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2019-03-23

柿ピーのウラ面を読む

昨日はお客さんとこの会議室で、「柿ピー」メーカーによせる私の切ない思いを熱っぽくしゃべってしまった。

セブンイレブンの店頭に並ぶ、セブンプレミアムの「柿ピー」のパッケージを裏返してみると、なんと通常パッケージはでん六6袋入りは亀田製菓が作っているという衝撃の事実に出くわす。

作り手は違うのに、オモテ面はセブンプレミアムの統一パッケージで、製品名も「こだわりの柿ピー」とまったく同じネーミング。オモテ面だけ見ていると、もう「6袋か1袋の内容量の違いしかありませんよ」というたたずまいである。しかして、その実態は!いや、むしろ実体は!

いや、そりゃセブンさん側からみたら、同じブランドで出してるんだから見た目統一するでしょって道理はわかりますよ、でもウラ面にまわってみると、それはそれでこっちにはこっちの道理というものがありまして…という切なさがこみ上げてくるのだった。

パッケージのウラ面にはウラ面のドラマがある。私は時々こうしてパッケージのウラ面を見ては勝手なドラマを脳内再生して、ぐぬぬっとうなっている。商品の問い合わせ先が、セブンではなく各メーカーのお客様相談室になっているところも胸を熱くするものがある。なんだよー、ウラ面では圧倒的にメーカーが"顔"じゃないかーと。

この6袋入りのウラ面の「メーカー名」を見たときには、「あぁ、亀田さん、ついに」と大変な衝撃を覚えたのだった。というのも、この6袋入りが出たのは(つまり亀田製菓がセブンプレミアムに参戦したのは)、おそらくここ半年の間のこと。それまで、この「こだわりの柿ピー」は「豆はでん六♪」のでん六さんが1袋パッケージ(132g、86g)として一手に引き受けていた(と思う)。ということは、でん六さんはでん六さんで、これじゃあ話が違うじゃないかよーみたいなことになっていないかしらと、これまた勝手な胸騒ぎを覚えたりして。

セブンプレミアムの柿ピー事情については、以前にもここに書いた私の関心事。この間、この亀田製菓の6袋入りを見つけて気がかりが再燃し、「柿ピー セブン 亀田」でGoogle検索したら、検索結果の1ページ目に自分のブログが出てきてびっくりした。そんなニッチなワードで検索する人が、私以外にどれほどいるのか謎だが…。

そういえば、もっと前にユニ・チャームのマスクのセブンプレミアム事情についても書いたのだけど、マスクはこのところセブンプレミアムで出さなくなったんだよな。マスク需要は伸びていると思うのだけど、セブンイレブンは自分のところの「立体型」(メーカーはユニ・チャーム)をやめて、ユニ・チャーム純正の「超立体」と他メーカーを並べて出すようになった。どんなやりとりを経たんだろう。亀田製菓さんやでん六さんは、ユニ・チャームさんを飲みに誘ってみては…などと思ったりする。

まぁ相変わらずセブンイレブンには大変お世話になっており、また亀田製菓の柿ピーとでん六の柿ピー、食べ比べても違いがわからない程度に味音痴のため(どっちもおいしい)、セブンさんに「そういうお客さんのための商品ですよ!」と笑顔で言われたら、ぐうの音も出ず「いつもお世話になっております」と笑顔で返してしまうに違いないのだけど。ますますのご発展を祈念しております。

ちなみに客先でこの話に及んだのは、フェアトレードについて話題にあがって「林さん、こういうの好みでしょう」と振られたので、それに思いきりダイブして支持表明の引き合いに出したまでであって、何の脈絡もなく柿ピー話を始めたわけではない、という弁解を最後に添えておきます。少し興奮して話してはしまったけれども。

2019-03-15

キャリア支援をテーマに自分ができること

最近、企業さんから「社員の自律的なキャリア開発」に関するご相談をいただいたのを契機に、キャリア支援をテーマに自分ができることを、サービスや講座の形に落とし込んで整理してみた。

畑を耕すように、DropboxPaperに足を運んでは文章をしたためていって、今の状態。一覧ページから、それぞれの詳細を案内するページにとべるようになっている。

[一覧]クリエイティブ職向けキャリア支援

こういうのを一般人がテキスト打つだけで発信できてしまう時代って、なんてありがたいのか。(それが魅力的にきちんと伝わるかは、また別の問題があるけれども…)

「パッケージではなく、オーダーメイド」を基本に活動しているので、最終的に落とし込む形は相手に応じて手作りしていくのに変わりないけれど、それだけじゃどんなことを頼めそうなのかが一向に伝わらないよなと思い、仮で「形」を与えてみた感じ。

キャリアってテーマは、すごく個別的なものだし、答えのないものだし、誰かが(まして私が)大上段に構えて説くような話でもない。「研修」や「講座」として扱うことにそもそも違和感をもつ方もあると思う。

でも、ちょっとステレオタイプな「研修」「講座」イメージを捨てて、「一人だけで考えて結論しないキャリアデザインの意義」みたいなところにフォーカスをあててみると、こうした支援の形にも一定の価値を見いだせるかなと。

「考察:自己理解を能率化するアプローチと支援」を書いているときに改めて思って言葉にしてみたのは、こんなこと。

自分が大事にしたいことや自分に合うことは自分にとって当たり前のことであり、また抽象的な概念のため言葉にしづらい(=意識化しづらい)。自己理解は、いきなり自分の内面に問いただすより、一旦外側から検討材料を調達して取りかかったほうが能率化する面がある。

キャリア開発の考え方や支援ツールなど、あれこれ触れていると、例えば「どんなライフスタイルが好みか?」みたいな問いに30項目以上の「〜な生活」という選択肢を列挙しているツールとかあって、そういうリストに「これはいい」「これは自分の価値観から遠い」なんてざくざく反応を返していくと、ピックアップした「〜な生活」から、自分てこういうライフスタイルを好む人間なんだなって浮き彫りにできたりする。なんだかなって気もするだろうが、並んでいるからこそ優先順位も自ずと浮かんでくるというもの。

与えられた選択肢を一つ選んだら、それを自分の答えにしなきゃいけないって縛りも、どこにもない。あくまで自分を理解するための道具にすぎないのだから、「これと近いんだけど、自分の感覚はこれとちょっとニュアンスが違って、こんな感じなんだよなぁ」というところから、もっと直接に自分をつかみにいったらいい。近しい選択肢から、解釈を広げたりずらしたりして、自分のことを掘り下げていくことができれば能率的。たとえ「1つ選べ」という問いかけだったとしても、2つ3つ選んで、そこからオリジナルの1つが頭の中に浮かび上がれば結果オーライだ。

自分がこれを選んだ理由、あれを選ばなかった理由はなんだろうというふうに、選択理由の説明を試みることで、思考の旅はいくらでも膨らましようがあり、そこから自分の理解が深めることもできる。

ライフスタイルからもう一歩具体的に「仕事をする上で大切にしたいこと」リストなんかも、いくつかメソッドやツールを見比べてみると、仕事観って一括りにいってもいくつか切り口があるんだなぁみたいなことが見えてきたりする。

私がみてとったのは、次のような3つの切り口だ。
●「〜な仕事をしたい」「〜の役割に従事したい」(仕事内容、役割)
●「〜な働き方をしたい」「〜な会社・環境で働きたい」(働く環境・スタイル)
●「仕事を通じて〜を得たい」「〜のために働きたい」(働く目的・獲得したいもの)

でも、ここの「〜」に自分がびびっとくるものを思いつくのが、一人でやっているとけっこう難しい。ちょっとニュアンスが違かろうと、一旦は外から選択肢を提示してもらって、それをきっかけに自分の言葉を探していくほうが、アプローチとしては能率的かなって感じがする。

一人で部屋にこもってウーンって考え出しても、なかなか言葉が出てこない上、思いつくものに網羅性もないから、いつまでも考え終える蹴りをつけられなくてズルズルしたりする。ある程度、隅から隅まで行き渡ったリストがあると、とりあえず一定の網羅性をもって検討できる。

まぁ別に必要ない人・時期には全然必要ないのだけど、何かを取捨選択・意志決定しなきゃいけない局面では、自分のことを深く理解しているっていうのが、ものすごく判断を速く、楽にするし、間違いがない、あるいは後悔がない。

変化の激しい時代・業界では、数年・数十年先の世の中を占うより、自分のことをよく理解しておいて、世の中が変化するとき、だったら自分はこう動くという判断がすぐ出るようにしておくほうが賢明かもって見方もあると思う。

ともあれ、外部から与えられる言葉は、自分の脳を働かせる「刺激」として受け止めて、刺激を受けた自分がどんな「反応」を返すかを観察して、観察したプロセスや結果を丁寧に解釈すれば、そこにこそ大事な情報が生起する。そういうふうに、あくまで一時的&一次的な道具としてつきあうことを大事にできれば、こうした支援ツールも有意義じゃないかと思う。

私もそういうスタンスで、能率化する支援ツールの一つとして役割を果たせたらなと思う。キャリアカウンセラーというのも、こうした言語表現のあれこれを、一般の人よりは多く使っている(かもしれない…)ので、対話の中で解釈を広げたりずらしたり、フォーカスを絞りこんだり考えを精緻化する際の話し相手に使えるかも。

また、自己理解を支援するツール選び一つとっても、いろいろ見比べていると、フォーカスのあて方が異なるから、適切な道具選びもサポートの一つだ。先の図「自己理解を能率化するアプローチ」では、下のように切り口を分けてみた。
●性格
●希望のライフスタイル
●仕事の価値観
●適職
●環境/条件

その人が自分の何を知りたいのかを見定めて、話を聴いたり、整理したり、深掘りしたり、一緒に探索したり、必要なら適切なアセスメントツールを紹介したり、その解釈をサポートしたり。そういうことをやっていけたらなと思う。

DropboxPaperにまとめたのは、半分は自分の考えの整理用に起こせて良かった感じ。もう半分は、自分でお客さんに案内するときの手元資料として使えたらというイメージだけど、どこからでも見られる状態になっているので、この会社で興味あるかも?といったお相手にいつかどこかで巡りあったら、ぜひこちら思い出してやってくださいませ。

2019-03-13

研修の時間配分「90/20/8」の法則

研修プログラムの時間割を考えるとき、「90/20/8」の法則というのが使えそうだ。「研修デザインハンドブック」というノウハウ本で紹介されているものなんだけど、なかなか実践的で面白い。研修に限らず、いろんな時間配分にも応用できそう。

一般に、研修の時間割が「教える側の都合」で組まれがちなところを突いている。

もちろん、参加者側の都合をまったく考えていない研修も、そうそうない。受講対象者が業務時間内に一堂に会せるのは水曜日の午前2時間だけとか、ひと月前から予告したとしても丸一日確保するのがせいぜいとか、時短勤務の人も参加できるように16時までに終えたいとか、実施時期や時間数を「参加者都合」で条件づけることは少なくないだろう。

ただ、「参加者の体があくかどうか」という最低限の条件ではなく、「参加者が集中して確かなインプットをして、研修で得たものを持ち帰って実務に活かせるかどうか」という実施効果に即した面で見直してみると、学習者中心設計には、まだ工夫の余地があるかもしれない。

例えば「10:00-16:00の、昼休憩を除いておおよそ5時間枠」で研修をやるとなったとき、教え手はどのように時間配分を考えるだろう。

この研修でまず教えなきゃいけない概念知識は、説明に2時間はかかる。そうすると10時に始めて12時までは講義をやるでしょ。昼休憩を1時間入れて、午後はグループワークで課題に取り組んでもらおう。そこで、午前中の講義の理解を深めてもらう。このワークショップを、発表やフィードバックも含めて、午後の3時間でやるイメージ。

そんなふうに、大まかな構成と時間配分を考えてブレイクダウンしていく人が多いのではないか。ここに潜む「教え手都合」を指摘し、「人間の脳がどう学習に対応するかの原理原則に基づいて時間配分を決定してい」くよう、先の本は提案している。

その原理原則を、まずは列挙しちゃうと、次の3つ。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める

そこから導き出したのが「90/20/8」の法則である。上の原理原則を踏まえて、ではどうすればいいかを考えていくと、研修時間をこんな感じで組み立てたらどうかという提案が導き出される。

●脳が集中をキープできるのは「90分」まで
→90分ごとに10〜15分間の休憩を入れよう

●大人が記憶を保持しながら話を聞くことができるのは「20分」
→20分おきにペースを変えたり、明らかに異なった形式にしよう。例えば、この20分の間に話した重要な点を繰り返して確認し、長期記憶への移行を促すなど

●人間の脳は受け身な状態が「10分」続くと興味を失い始める
→情報提供(いわゆる講義)は、8分を一区切りとして話を組み立てよう。8分ごとに参加者が主体的に考えたり話したりする時間を設けるなど

厳密にやろうとして、講師のほうがガチガチに縛られた状態になっても良くないので、あくまで目安として、視点として取り入れればいい話だとは思う。

ただ、話し手は頭フル回転でしゃべっていたりするので、気がつくとあっという間に一人語りが10分、20分、30分続いてしまうことってある。そうなったとしても、自分はフル回転ってことだと、聞き手に退屈を与えている感覚をもちづらい。

が、話し手と聞き手では、まったく脳の状態が違う。聞き手に、自分(話し手)と同じ熱量&集中力をもって話を聞き続けなさいというのは、時間が長くなればなるほど酷な話。それはやる気の問題とか、努力すればとか、興味をもって聴けばとかいうことではなくて、人の脳の作り的に無理があるんだなって話にして、研修の構造を見直したほうが能率が良いのでは、という話である。

では、10分を超える一人語りは、聞き手の主体性をしぼませていく働きももつという認識をもって、研修時間の組み立てを再考してみたい。

とりあえず、10分話したくらいで、「参加者へのちょっとした問いかけを挟む」とか、「これまでのおさらいを挟んで一呼吸つく」という一工夫でも、取り入れるといいと思う。

全体の構造を見直すとすれば、ひとまとまりを90分枠として、オープニングに5分、クロージングに5分とり、残り80分。これをざっくり4等分して、各20分の構成を、

【導入ワーク】学習テーマに関連する、参加者のこれまでの経験や既有知識を振り返ってもらって共有するワークで足場づくり(20分)
【講義】過去の経験や既有知識に関連づけながら、新しい概念知識のインプット(20分)
【実践ワーク】新しい概念知識を活用して、実践的な課題に取り組んでもらう(20分)
【発表】演習の発表、質疑応答、講評(20分)

としてみるとか。もちろん、学習テーマやその複雑性、学習者のレベルやタイプによっても、何を何時間かけてどんなふうに学習してもらうと効果的かはまったく変わってくるので、上のようにきれいに20分でまとまったりはしないだろう。上のはあくまで一例に過ぎない。

でも例えば、これまでは「講義2時間でまるっとインプット、ワーク3時間でまるっとアウトプット」みたいに大雑把に区切っていたものを、もう少しテーマを小分けにしたり、基礎と応用でレベル分けして段階的に学べるようにするなどして、それを90分ごとに割り当てていくようにするとか、上のような原理原則を知ると、いろいろ構成・時間の組み方にも広がりやアイディアが出てくる。

「とにかく最初は講義。知らなきゃ始まらないことを講義して話しきって、もの考えさせるのはそれからだ」とかにこだわらないで、90/20/8の法則の揺さぶりを受けながら、話す順番とか、話すことの区切り方とか、講義と演習の組み合わせ方とか、レベルの段階分けとか、それぞれの時間配分とか、いろいろゆさゆさと再考してみると良さそう、という共有でした。

ご紹介の本は、中村 文子&ボブ・パイク共著「研修デザインハンドブック」(日本能率協会マネジメントセンター)。実践的なノウハウ本ゆえに、「言い切っちゃってるけど、常にこれが最適解というわけじゃないだろう」と思う記述もあるけれど、それゆえ具体的に「こういうやり方もあるんだな」と自分のやり方を見直すネタを拾えて、そういう使い方にとても有用な一冊。

2019-03-11

43歳という立ち位置

この週末に誕生日をむかえて、一つ歳をとった。同世代の友人から「お互い50歳に向けてますますアップデートしていきましょう!」という威勢のいいメッセージをもらい、「ご、ごじゅう…」と一瞬ひるんでしまった。

歳を重ねることに抵抗はないのだけど、自分が50を迎える日が来ることを現実的に想像しようとしても、まだ難しいことに気づく。私の周囲には魅力的な先輩方があちらこちらにいて、あの器には程遠いな…と思う。

まぁ、そういう先輩方とはずっと距離を縮められないまま歳を重ねていくのだろうけれど、そんな人たちと一緒に同じ時代を生きられて、ちょっと前を歩きながら人生を謳歌する様を見せ続けてもらえるのは、たいそう心強い。

とりあえず50まであと何年あるかと慎重に数えてみると、丸7年あった。この7年のうちに、ぐいっと大人になれれば50も怖くない。あと7年あれば、どうにかなるかな…。そう考えると、一年一年、しっかり成長していかないと間に合わないなって気にもなる。

若者からみれば「おばちゃん」でもあり、諸先輩方からみれば「一介のペーペー」でもある40代前半というのは、自分の位置取りにバランス感覚を求められるものだなと思う。いつまでも若い気でふるまわれても若者にはうっとうしいだろうし、おばちゃんおばちゃん言うばかりでも、なんだ40の若造が玄人ぶって生意気に!って感じがある。

私個人的には、どうしても意識が「おばちゃん」より「一介のぺーぺー」感覚に寄りがちだ。放っておくと若者より先輩世代にすり寄っていく傾向があるため、ずっと下っ端の感覚が抜けないし、チームマネジメントを避けてずっとプレイヤーでやってきているので、人材育成には裏方で関わり続けている割りに、自分が直接的に若い人たちに何か教えるとか育てるといった立ち位置は、さほど馴染みがない。「自分に有能感を覚えたら最後、そこが自分の能力の終着点だ」という危機感も体に馴染んでいるため、自分の仕事人生で「一介のぺーぺー」感覚はおそらく一生抜けないだろう。

だけど1割2割、そろそろ若い世代との交流機会ももちつつ、その対話から、自分に何ができるのかを問うて活動していく時間も有意義なんだろうなと、最近若い女子たちとゆっくりしゃべる機会があって、思ったりした。

自分がどういう役に立てるのか、どういう働きができそうかって、文脈や環境に依存するから、その現場の文脈・環境に身をおいてみて、そこで出会う人たちと話してみないことにはわからない。話してみれば、何かできることも発見できたりする。

一人で閉じていると、あるいは固定的で偏った環境下にずっといると、それが見えてこない。自分が知っていることは皆も知っていると思うし、自分ができることは皆もできると思うから、自分は何の役にも立たないようにしか思えないし、人の話を聴いたり読んだりすると、自分の知らないことできないことを、いろんな人が知っていたりできることに圧倒されて、ますます本当に自分は何の役にも立たないなという気がしてくる。

だけど、どこかの場に出ていって、そこに身をおいて、そこにいる人としゃべってみたり、そこで起こっていることを観察してみたり、人や物の動き、事の流れを肌身で感じて追っていると、いろいろ自分ができること、言ってみたら力になれそうなこと、やってみたら役に立ちそうなことを発見できたりする。

それはとてもささいなことで、ちょっと場を和ますだけのことかもしれないし、ちょっと話を前に進めるくらいのことかもしれない。それでも何の役にも立たないだろうというゼロ地点にいるのとは雲泥の差、心が晴れ渡っていく。

そういうのを見つけてはコツコツやっていくことで、きっといいんだよなと思う。自分に過大な期待をかけず等身大で、できること、できそうなこと、ちょっと頑張ったらできそうなことに手を出していけば。

それがきっと積み重なって、ひとまとまりの経験になったり、再現性ある能力になったり、他の場所でも応用がきくノウハウになったりしていくのだ。

最近、むかし自分が書いた自分のキャリア分析の資料を読み返す機会があって、あぁそうだよな、私はいろんな魅力的な人と出会っていくこと、お話しすること、関わって作り手をサポートしていくことを、すごく大事だなって、これが自分のキャリアの幹だって、若くしてわかったんだった。そのときは意識していたけれど、最近はそういう自分の考えに同化しすぎていたのか、そのことを「意識して大事にする」ってことができていなかったかもしれないなって思った。

大事なものをシンプルに、大切にやっていく43歳にしようと思います。ここまで読んでくださった有り難い方、この一年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

2019-03-05

「6つのホランド・タイプ」からの自己理解ミニワーク

キャリアの著名な理論家の一人にジョン・L・ホランド(Holland,J.L.)という人がいて、「6つのホランド・タイプ」を提唱した人として知られる。

ホランドは人の基本的性格を6つのタイプで表した。職業や職場、大学の専攻科目といった環境も、同じ6つのタイプで説明できるとして、これがマッチすると、個人はその環境に満足と安定を感じるし、環境(例えば職場)に対する貢献度も高まると考えた。

6つのタイプが表す基本的性格というのは、人の興味や能力、価値観を表すものだ。

- 現実的(R: Realistic)
- 研究的(I: Investigative)
- 芸術的(A: Artistic)
- 社会的(S: Social)
- 企業的(E: Enterprising)
- 慣習的(C: Conventional)

これには2つの前提が置かれている。
◆人は通常、「3つの性格タイプ」の組み合わせとして表すことができる
◆どれか1つが強く、あと2つのタイプはそれほど強くない

ということで、自分はどうかなぁというのを検討するワークシートっぽいものを作ってみた。ここで自分が選ぶ3つ(強い1つ+それほど強くない2つ)で、自分のスリー・レター・コードを導き出して自己理解に使うとよろしい、ということで、次のような案内テキストを入れて、簡単なシートにしてみた。

「6つのホランド・タイプ」を用いて自己理解を深める

次の6タイプの【好む活動】【高い能力】【性格特性】を読み比べ、自分に「最もフィットするタイプ」を1つ選んで◎を、「どちらかといえばフィットするタイプ」を2つ選んで○を記し、「これは違う」と思うタイプには/を引いてください。

ちなみに、この6つは適当に並んでいるわけではなく、六角形の角が隣り合っているものは類似性が高く、離れているものは類似性が低いというふうになっている。

実際、自分でやってみると、一つおきで3つ選択する結果となり、バラバラ感が半端ないのだけど…。自分に照らして吟味してみると、人間とは複雑なものであるな、としみじみ思う。

昔やったときと違うなぁ、ホランドのタイプは後天的に身につけた性格を前提にした理論なので、やっぱり変化するんだなぁというふうにも思った。

また、それぞれのタイプの説明を読むと、この部分はそう思うんだけど、この部分は違うみたいなところもあって、3つ選ぶとなると難しかったりする。

でも、「そこをなんとか!」と一人芝居で押し切って、「えいっ」と、Aランク1つ、Bランク2つに内々で決めてみるのも、なかなか面白い心の体験である。やっぱり居心地悪いと思えば、変えてみてもいい。誰も文句は言わない。

一方で、タイプ分けにこだわらず、タイプごとに書かれている【好む活動】【高い能力】【性格特性】から、それぞれに気になる、自分っぽいキーワードを拾ってみて、自分のオリジナルな人物像をえがき出してみるのも良い。自己理解を深めるためにやっているのだから、タイプ分けにこだわる必要はない。

そういうことをぶつぶつ考えながら、私が勝手に思いついた軸としては、タイプ分けがうまくできないにしても、次の観点ではわりと「自分は、どっち寄りか」って考えやすいかなというもの。私が勝手に思いついただけの軸なので、ご参考までに(これもシートの下のほうに入れておいたけれど)。

自分は、どちら寄りか
◆人を相手にする仕事   ⇔ 物を相手にする仕事
◆チームで仕事をする   ⇔ 一人で仕事をする
◆実体あるものを扱う   ⇔ 概念・抽象的思考を用いる
◆ゼロからイチを生み出す ⇔ 1を秩序立てて軌道に乗せる ⇔ 10を守り運用する ⇔ 10を100に育てる・改善する

自己洞察に使えれば、まぁいいのである。

2019-03-04

性格診断をやりすぎない理由

私は「MBTI」という性格検査/メソッドを取り扱うMBTI認定ユーザーという資格を持っていて、ときどき知り合いから声がかかると、「MBTIを用いたキャリアカウンセリング」に対応している。

あと最近、企業の方から「MBTIを会社に導入したい(任意で社員が受けられるようにしたい)」との相談があり、それを機に法人向けの「MBTIを用いた自己理解ワークショップ」も用意したので、ご参考まで(ご興味ある方は、お声がけくださいませ)。

MBTIに限らず性格検査のたぐいって、一方に「そんな胡散くさいもの」という反応があり、その対極に「診断ものとあらば、とりあえずやってみる」という層がある。ライトなものだと、Facebookなどには、よくこうした診断ツールのリンクが流れてきて、一時的に流行る。すると、両者の反応が見られる。

私はどっちつかず主義で、両極のどちらにも属さない。極力偏見はもたずに、時と場合に応じて「その人にとって益があり害がない手段」を選べる状態を大事にしたい。なので性格診断とあらば、はなから百害あって一利なしとも思っていないし、手当たり次第やってみるということもしていない。

前者の「そんな胡散くさいもの」という見方に対する自分なりの考えは、前にここで「人の性格をタイプで語るうさんくささ」という話を書いたことがある(これは妥当性や信頼性が検証された心理検査を前提にしたものだけど)。

そこで今回は、対極の「診断ものとあらば手当たり次第やってみる」について、自分がなぜそれをしないのかを書きながら整理してみたい。ちなみに、だいぶだらだらと書いた。最後は全然関係ない吐露になっている気も…。

「自分を理解したい」という気持ちは誰しももっているもので、こうしたものに関心が向くのは、人のごく自然な反応だとは思っている。

そういうものを専門に手がけるなら、とにかくいろんなツールに触れて目を肥やしたほうがいいんじゃないの?そういう探究心って大事じゃない?っていうのもごもっともで、そういう見方もあるとは承知している。ストレングス・ファインダーやCPS-Jなど、過去にやったことがあるものも、いくらかある。

ただ、あまりやらないように、あれもこれも浴びるようにやらないように、というのは肝に銘じている。私が回避したいリスクは、自己概念の肥大化だ。

性格診断ツールの類いは、結果の解釈に危うさがある。数十問の設問に答えてチェックを入れていくだけで気楽にできるわりに、結果として受け取る言葉の影響力は無意識下で強大だったりする。その影響に、ちょっとした遊び気分であればこそ気づきにくくあるのも厄介だ。

まず、こうしたツールの診断結果は、受けた人の可能性やポジティブな機会を提示することに言葉を尽くす。つまり、本人が読んでいて気持ちいい言葉がつまっているのが常だ。自分の興味に寄りそい、自分の価値観にフィットし、自分が受け取って気持ちいい言葉が出力され、自分を価値ある素敵な人として描き出す。

例えば、

あなたは人に教えたり人助けをする活動を好みます。言葉によるコミュニケーション力に長け、人と一緒に仕事をする環境で能力を発揮します。教育や保育、カウンセリングなどの職業に向くでしょう。友好的で、外向的な性格です。

だとか、

あなたは他の人を導いたり、他人に影響を与えられる活動を好みます。人と友好的なコミュニケーションを図ることを得意とし、リーダーシップや説得力を備えています。チームを統率して事業推進する立場で力を発揮します。野心的で外向的、精力的な自信家です。

だとか。

数十問の設問に回答することで、もやんとした自分像を、明快で魅力的な輪郭をもつ人物像に変換して言い当てるように提示してくれることの価値は高い。そこに自分の可能性や機会を見出して、次の一手を検討しやすくなったりする。それは単独でやろうとしても、なかなか難しい。人の性格や能力を表すボキャブラリーって誰もがそんな流暢に出せるものじゃないし、自分の性格となれば尚さらだ。

ただ、こうした診断結果のコメントは、興味や能力や性格がごちゃっと混ざっていたりする。

あなたは教えたり、人助けをするような活動を好むんでしょう。ということは、子ども時代からそういう活動によく参加してきたのでしょう。ということは、きっとその能力も他の人に比べて伸ばす機会を多くもち、実際に人より秀でたものがあるでしょう。さらに伸びるポテンシャルもきっと高いでしょう。

というように「ということは」「きっと」という推測のもとに、本人の興味や価値観が「能力」に発展して「実績」をあげるところまで導かれていて、本人が受け取って気持ちいい人物像に熟していたりする。

けれども、能力の獲得や実績は、その適性を活かして、実際に経験を重ねて、洗練させていった先の話だ。実際に自分がどれくらい、興味を能力に展開できているか、実用的な知識・スキルとして養えているか、実社会で発揮して人に貢献できているかというと、それはまた別の話である。

けれども、こういう言葉を気の抜けた昼下がり、疲れた夕暮れどきなんかに遊び感覚でやって受け取ってしまうと、あるいはあれもこれも浴びすぎてしまうと、興味とか能力とか可能性とか一緒くたに脳内に入ってきてしまう。結果、自己概念(自分に対するイメージ)が実際以上に肥大化してしまう恐れが私にはある。

言葉の力は強い。人から自分に与えられた言葉は、想像以上に自分にまとわりついてくる。「あなたは、そういう人である」と、良いものも悪いものも、言葉は規定してくる。

また、こうした診断は「自己評定の質問紙」をもとに出力しているのが常で、自分が回答した結果を、洗練された言葉で言い直しているに過ぎない、とも言える。診断結果の情報源は、あくまでも本人の自己認識だ。実際は「私は、こういう人だと思うんです」という表明である。

リーダーシップの力量や、コミュニケーション力の高さを測定するテスト問題が出て、その回答結果から能力の高い低いが判定された結果ではないし、上司や部下・同僚、取引先からの他者評価をもとに判定したわけでもない。

その回答には「そうありたい自分」が混入している可能性も十分にある。「そうありたい自分」と「実際の自分」をごちゃまぜにした自己評定をすれば、結果も「そうありたい自分」を含んだ2割増し3割増しの自分像が出力されうる。その結果は「私は、こういう人だと思われたいんです」の表明であるかもしれない。

そんな解釈の余地も頭におきながら読めば、それはそれで自己洞察も深まるかもしれない。そういう意味では、本当に使い方次第ではある。けれども、自分的にはけっこう危ういなぁと思い、ものは試し的に自己評定の診断ツールに手を出して、自分を説明するふうの言葉を不用意に入手しないようにしている。

性格診断ツールは手当たり次第やったり、数多くやればそれだけ自己洞察が図れるというふうに考えず、一つをよく咀嚼して丁寧に解釈するのが良いように思う。企業でも、あれこれの診断ツールを数多く完備するというアプローチは悪手だろう。

種類を増やすなら、「自己評定の質問紙」以外の「面接法」「観察法」「投影法」などと組み合わせて充実を図るのが良い。「自分情報」を大量に外から取り寄せて情報過多になると、人から受け取った言葉におぼれて、自分の言葉を見失ってしまうリスクのほうが高いと危惧する。

もやもやしたものを本人が心のうちにもっているなら、「とりあえずツール」に手を出すより、対面で本人の言葉を引き出してみて、そこから探っていくのが先決、そちらのほうが自然なアプローチだし、核心に迫る上でも有効なアプローチだろうと思う。

自分で舵を握れていればなんら問題はないので、エンタメコンテンツとしてうまくつきあえている人の楽しみや活用法を否定するものではまったくない。うまくつきあえる人は、ごまんといるとも思う。多くの人は、特にSNSを賑わすものなど遊びとして気楽にやっているだろうし、私のように悪い意味で「マジメ」な言葉の受け止め方はしていないだろうと思う。ただ私はわりと、人から受け取る言葉に弱いので慎重だ。マジメ…なのだ。

なんてことを書きながら思うところ、私は自分の発する言葉にも、だいぶやられている。何かを偉そうに発言したり、批判的な弁を述べた後、じゃあ自分に何ができているか振り返ると、何もできていないじゃないかと自己ツッコミせざるをえず、ときどき本当にげんなりする。自分の不甲斐なさと尊大な態度に恥ずかしくなり、うんざりすることもある。

でも、そもそも自分ができることはちっぽけなもので、自分の実態を意識しだすと、もう何も発言できなくなってしまうかもしれないとも思う。自分を自分で許せなくなったら立ち行かないしな。どうにか自分を卑下せず、慢心も過信もせず、自分のできることを淡々とやっていく精神をもとうと、もがく。

自分が人の役に立っていないという感覚は、歳を追うごと高まっていって、何者でもないことを受け入れていくのが、現実をみられていて健全な気もするし、ときにすごく不健全な気もして手を焼く。

ひとまず、検査結果をあくまできっかけとして使い、ワークショップを通じて本人が自己洞察を深めていく構造を前提とするMBTIのカウンセリング活動は、自分が果たせるいくばくかの機能の一つ。静かな気持ちでコツコツ役目を果たしていきたいもの。

はぁ、まぁ、ちょっとすっきりした。結局、最後の4段落を吐露したくて書いた気がする…。

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