最近は「寛容になろう」とか「多様性を受け入れよう」という発信がいたるところで見られるけれど、「寛容になろう」というスローガンが、かえって不寛容を生みだしている問題というのがあって、なかなか取り扱いが難しい。
TBSラジオリスナーにはおなじみのジェーン・スーさんが出した対談本「私がオバさんになったよ」*の中で、脳科学者で医学博士の中野信子さんと話している内容が分かりやすい。二人がどんな話をしているか、ざっくりその部分を要約しちゃうと、
「寛容になる」の最善の解は「放置」。「仲良くしましょう」じゃなくて「放っておきましょう」「他人のことには口を出さないでおきましょう」なんだけど、そこを放置できないのが、ヒトの脳にある「社会性の罠」で、仲良くしようとしちゃう。そうすると同調圧力が働いてきて、みんなの和を乱したり、和から外れた人を許さないという閉鎖性が生まれる。結果的に、「寛容」になるつもりが「不寛容」になっちゃってる。仲間意識と排外意識はセット。
というような話。中野信子さんいわく、
実際、仲間意識を高めるためのホルモンをヒトに投与すると、みんなのルールに従わない者に対する攻撃が行われる。つまり、逸脱者を排除したいという気持ちも同時に高まることがわかってます。
とのこと。うん、寛容になるって、「仲良く」じゃなくて「放っておく」のほうがフィットするよなっていうのは納得感がある。わりと自分がやっていることだよなって、読んでいて安堵感も覚えた。
一方で、じゃあこれを皆が自覚して「そうですね、放置がいいですね」って一斉にそっちに振り切ったら一件落着するかというと、話はそう単純ではない。
スーさんが問題提起する。放置ってなるとそれはそれで、干渉しないものに対して人はなかなか愛着を持てない、「自己責任」と突き放しがちになる問題が出てくる。「過干渉しない」と「社会で見守り、助ける」をセットにするのは難しいねって話が展開される。
ほんとに人の世界というのは、どっちつかずのバランスをとって舵取りしていく難しさを抱えるのが常だなと思う。その難しさが面白さや豊かさも生んでいるし、ややこしさや争いも生んでいる。
私も、寛容になる訓練は望むと望まざるとに関わらず人並みにはやってきたけれど、寛容になるって、「放置する」「干渉しない」と近しいところに「期待しない」という態度もあって、あんまり振り切りすぎないで途中で踏みとどまったところに健全な立ち方があるんだろうなぁと思うことがある。
放置する態度をズンズン突き進んでいくと、人に期待しなくなる状態に通じる実感があって、そっちの際に近づきすぎるのも不健全な気がするなと警戒心がわいてくる。
たとえば、人に声をかけたら反応を返してほしいと期待する。ごく一般的なことだと思うのだけど、反応が返ってこない、無視されることが続くと、向こうには向こうの事情があるんだろうというので、苛立たずに距離をとって平静に放置することを覚える。寛容であろうとする。連絡が返ってきたら、あら嬉しいわ、くらいの感じにしちゃうのだ。
そうすると、楽は楽である。期待を裏切られて傷つかなくて済む。でも、そこに安住しだすと、何事も誰からも一切の見返りを求めない、人に期待を寄せない、自分にも期待しない、人から称賛されたいとも思わない、人との関わりを絶っていく…と、先へ先へ進んで頑なになっていく病が見え隠れしてくるのだ。例が極端かな。でも、言わばこういうこと。
寛容になろうとして、自分勝手な期待を人に向けなくなる、それはそれで、いいだろう。でも自分勝手かどうかは常に曖昧だから、境い目がわからないだけに、どんどん寛容さを突き詰めていくと、気づいたときには、あれ、これって寛容な態度であってるんだっけ?ってところに流れ着いていたりする。
途中でバランスを欠いて、何を目指して今どこに自分がいるかわからなくなり、自分の無意識下で働き出した卑屈さとか臆病さとか無知な判断に飲まれて方位磁石がおかしくなっちゃって、だいぶ遠いところまで流されてしまって…みたいなこともあるかなぁと。
まぁ、私はわりと「健全でありたい」欲求が無意識に働くめでたい性格なので、下手に頭使って理屈をこねくり回すより、そこに舵とりを任せているほうが勝手にうまい按配でバランスをとってくれて良さそうという役割分担をしているのだけど、ときどきそこの担当が体調を崩したりすると偏屈おやじ化したりするので、気をつけたいところ。
寛容と不寛容。放置、干渉、期待、見返り。現実世界では、こういう概念・コンセプトが明確に区画整理されているわけじゃない。それどころか、対立する概念とおぼしきものが入り乱れてつながっていたり表裏一体だったりするのが世の常だ。
実際には何の境い目もないぐにゃぐにゃの世界に対して、人が自分都合で名前をつけていて、勝手に名づけて使っているうちに、あれもこれも、さもこの世に人がいるいないに関わらず、もともと存在するかのように捉えてしまっていたりする。
けれど、名前も言葉も概念も、それを分かつ境界線も、どれも人ありきだし、人によっても何を認めて、どういう境界線を引っ張って、何という名前をつけて、あれとこれを区別するかって違う。自分専用のメガネをとおして、自分が指し示したい概念・コンセプトを勝手に知覚して、勝手に自分の解釈を加えているだけだ。
メガネをはずせば、そこにあるのはやっぱりぐにゃぐにゃの境い目ない世界でしかない。自分が自家製メガネをかけて見ていることを忘れずに、自分がどんなメガネをかけて、今何を目指して、どこにいるのか慎重にモニタリングし続けないと、わけがわからなくなってしまう。気づいたときには目指すところと対極に自分が立っているなんてことが簡単に起こってしまう。
抽象と具象世界を行ったり来たり、メガネをとったりはずしたり、人のを借りて見たりしながら、力まず中庸であることを大事にしていきたい。という覚え書き。
*ジェーン・スー他「私がオバさんになったよ」 (幻冬舎)
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