性格診断をやりすぎない理由
私は「MBTI」という性格検査/メソッドを取り扱うMBTI認定ユーザーという資格を持っていて、ときどき知り合いから声がかかると、「MBTIを用いたキャリアカウンセリング」に対応している。
あと最近、企業の方から「MBTIを会社に導入したい(任意で社員が受けられるようにしたい)」との相談があり、それを機に法人向けの「MBTIを用いた自己理解ワークショップ」も用意したので、ご参考まで(ご興味ある方は、お声がけくださいませ)。
MBTIに限らず性格検査のたぐいって、一方に「そんな胡散くさいもの」という反応があり、その対極に「診断ものとあらば、とりあえずやってみる」という層がある。ライトなものだと、Facebookなどには、よくこうした診断ツールのリンクが流れてきて、一時的に流行る。すると、両者の反応が見られる。
私はどっちつかず主義で、両極のどちらにも属さない。極力偏見はもたずに、時と場合に応じて「その人にとって益があり害がない手段」を選べる状態を大事にしたい。なので性格診断とあらば、はなから百害あって一利なしとも思っていないし、手当たり次第やってみるということもしていない。
前者の「そんな胡散くさいもの」という見方に対する自分なりの考えは、前にここで「人の性格をタイプで語るうさんくささ」という話を書いたことがある(これは妥当性や信頼性が検証された心理検査を前提にしたものだけど)。
そこで今回は、対極の「診断ものとあらば手当たり次第やってみる」について、自分がなぜそれをしないのかを書きながら整理してみたい。ちなみに、だいぶだらだらと書いた。最後は全然関係ない吐露になっている気も…。
「自分を理解したい」という気持ちは誰しももっているもので、こうしたものに関心が向くのは、人のごく自然な反応だとは思っている。
そういうものを専門に手がけるなら、とにかくいろんなツールに触れて目を肥やしたほうがいいんじゃないの?そういう探究心って大事じゃない?っていうのもごもっともで、そういう見方もあるとは承知している。ストレングス・ファインダーやCPS-Jなど、過去にやったことがあるものも、いくらかある。
ただ、あまりやらないように、あれもこれも浴びるようにやらないように、というのは肝に銘じている。私が回避したいリスクは、自己概念の肥大化だ。
性格診断ツールの類いは、結果の解釈に危うさがある。数十問の設問に答えてチェックを入れていくだけで気楽にできるわりに、結果として受け取る言葉の影響力は無意識下で強大だったりする。その影響に、ちょっとした遊び気分であればこそ気づきにくくあるのも厄介だ。
まず、こうしたツールの診断結果は、受けた人の可能性やポジティブな機会を提示することに言葉を尽くす。つまり、本人が読んでいて気持ちいい言葉がつまっているのが常だ。自分の興味に寄りそい、自分の価値観にフィットし、自分が受け取って気持ちいい言葉が出力され、自分を価値ある素敵な人として描き出す。
例えば、
あなたは人に教えたり人助けをする活動を好みます。言葉によるコミュニケーション力に長け、人と一緒に仕事をする環境で能力を発揮します。教育や保育、カウンセリングなどの職業に向くでしょう。友好的で、外向的な性格です。
だとか、
あなたは他の人を導いたり、他人に影響を与えられる活動を好みます。人と友好的なコミュニケーションを図ることを得意とし、リーダーシップや説得力を備えています。チームを統率して事業推進する立場で力を発揮します。野心的で外向的、精力的な自信家です。
だとか。
数十問の設問に回答することで、もやんとした自分像を、明快で魅力的な輪郭をもつ人物像に変換して言い当てるように提示してくれることの価値は高い。そこに自分の可能性や機会を見出して、次の一手を検討しやすくなったりする。それは単独でやろうとしても、なかなか難しい。人の性格や能力を表すボキャブラリーって誰もがそんな流暢に出せるものじゃないし、自分の性格となれば尚さらだ。
ただ、こうした診断結果のコメントは、興味や能力や性格がごちゃっと混ざっていたりする。
あなたは教えたり、人助けをするような活動を好むんでしょう。ということは、子ども時代からそういう活動によく参加してきたのでしょう。ということは、きっとその能力も他の人に比べて伸ばす機会を多くもち、実際に人より秀でたものがあるでしょう。さらに伸びるポテンシャルもきっと高いでしょう。
というように「ということは」「きっと」という推測のもとに、本人の興味や価値観が「能力」に発展して「実績」をあげるところまで導かれていて、本人が受け取って気持ちいい人物像に熟していたりする。
けれども、能力の獲得や実績は、その適性を活かして、実際に経験を重ねて、洗練させていった先の話だ。実際に自分がどれくらい、興味を能力に展開できているか、実用的な知識・スキルとして養えているか、実社会で発揮して人に貢献できているかというと、それはまた別の話である。
けれども、こういう言葉を気の抜けた昼下がり、疲れた夕暮れどきなんかに遊び感覚でやって受け取ってしまうと、あるいはあれもこれも浴びすぎてしまうと、興味とか能力とか可能性とか一緒くたに脳内に入ってきてしまう。結果、自己概念(自分に対するイメージ)が実際以上に肥大化してしまう恐れが私にはある。
言葉の力は強い。人から自分に与えられた言葉は、想像以上に自分にまとわりついてくる。「あなたは、そういう人である」と、良いものも悪いものも、言葉は規定してくる。
また、こうした診断は「自己評定の質問紙」をもとに出力しているのが常で、自分が回答した結果を、洗練された言葉で言い直しているに過ぎない、とも言える。診断結果の情報源は、あくまでも本人の自己認識だ。実際は「私は、こういう人だと思うんです」という表明である。
リーダーシップの力量や、コミュニケーション力の高さを測定するテスト問題が出て、その回答結果から能力の高い低いが判定された結果ではないし、上司や部下・同僚、取引先からの他者評価をもとに判定したわけでもない。
その回答には「そうありたい自分」が混入している可能性も十分にある。「そうありたい自分」と「実際の自分」をごちゃまぜにした自己評定をすれば、結果も「そうありたい自分」を含んだ2割増し3割増しの自分像が出力されうる。その結果は「私は、こういう人だと思われたいんです」の表明であるかもしれない。
そんな解釈の余地も頭におきながら読めば、それはそれで自己洞察も深まるかもしれない。そういう意味では、本当に使い方次第ではある。けれども、自分的にはけっこう危ういなぁと思い、ものは試し的に自己評定の診断ツールに手を出して、自分を説明するふうの言葉を不用意に入手しないようにしている。
性格診断ツールは手当たり次第やったり、数多くやればそれだけ自己洞察が図れるというふうに考えず、一つをよく咀嚼して丁寧に解釈するのが良いように思う。企業でも、あれこれの診断ツールを数多く完備するというアプローチは悪手だろう。
種類を増やすなら、「自己評定の質問紙」以外の「面接法」「観察法」「投影法」などと組み合わせて充実を図るのが良い。「自分情報」を大量に外から取り寄せて情報過多になると、人から受け取った言葉におぼれて、自分の言葉を見失ってしまうリスクのほうが高いと危惧する。
もやもやしたものを本人が心のうちにもっているなら、「とりあえずツール」に手を出すより、対面で本人の言葉を引き出してみて、そこから探っていくのが先決、そちらのほうが自然なアプローチだし、核心に迫る上でも有効なアプローチだろうと思う。
自分で舵を握れていればなんら問題はないので、エンタメコンテンツとしてうまくつきあえている人の楽しみや活用法を否定するものではまったくない。うまくつきあえる人は、ごまんといるとも思う。多くの人は、特にSNSを賑わすものなど遊びとして気楽にやっているだろうし、私のように悪い意味で「マジメ」な言葉の受け止め方はしていないだろうと思う。ただ私はわりと、人から受け取る言葉に弱いので慎重だ。マジメ…なのだ。
なんてことを書きながら思うところ、私は自分の発する言葉にも、だいぶやられている。何かを偉そうに発言したり、批判的な弁を述べた後、じゃあ自分に何ができているか振り返ると、何もできていないじゃないかと自己ツッコミせざるをえず、ときどき本当にげんなりする。自分の不甲斐なさと尊大な態度に恥ずかしくなり、うんざりすることもある。
でも、そもそも自分ができることはちっぽけなもので、自分の実態を意識しだすと、もう何も発言できなくなってしまうかもしれないとも思う。自分を自分で許せなくなったら立ち行かないしな。どうにか自分を卑下せず、慢心も過信もせず、自分のできることを淡々とやっていく精神をもとうと、もがく。
自分が人の役に立っていないという感覚は、歳を追うごと高まっていって、何者でもないことを受け入れていくのが、現実をみられていて健全な気もするし、ときにすごく不健全な気もして手を焼く。
ひとまず、検査結果をあくまできっかけとして使い、ワークショップを通じて本人が自己洞察を深めていく構造を前提とするMBTIのカウンセリング活動は、自分が果たせるいくばくかの機能の一つ。静かな気持ちでコツコツ役目を果たしていきたいもの。
はぁ、まぁ、ちょっとすっきりした。結局、最後の4段落を吐露したくて書いた気がする…。
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