元どおりになるものなんてないのよ
新宿にある、ビル丸ごとが本屋さんの紀伊国屋書店は、文庫本コーナーだけでも大家族がゆったり暮らせる広さを有する。そんな中にあって、POP広告が目を引き、お薦め本として平積みされていた新刊の1冊を、ほとんどジャケ買いでレジに持っていった。
本を差し出したとき、レジの店員さんが少しばかり顔をほころばせたような気がしたのは、気のせいだったのかどうなのか。ふと、もしかして、この人があのPOP広告を書いた人では?と思ったりした。
POP広告の端っこに、作った人の苗字だけでもカッコ書きで添えておいてもらったら、客もレジで書店員さんの名札を見て、にやりとできるのに。その人の薦めるものにヒットが多ければ、POP広告を目当てに本屋を訪れる習慣をもつかもしれないし、書店員への情なりファン心理が育てば、Amazonではなく、その本屋で買って帰る愛着も醸成されるのでは…などと、ぶつぶつ考えながら本屋を後にした。
というわけで、少し前から「戦場のコックたち」という長編小説を読んでいる。文章を読むのが遅いのに短編小説が苦手という、都合の悪い性質…。500ページ強あるのを、のそのそ読み進めている。
いちおうミステリー小説という位置づけのようだけど、舞台は1944年、主人公はアメリカ合衆国のコック兵、海外文学と思いきや作家名は深緑野分(ふかみどり のわき)、ペンネームだろうが1983年の神奈川県生まれとある。
主人公のティムは、ノルマンディー降下作戦で戦地に立ち、戦闘に参加しながら炊事をこなす。戦場暮らしの中で遭遇する"日常の謎"を解き明かしていく推理小説であり、戦争小説でもあり、人間ドラマもあり、人種差別の問題にも丁寧に踏み込んでいる。
次の一節は、主人公の子供時代の回想シーンだが、ここを読めただけで、この本を読んでよかったと思う。
やっと掃除を終えた僕は、泣きながら祖母に「全部元どおりになったよ」と訴えた。けれど祖母はしゃがみ、僕の目線に高さを合わせると、「元どおりになるものなんてないのよ」と言った。
元どおりになるものなんてない。なんて、一言で“本当のこと”を言い得たセリフだろうか。小説にはこうした、この一言を伝えるがために、この物語が背景として存在するのではないかと思うような言葉のひとかたまりが、さりげなく話のド真ん中に埋め込まれている。
物語の中に出てくる「おばあさん」というのは、たいてい名ゼリフをはく。ずいぶん前に読んだ伊坂幸太郎の「モダンタイムス」で、
あなたはまだ実感ないだろうけど、人に会えるのはね、生きている間だけだよ
というセリフを決めたのも、わりとお年を召した女性だった気がする。わりと物語のド真ん中にあった気もする。
不可逆な時間軸にそって生きるほかない私たちにとって、すっかり元どおりになるものなんてないのだけど、ここにつながるのは決して絶望ではない。元どおりに戻せない前提は、それはそれとして腹くくって受け入れて、それを糧なり肥やしにして、新しいもの・こと・関係を作り出していく未来的な広がりを暗に指し示す。そうやって伝わるように、物語が下支えをしている。
ポール・オースターの「幻影の書」の中に、
危機的な瞬間は人間のなかにいつにない活力を生み出す。あるいは、もっと簡潔に訳すなら-人は追いつめられて初めて本当に生きはじめる。
というくだりがある。人って何かの前提条件を正面から受けとめて、それに向き合ったときに豊かな発想力を発揮する。元どおりにはならない現実を受け入れることで、元どおりに戻そうとするのではなく新しいものを作り出せばいいと、過去を割り切り、未来に目線を移して、より豊かに、より楽しく面白くなるように思考を巡らせることができる。
考えることは、今地点からあらゆる方向に解釈を広げ、可能性を広げる潜在能力をもつ。そうやって生きていくのが、人の営みの魅力の一つだ。
中村文則「何もかも憂鬱な夜に」には、
考えることで、人間はどのようにでもなることができる。……世界に何の意味もなかったとしても、人間はその意味を、自分でつくりだすことができる
とある。「考える」ということの尊さに思い巡らす中、ポール・オースター「幻影の書」の一節に。
結局のところ世界とは、我々の周りにあるのと同程度に、我々のなかにもあるのだ。
この一節を読んだことはすっかり忘れていたのだけど、何冊かの本を通じてこの感覚に触れた憶えはあり、私はもう何年も、宇宙と同じ広がりをもって、人間一人ひとりも内側に小宇宙をもっているという感覚をもって生きてきた。
読んだ本の中身は恐ろしいほど短期間に忘れちゃうんだけど…、自分の中にこういう一節一節の意味するところはしっかり刻み込まれていて、私の価値観を豊かにしてくれている気がする。気がするだけかもしれないけど。やっぱりなぁ、小説はちょこちょこ読まないともったいないなって思った。
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