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2019-02-06

「ここはスマホ禁止」の再考

ある朝のプールあがり、フィットネスクラブのロッカールームで、スマホの写真をめくりめくり眺めている女の子がいた。丸椅子に腰掛けてのんびりと、私のロッカーのすぐ隣りでやっていた。

どうしようかなぁと迷ったのだけれど、無防備なところを攻撃的なおばさまにいきなり雷落とされるよりは(そういうリスクを伴う行為)…と思い、意を決して声をかけた。

これ以上ないというくらい“さりげない”声の調子と視線と表情を整えて、「あの、ここスマホ禁止なんですよ」と一言。すると、向こうから「え、そうなんですか!」と、驚きの表情が返ってきた。

え、そんな驚くことか!?と、少々こちらも驚く。が、このシーンは“さりげなさ”が肝なので、表情そのままに「えぇ」と穏やかな返事をして会話を終え、私は自分のロッカーに向き直った。

そそくさとスマホをしまう彼女。私はその隣りで、「もう全然気にしていませんから、ちょっと声をかけただけで、もう自分の時間に戻って支度に専念していますから、後ひきずらずに」という風情を装って(心中はだいぶ騒がしい…)、静かに着替えをして表に出てきた。

そこからである。あの驚きように、後ひきずったのは私のほうだ。不安になって、まず帰るときにロッカールーム内の「スマホ禁止マーク」を探してしまった(確かにあって安堵した)。

私のような「携帯なし→携帯→スマホ」時代を渡り歩いてきた年代にとっては、なんとなく「このスペースはスマホ禁止じゃないの?」って感覚が働きやすいと思うんだけど、もしかすると「いきなりスマホ」な若い世代にとっては、そんなことないのかもしれない。

世の中に「スマホ禁止」のスペースがわりとちょこちょこあるということ自体が認知されていなかったり、認知されているとしても納得いかなかったりすることがあるのかもなぁと思ったのだ。

納得いかないってほうを掘り下げてみると、確かに今の時代、スマホと人間が一体化して事を為していることは多く、使えないと困ることも多い。メモをとりたい、記録を見返したい、何かを調べたい、ちょっとしたことにスマホを取り出して、ほとんど体の一部のように使っていることは多い。

これが使えないスペースが日常シーンの至るところにあっては、都合が悪い。ということで、改めて「なぜロッカールームでスマホ使用全般が禁止されているのか」を考えてみたけれど、とくに「○○のため」という具体的な理由は、そこでは周知されていない気がする。

電話の長話は、まぁ気分的には「外でやってくれ」という感じはある。携帯の操作も長いことやるなら「表でやったら?」という感じはある。要は、「ここはそういうスペースではないので、目的外で長居しないでください」というのは、決して広々したスペースではない以上、理由の一つかもしれない。混雑度にもよるが。でも、これなら「ちょっとならいいじゃない」ということになる。

あるいは、スマホは多機能なので、「人が全裸になるようなところでカメラを持ち出さないでください。誤作動で写真でも撮れちゃったらどうするんですか」っていうリスク回避の線もある。こういうところでカメラ付きのデバイスなど表に持ち出さないのがエチケットだろうと。

となると、一般にスマホ使用を禁止されるようなスペースでも使える、スマホから一部都合の悪い機能をなくしたネット端末というのも、うまくすれば売れるプロダクトになるのかなぁと思ったりする。ロッカールームでも、スマートウォッチなら使っても良さそうである。

ともあれ、もともと国や地域によって常識が違いそうな「スマホ使用の取り決め」というのは、時代変化にあわせても各所でアップデートしていく必要があるのかもと思った。「ここは本当に、スマホ使用禁止でいいのか?」と。通話を禁止にするのか、使用全般を禁止にするのか、持ち込みを禁止にするのか、という分けようもある。

というのも、スマホ禁止にするというのは、「これより先は、一部の脳を置いてからお入りください」というに近しい特別感が出てきつつあると思うからだ。今やスマホは、人間の「補助脳」の一種とも言われている。(*)

美術館で見た絵画は写真に撮ると記憶に残りにくい。脳は画像をデジタル端末に保存したと考えるらしい。

私はあまり写真を撮らない人間だが、なんとなくわかる気がする。気に入った本の一節でも、どこかに書き留めるとそれで安心してしまって脳みそには刻まれない、それと同じ感覚だ。「記録すると、記憶に残りにくい」という、我が身を振り返ると“あるある”な体験を、これを読んで再認識したのだった…。

ともあれ、こうしてスマホが身体化していくさなかでは、「スマホ禁止」の重みも増していくばかりなわけで、記録もとれないし、一部の記憶もたどれない不自由を与えるからには相応の理由も求められてくる。ネット端末と共生する時代に「ここでのスマホ使用をどう扱うか」というのは、各所で今一度見直してみる必要があるのかもと思った次第。今後はもっと適材適所なIoT端末が出てきて、うまいこと使い分けていくのかもしれないけれど。

あとやっぱり、自分の体内をどう経由させて脳内の長期記憶と外部の記録装置にふりわけていくのかってことには慎重でありたい。一切合切、外部の記憶装置に流し込んで楽ちんになっても、自分の中身が薄っぺらでは意味がない。自分の感覚器や直観を通じて得られる味わいを丁寧に受け取って、今ここで自分が考えること、思うこと、感じることを手放さず、より豊かな思考と感情を獲得するのに新しいツールを取り入れていけるのが理想だが…。なかなか、むつかしそうである。

*アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」(英治出版)

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