« Youtube番組「とうふメンタルラボ」を始める | トップページ | 「Web系キャリア探訪」第10回、キャリアの棚卸し考 »

2019-04-15

研修運営に明け暮れた跡

先週1週間は、クライアント先に通いづめだった。月曜から金曜まで5日間の新卒社員研修を提供していたのだ。朝8時半に先方オフィスに入って、17時過ぎに片づけて表に出てくると、もう日暮れどき。

最終日の金曜は午前中で研修を終えたものの、自分の勤め先が毎期初に行なっている半日の全社員イベントにそのまま向かって合流し、あわただしい1週間が終わった。

移動距離はさほどでもないのだけど、研修に使うあれこれを詰め込んだキャスター付きバッグを引きずって都心を西へ東へ移動し、地下鉄やらJRやら乗り継いで駅を上り下り、立ち仕事が多かったこともあってか、週末になって腰にきた。ご老体である。

が、快い疲労と元気をもらった。もっとあの準備を念入りにやっておけばとか、この辺のすりあわせを講師ともっと詰められていればとか反省もあるのだけど、そういう考えに及ぶのも、みんなによりよい学習機会を提供したいという欲がわいてこそ。

本番1週間を終えた週末に心にぽかんと浮かんだのは、「あぁ、これが私の仕事の原点だよな」という感慨だった。

私の仕事は、研修の相談をクライアントからもらって、調査分析→企画提案→設計して教材開発→研修運営→レビューと全工程にわたる。講師に委託する以外の仕事領域は自分(とクライアント側)でまかなう小規模なプロジェクト、あるいは自分ひとりで風呂敷をたためる提案しか書いていないとも言えるが…。

そのため時期によって、案件によって、自分がやる仕事領域は変わっていく。それでいうと先週はほぼほぼ「現場の研修運営」という1週間だった。当日にクライアント先に行って、受講者に相対して研修を提供する。

その研修では、これからディレクターやデザイナー、コーダーとして働く人たちのWeb制作技能を基礎固めする研修プログラムを提供したのだけど、「作る仕事」をする人の学習・キャリアを支援する仕事の、まさに今・現場に自分が立っていることに強い引力を感じた。20代の頃からずっと、これが自分の仕事の幹にあることを全身で確認する1週間だった。

後ろからみんなのPC画面をみていると、講師がみんなに同じ働きかけをしても、一人ひとりいろんな画面になって、いろんなものを作って、スピードもさまざまで、どこにこだわるかも様々。どんどん先に進んで、あれこれ応用して好きなものを描き出す人もいれば、テキストをみながら先に駒を進める人もいる。いずれにせよ、みんな作っている。

長方形一つ描くのでも、それをどこに、どんな大きさで、どんな縦横比で配置するかはみんな違う。ど真ん中に置く人もいれば、端っこに置く人もいて、でっかいのもあれば、ちっちゃいのもある。塗りの色も、線の色も太さもバラバラだし、中に書くテキストもそれぞれだし、文字の性格の与え方もみんな違う。

同じようなスーツ姿をしていても、個々のディスプレイには、秘めた個性が浮かび上がってくる。私はこうした光景を後ろから眺めるのが昔から好きだった。

一人ひとりの画面からは、どこで理解がつまずいて困っているかも、わりと窺い知れる。そういう情報を汲み取っては、今サポートに動くべきか、しばらく様子をみるべきかと逡巡する。

少しおいておくと、自分で乗り越えていくこともある。いちいち外野からサポートを入れられてもうざったいだろうし、自分で乗り越えて「なるほど!」と突破する体験を奪いたくもない。私が個別に声をかけることは、遅れをとっていることを周囲に知られる副作用ももつので、安易に自己満足的サポートに手を出すことも避けたい。

講師もちょいちょい進行を止められてはやりづらい。あくまで「受講者の学び」と「講師の教え・関わり」を、より能率化するために黒子として自分が何をすると有効で、何をするとマイナスに作用するかを、複雑な変数をあれこれ考慮しながら、素早く一手に決めて、さりげなくサポートを施す必要がある。割って入って悪目立ちするのは最悪だ。

そんなポリシーをもちつつ、受講者の背後に立っていると、PC実習なんかは1日の間に分岐点が何十回も訪れる。ささっとそばにいって個別に声をかけることもあれば、講師に声をかけて全体進行に手を入れるケースもある。一方、黙って見守ることも多い。

最適解を答え合わせできるものは何もなく、運営者の立ち回りはいつだってすごく難しい。頭と心をフル稼働させて、洞察し、推論を立て、判断し、行動したり、踏みとどまったりを繰り返す。1日の終わりには、地味に一人で勝手に疲労している。

研修に参加すると、現場に立ち会う運営者がいるのを見たことがある人は多いと思うけれど、だいたい、そこにさほどの価値は見出していないのが一般的だと思う。始めと終わりにちょっと話をして、あとは後方で何かあったら声をかけてという感じで着席している、あの人である。管理者なり雑務担当として現場に居合わせている「事務局の人」的な感じ。

研修を運営する当事者の中にも、そういうスタンスでとりあえずその場にいる人を見たことは何度となくある。自分が参加者として受講した講座で、運営者が会場後方でノートパソコンを開き、明らかに他の仕事をやっているのを見たことがあるし、ひどいケースだとそのキーボードの打つ音がうるさくて受講者の集中を欠いていることに気づいていない運営者にも遭遇したことがある。

仕事としての市場性もさしてなく、「私が研修当日に張り付かなければ、いくらかお安くなります」と言ったら、多くのクライアントは「じゃあ林さんは当日いらっしゃらなくて結構です」と言うのではないか。「林さんは研修当日、終日いらっしゃるんですか」とクライアントや講師に聞かれたこともある。「大変ですね」という気遣いで訊いてくれているのだけど、なぜ訊くかといえば、私が、あるいは運営者が当日そこにいる意味を特に見出していないからである。

私も言葉を尽くして、自分がそこでどういう働きをしたいと思っているか、あるいは私の出来不出来を別としても、現場に立ち会う運営者がどういう働きをするのかを説明することはしてこなかった。

なんでだろうと改めて考えてみると、「その仕事に価値がある」ことと、「その仕事にお金を支払うだけの市場価値や、時間を割くだけの意義が認められる」ことは別だと割り切っているから、という気がした。

そういうことって、いくらでもある。あらゆる仕事の価値が、きちんと話せばあらゆる人に理解されるとは、とうてい思えない。人の価値観、物さしなんていろいろだし、説いても説いても伝わらないことってある。話せば伝わることや人もあるだろうけれど、そこにはそれなりの労力や頭脳や説得材料や話力が求められる。

説明が長引いた上に失敗すると、聞き手は不毛に時間を奪われて、はた迷惑に感じるだろうし、白けていくばかり。話し手は話し手で心を消耗する。なにも生産的でない。

となると自分の中で、運営者の立ち回りが学習効果に影響を及ぼすことがわかっていて、それに向けて自分がどうよりよい創意工夫をするかに焦点をあてて頑張れれば御の字。自分が立ち会うことはオプションではなく前提事項として提案すれば、来ないでくださいとは言われないのだし、行ったら行ったで自分なりにいろいろできることはある。

これは、逃げだろうか。もっと、運営という仕事が何を果たすか訴えて、その価値を見積もりに含めるべきなのか。べき論でいったら、まぁそうなんだろうけれど、いやぁ、なかなか、そこに気力がわいてこない…。そうやってさらに自分の腹のうちを探ってみるに…。

自分がタンカを切って価値を説けるほど運営者の働きをできていないのが真因だろうと我が身を振り返る。あれを言えばよかった、あの準備をしておけばよかった、あそこですぐ判断して動くべきだった、あの動きはいらなかったのではないか。そんな反省がごろごろ出てくる。やっぱり自分がまだ運営の仕事を、自分が評価できるレベルでできていないのが一番の課題だな。なんだかいろいろ考えさせられて、春先に姿勢を正してもらえた感じがする。今年度も気持ち新たに頑張ろう。腰痛いけど。

« Youtube番組「とうふメンタルラボ」を始める | トップページ | 「Web系キャリア探訪」第10回、キャリアの棚卸し考 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« Youtube番組「とうふメンタルラボ」を始める | トップページ | 「Web系キャリア探訪」第10回、キャリアの棚卸し考 »