« Youtube番組「とうふメンタルラボ」にスピリチュアルカウンセラーを招いて | トップページ | 組織も個人も「分業型ー統合型」行ったり来たり »

2019-08-25

古い世代が向けるべき、若く優秀な人への眼差し

日経ビジネスの「期待の星」ほど早い決断 辞める理由の大誤解という記事が話題になっていたので読んでみた。

「一般論やステレオタイプから想像される退職理由」といえば、「愛社精神がなく、こらえ性もなく、給与や労働時間に不満で、若気の至りで会社を辞める」と扱われがちだが、「有望株が語る離職理由」は、さにあらず。

ゆえに、優秀な人に残ってもらうための施策として、給与を上げる、残業時間を削る、厳しいノルマやパワハラ的指導をなくす対策だけ講じても、優秀な人ほど、ほんとわかってないんだなと白けて離れていってしまう事案。

じゃあ、有望株は何にウンザリして辞めていくのかというので、記事で挙がっているのは、こんなところだ。

  • 改革せずには沈むこと確実なのに、上の人が改革に非協力的
  • 仕事ができないのに上ばかりみて仕事する人間が評価されて出世頭
  • 会社が本来社会に提供すべき価値とずれた、利益欲しさの経営方針
  • 自分が納得できないもの(相手が求めていない商品)を売らされる、自分なりの正義を感じられない仕事
  • 自分が唯一関心がある業務に異動できるのが20年後と言われた
  • 組織都合の配置転換で、まったく違う部署に異動。一向に専門性獲得できず、社内価値は上がれど、欲しいのは社外価値

まとめとしては、これがまさしく「優秀な若手を組織に定着させるための基本的な考え方」として必要なんだろうなと(青山学院大学経営学部教授の山本寛氏)。

この会社で働き続けても、他の企業で必要とされる能力は十分に身に付く」と社員が思えるようにすることです。仕事を通じて得られる汎用的な能力や専門スキルを押し出し、社員が自分のキャリアを長期的に考えられるようにする。つまり社員の「エンプロイアビリティ」(雇用される能力)を企業が積極的に保証するということが重要なのです。

で、この記事を読みながら思い出したのが、先ごろ読了した小松左京の「日本沈没」の一節だった。

この本、1973年の本だけど、「古い世代が向けるべき、若く優秀な人への眼差し」というのは、戦後と呼ばれた時期からずっと、今も昔もさほど変わっていないのかもなぁと思った。「教養ある原始人」というやつだ。

古い世代の幸長(ゆきなが)は、若い世代の小野寺に対して、ゆたかな時代の「新しいタイプ」の青年というふうに、こんな眼差しを向ける。

(▼は、私が勝手に入れた見出し)

▼一つの職場での実績や、安定したポスト、金銭や地位に執着しない

決して投げやりな仕事ぶりではないにもかかわらず、一つの職場での実績や、安定したポストをいともあっさり投げすて、何の未練もないように次の仕事へうつっていく。金銭や地位についても、また、認められたとか認められないということについても、まるでがつがつしない……。物質や地位に対する執着を持たずにいられるというのは、まさに、「ゆたかな時代」に成長してきたためにちがいない……。

▼「国」「民族」「国家」に宿命的な絆を感じていない(「国」を「組織」と読み替えてみて)

日本人として生まれながら、「国」だの「民族」だの「国家」だのに、暗い、どろどろした、宿命的な絆などまるで感じていない。それでいて、国に対する「貸し借り勘定」はちゃんと意識しており、決して「恩義」を感じていないわけではない。だが、その「恩義」の感情は、民族や国に対して無限責任を感じたり「運命共同体」の逃れられない紐帯を意識したりする形で出てくるものではなく、きわめてドライでクールで、「借り」を返しさえすれば、いつでも自由な関係にはいれるものとしてとらえられているのだ。

ここで注目したいのが、幸長がこの「新しいタイプ」をどう受け止めたのか、つまり肯定的に受け止めたのか、否定的に受け止めたのかという点だ。続きを引用すると…

「強制」や「義務」や「恩義の押しつけ」「忠誠と犠牲の強要」「血縁」など、あのさまざまな紐帯でがんじがらめになっていた戦前までの日本からは、想像もできないような「日本人」が、眼の前にいることをさとって、幸長はちょっとした戸まどいといっしょに、さわやかなものを見たうれしさと、くすぐったい笑いがこみ上げてくるのを感じた。「戦後日本」は、何のかのといわれながら、その民主主義とゆたかさの中から、こういう新しいタイプの青年を生み出してきたのだ。このドライで、クールで、しかも人当たりのいい、人好きのする、おとなの悪魔的な意地悪によってつけられたねじくれた「傷」を負っていない、べたついたところがなく、物質や権力に対する執着もなく、生活に対する欲望も淡白で、さらりとした感じの青年たちは、いわば戦後日本の生み出した傑作といえるだろう。

この新しいタイプを、「さわやかなもの」として「くすぐったい笑い」をこみ上げながら受け止める。「戦後日本の生み出した傑作」とまで評してみせる。私には、これが小松左京が読者に共有せんとする、新しく異質なものを受け止めるときの、あるべき眼差しのように感じられて唸った。

彼らは自分たちを「日本人」であると感ずるより、まず「人間」であると感じており、日本人として生まれたことは、皮膚の色や顔形のちがい、背の高さ、といったような、人間一人一人が持つ、しごく当然な「個体差・群差」としてしか意識していない。彼らは、自分たちを、「日本の中でしか生きていけない」と考えてはいない。地球上、どこへ行っても自分は生きていける、と思っている。生きていくことが、特定社会内における「立身出世」への妄執とつながっていないから、どこでどんな暮らしをしようと、自分の人生を「失敗」したとか、「だめなやつ」だとか考えてみじめな思いをすることもない。──それは、新しいタイプの、いわば「教養のある原始人」ともいうべき人間かもしれない。だが、彼らの闊達さ、寛闊さ、さわやかさを、古い世代の誰が非難できよう。

新しくて異質なものって、まずは抵抗を示し、否定的に見がちなのが人間の性(さが)かもしれない。けれど、一呼吸おいて、意識的に、肯定的な解釈を与えてみようとする試みもまた、私たち人間がもちうる教養・知性というものだよなぁと味わった。小松左京、すごい…。

« Youtube番組「とうふメンタルラボ」にスピリチュアルカウンセラーを招いて | トップページ | 組織も個人も「分業型ー統合型」行ったり来たり »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« Youtube番組「とうふメンタルラボ」にスピリチュアルカウンセラーを招いて | トップページ | 組織も個人も「分業型ー統合型」行ったり来たり »