陸と海の境い目
波打ちぎわに行くと、陸と海の境い目はずっと揺らいでいる。波が寄せれば、そこは海となり、波が引けば、そこは陸となる。
ものの定義をたどれば、そんなことはないのかもしれない。0.0001秒ずつの変化をとらえれば、境い目は変化しながらも常にあり続けているし明解であると言えるのかもしれない。
でも、概念として常に明解に分けられるかどうかより、そこにあり続ける揺らぎのほう、明解に分かちがたいリアルワールドに目を向けたい。
そう思うのは、概念的に頭の中で考えて同定したり結論を出してしまいそうな危うさを恐れてのことかもしれない。
現実は、頭の中で思いえがく概念世界よりもっと境い目が曖昧で、ぐちゃぐちゃで、その時々で変化してってものなのに、概念世界だけにとどまって思案していると、そのことがわからなくなってしまう。
一方で、リアルワールドに直接触れてみれば人は一瞬にして理解することができるし、自然界は有無を言わさず人に飲み込ませる力をもつ。この世界の混沌を、この世界に概念上の矛盾があまた存在するという常識を。
というか、そもそも混沌とした世界への理解を進めたいがために、人が便宜的にあれやこれやに名前/言葉を与えてしゃべり出しただけで、リアルワールドは今も昔もぐちゃくちゃの混沌に変わりない。
自然界が創造した人の心も、混沌としていて矛盾に満ちている。相反する気持ちを両方とも内包している上、名前のつけられないどっちつかずのもやもやがまとわりついていて、一言ではこう思っている、こう考えていると言い切れないことが、いくらでもある。
一言考えを述べれば「でも反面、こういう気持ちもあって…」と、後追いで言葉を添えたくなる。そういうことは別に珍しいことじゃない。人の心とは、そういうものだと思っている。
やわらかい気持ちと、かたい気持ち。気高さと低俗さ。公平と差別意識。はねつけたい気持ちと、受け入れたい気持ち。ここを発とうとする気持ち、ここに留まろうとする気持ち。挑戦心と恐怖心。人なつこい気持ち、人を遠のけたい気持ち。
いつも揺らぎの中にあって、意思や運や縁や、ちょっとしたきっかけでもって、私たちはあたかもどちらかを自ら選んで意思決定したかのようにみえる外見上の変化を遂げたりもするけれど、変化の前も後も、変化のない日々も、内側には混沌とした気持ちがごちゃまぜにあって、いつもそれを一つの体の中に入れている。
意識できているものもあれば、無意識に潜んでいるものもあって、すがすがしい気持ちで丸ごと受け入れられることもあれば、一体の中に抱え込むのは到底無理ということもある。
概念世界のようにはなかなか、きれいに整理整頓や取捨選択ができないリアルワールドで、その混沌を、矛盾を、大事にみていきたい。ないものとして済まさないで、落ち着かないからと見て見ぬふりをしないで、「あって当然」と正面から受けとめて、両手を広げて受けいれて、今年はとりわけ人の心の揺るぎや多面性を丁寧にみて、大事に関わっていきたいと思う。そんな一年の始まり。本年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。
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