっと生身のマーケターの話に触れたいなぁと思っていたところにイベントの案内を見かけたので、「多様化するマーケターのキャリア」と題するイベント(*1)に参加してきた(といっても、前半のパネリストのお話だけ聴講して失礼した)のだけど、そこで登壇者の立川麻理さんから、こんな言葉を聴いた。

答えは、人との対話の中にある。
自分の過去の経験の中に閉じないこと。

確か、彼女が最近ドイツに足を運んで参加してきた研修か何かで学んだことだと言っていた気がするけれど(うろ覚え…)。ともあれ、今の自分に響く、いい言葉を聞かせてもらったなと温かく胸に残っている。

自分の中に閉じていないで、答えを相手との対話の中に見出そうとする姿勢を、新しいクライアントを前に、誠実にやっていこうと思う。

*1: SOCIAL INNOVATION WEEK SHIBUYAとの連動企画で、マーケターキャリア協会が主催したMCA Meet Up #02 。2019年9月18日の晩に渋谷ヒカリエ内で開催

2019-10-04

「○○人材の空洞化」問題を語るときの切り口

「○○できる人がいない」「○○人材の空洞化」といった問題提起がされるとき、話し合う人たちの間で、どの切り口で不足を問題視するのか前提をすり合わせないと、いまいち議論が噛み合わずに時間を消費しちゃうことがあるのかなぁと思って、オーソドックスな切り口を4つ整理してみたペライチ資料。

これは、Information Architecture / Information Architectの仕事を取り上げて考えたので、IAと入っています。ちょっとしたものですが、皆さまの応用力頼みで、どこかしらで何かしらになるかもと、とりあえずネット上にシェア。

Ia4

どこに実質的な問題が生じているのか。

1.この領域で「デキる人」が絶対的に少ないという問題なのか
2.チームの役割分担がうまくいっていなくて、そこがワークフローから抜け落ちちゃっている問題なのか
3.どこの領域を、どこまで守備範囲としてやるべき(とかできているかどうか)という要求水準が人によってずれていて問題視されているのか
4.どこの工程を、どこまで守備範囲としてやるべき(とかできているかどうか)という要求水準が人によってずれていて問題視されているのか

など。もっと別の切り口もあるかもしれないけど、ともかく、いろんな切り口があるから、この辺りを整理して論点を認識合わせすると、ちょっと話し合いがスムーズになるかも?ならないかも?自信は、ない。が、試みることは大事。ということで、お茶を濁す。

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