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2019-01-31

「Web系キャリア探訪」第9回、メルカリのデータ分析チーム

Web担当者Forumの連載「Web系キャリア探訪」第9回が公開されました。今回は、メルカリのデータ分析を預かるBIチームのお三方をインタビュー取材。

メルカリのデータ分析チームが熱い! 個性的過ぎる3人がメルカリを選んだ理由

言わずと知れた日本最大のフリマアプリ「メルカリ」ですが、メルカリ社として企業の顔をみてみると、2013年のアプリリリースから短期間に日・米で1億ダウンロードを突破、国内だと7,500万ダウンロード、利用者数は月間1,100万人、累計流通額は1兆円と飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長中の注目企業です。

組織としても「すごい人たちの集団」感がスゴイわけですが、その中の人たちは、どんな感じで採用されて、どんなキャリアの人で、どんなものの考え方をして、どんなふうに働いて生きているのだろう…というのを興味深くお話し伺いました。

スゴイの一言でくくっちゃうと、へぇほぉははぁ…で終わっちゃいかねないのですが、それぞれのキャリアの歩みを丹念にたどると、いろいろなエッセンスに分解して読むこともできます。ご自身のキャリアやチーム作りの参考になる情報を拾い読みしてもらえたらなと思っています。

というのも、「キャリアモデル」っていっても現代では、「1社40年をどういう道筋でたどったか」ってわかりやすいパターンを1人格に求めるのは無理がある転職当たり前の世の中。自分にぴったり感のあるキャリアモデルを探しまわるより、いろんな人のキャリアの歩みから、自分が参考にしたいエッセンスをパーツ単位で取り入れたり、これは自分にそぐわないなぁと思うような人の価値観にふれたときも、それをもって自分の価値観を知る機会に活かすくらいがちょうどいいだろうと思うわけです。結局はキャリアって、望むと望まざるとに関わらず自分オリジナルにならざるをえないわけだし。そこから先の個別的なサポートをキャリアカウンセラーとしてできたらってところもあるのですが。

閑話休題、今回の取材は「分析力」を強みにしている面々とあって、ご自身のキャリアについても、その分析の妙が話の節々に窺えました。「ちょっと自分を離れたところから見てみて、こう考えた」という話が随所にちりばめられているように思います。

石田さんについては本編で書きましたが、樫田さんの「自分の今の希少性ってなんだろうな」って視点をもって考えてみることとか、「インプットとアウトプットを交互にするのがいいから、次はインプットだ」とか、新保さんの「5年後には来る」という市場の読みとか、「技術を極めるよりも良いプロダクトを作る方に興味がありました」という自己分析も。

後から振り返ればってことも含むかもしれませんが、自分が考えたこと、結論を出した根拠のようなものをすごく分かりやすい言葉で語れるのは、人に伝えられるレベルに自分の中で意識化している証拠だなぁと感服。

お三方を通じては、力みすぎず、キャリアデザインしすぎず、人との出会いや機会を活かして自分の世界を広げていく柔軟さ、オープンさを心地よく感じた取材でした。

編集後記「二人の帰り道」の森田さんのお話も二重三重に染み入ります…。よろしければ、少しゆったりした時間に、ぜひご一読ください。

2019-01-29

記憶を脳内にしまうか脳外にしまうか

「何が書いてあったか」は忘れちゃったんだけど、「どこに書いてあったか」は覚えているってことが、ままある。ヤフー知恵袋に書いてあった、ウィキペディアで読んだというように、どこのWebサイトに書いてあったかは覚えているんだけど、調べていた情報の肝心なところは記憶にとどめていない、そういうこと。

ベッツィ・スパロウらの研究によると、Google検索した情報は、「調べたかった情報そのもの」より、「インターネット上のどこに情報があったか」のほうが記憶に残りやすいという。

心あたりがありすぎて怖い…。

さらに、TwitterやFacebookの投稿で知ったという情報だと、「何が書いてあったか」という情報の中身だけでなく、「誰の投稿だったか」という情報の出どころすら曖昧模糊としている場合がある。

これはSmartnewsで見たとかスマホで見たとかいう、より大ぶりな粒度にもなりえて、それじゃもはやネットのどこかにあるレベルじゃないか…と思うのだけど、まぁそういうときは下手に記憶をたどろうとせずに、大海に目を向けてGoogle検索するのが一番手っ取り早い、ということになろうか。

マスメディア全盛の時代にも、「おはよう日本」でやってたとか、NHKで見たとか、ラジオで聴いたとか、詳しいことは覚えていないけれど、どこで得た情報かは覚えているという状態はあったと思う。

だけど昔は録音・録画でもしていないかぎり、それは後でなかなか調べられない状況にあるという一定の緊張感が、そこはかとなく働いていたかもしれない。覚えておきたいことは、今ここで覚えておかなきゃと。

それに比べると今は、「後でまたネット上の情報にあたれば調べられる」のが前提の世の中に身をおいて、その緊張がほどけてしまっているようにも思える。

先の研究をしたスパロウらは、「私たちはコンピュータ・ツールと共生するようになりつつある」という。私たちは、

情報そのものより情報が見つかる場所を知ることによって記憶の量を減らす、相互システムの一部になりつつある

思い当たる節が…。たしかに情報そのものを覚えるより、「ここにある」という場所の情報だけ覚えるほうが圧倒的に楽ちんだ。負荷が軽減されるとあらば、易きに流れるのが自然の成り行きである。

しかしなぁ、知らず知らずにそうなっちゃっているというのも困りものだ。「自分の記憶」のことなのに、知らぬ間に記憶媒体が自分の脳内から脳外に移っているって、どうも都合が悪いではないか。

よく使うものは、すぐ開閉できる引き出しにしまっておきたいし、さほどでもないものは押入れやら外の物置きにしまっておいても構わないというように、自分のものの置き場は自分で選択的に決めたい。

もちろん、それすらできず「忘却の彼方」行きというのが圧倒的に多いのではあるけれども、それはとりあえずおいておいて。

意識していないと、どんどん「情報そのものは覚えられず、その情報のありかだけ覚えている」状態に偏っていってしまいそうだ。

となると、ここはどうにか抗う方法というのを意識的に仕掛けていきたい。ものの本(*)からちょっとメモったところを列挙すると、たとえば何かを読んでいて、それを「脳内の記憶領域に収めたいとき」は、こういう方法が役立ちそうである。

●問いかける、自分に問題を出す
「このテキストは何についてのものか?」
「筆者が伝えたいポイントは?」
「わかりにくいと思われるところは?」
「なぜこれが正しいのだろうか?」
「これは他の概念とどのようにつながるのだろうか?」
「この概念を説明するのに、類似の例はないか?」
「他の分野やテーマとの関連性はないか?」(何とどう似ているが、どう違うか)

●思い描く
読んでいることを頭の中に思い描く

●自分に説明してみる、反復する
学んだことを自分の言葉で説明してみる、要約してみる

●分散させる
時間をおいて学習を繰り返す

心理学者のリッチ・メイヤーによれば、「学習とは生産活動である」とのこと。

1.学ぶ対象を絞り込む
2.今ある知識と、学びたい情報の結びつきを頭の中に作る
3.その情報を自分の知識に統合する(自分の中で意味をもたせる)

というステップを踏まないと脳内に入らないので、「外にある情報を、自分の脳に入れる」って受け身では事は済まされない。

知識習得とは、今ある知識の上にただ積みあげていくものではなくて、今ある知識にうまく編み込んでいくものであり、どう編み込むかを思考するスキルも求められる生産活動である、そんな感じだ(学んだことを自分の言葉で説明してみた)。

ちなみに、漫然と「繰り返し読む」「蛍光ペンでマーカーを引く」だけでは記憶する効果を発揮しない。よく考えてみると、そりゃそうだよなっていう感じなのだけど、わりとやって満足しがち。これはどちらかというと、「どこそこに書いてあった」って場所だけ覚えているコースに行きそうだ…。思い当たる節がありすぎる話だった。

*アーリック・ボーザー「Learn Better 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」

2019-01-05

家族の当たり前と非日常

この年末年始は妹も帰省したので、家族みんなで会えて嬉しかった。大晦日は父と妹と私そろって近所のスーパーで買い物をして、家に帰って年越しそばを食べ、父が寝ている横でNHKの紅白歌合戦を妹と観た。松任谷由実が出て、サザン・オールスターズが出た。ユーミンと桑田さんが、一画面にドアップで一緒に歌って踊って胸騒いで腰ついて笑っていた。平成30年が暮れた。

元旦は3人で近所のスーパー銭湯に行った後、母のお墓まいりへ。今回はお正月なので松を選んだのだけど、花筒にさすと、ひときわ凛として美しく華やかだった。

その後はお刺身やらお寿司やらスーパーで買い物して家に帰り、お昼すぎに兄一家を迎えた。居間と食卓をかねた広間に7人。奥の間で、母の写真がこちらを向いて笑っていて8人。集合写真を撮った。

甥っ子たちが年々大きくなっていくので、おせちもお刺身もお寿司もお雑煮も、どんどんなくなっていく。頼もしい。彼らが持参したお年賀の、どら焼きもみかんももぐもぐ甥っ子らの胃袋へ。持ち込んだものも結局全部持ち帰ってもらうので、「お年賀には自分が食べたいものをもってくるといいよ」と甥っ子らにアドバイス。2段重に減らしたおせち料理も、来年は3段重に戻してもいいかもしれない。

日が暮れだした頃、兄一家は義姉のほうの実家へ移動。私たち3人は、母の姉夫婦の家に挨拶に行く。父と私は、暮れに亡くなった祖母の葬儀で12月にも会っていたけれど、妹は数年ぶり。再会できて良かった。

そこで伯母から、祖母の遺産相続の話があった。うちは母(祖母の末娘)が亡くなっているので、相続権が私たち孫3人に移っていると言う。即答で、妹も私も辞退を表明。当たり前、という共通の感覚。家族だな、と思う。

翌日の1月2日は、恒例の成田山新勝寺へ3人で出かける。妹が帰省すると、車で連れて行ってくれるのでありがたい。朝早めに出たので、渋滞に巻き込まれることもなく、参道で牛歩することもなく、かなりスムーズに参拝できた。

それにしても朝8時、近所のパン屋でカツサンドやらカレーパンやら食べて出かけて、スムーズな参拝の後、10時半すぎには特上のうな重を食べられる父と妹の胃袋ってどれだけ活動的なのか。感心して2人が頬張るのを眺めつつ、私はお茶をすすってのんびりする。

さらに父と妹は、帰りの車の中で食べる甘栗を参道で買っていた。「これは助手席の人がむいて、運転手に渡すんである」と父が言うので、助手席の私はせっせと甘栗をむいては妹に手渡す。まさに助手。

それにしても、家族と恒例行事をするっていう当たり前は、なんだかすごく心地いい。家族と過ごすというのが非日常になって久しいけれど、それだけに味わい深い年末年始、歳を重ねるごと大事に感じられる。

2019-01-03

陸と海の境い目

波打ちぎわに行くと、陸と海の境い目はずっと揺らいでいる。波が寄せれば、そこは海となり、波が引けば、そこは陸となる。

ものの定義をたどれば、そんなことはないのかもしれない。0.0001秒ずつの変化をとらえれば、境い目は変化しながらも常にあり続けているし明解であると言えるのかもしれない。

でも、概念として常に明解に分けられるかどうかより、そこにあり続ける揺らぎのほう、明解に分かちがたいリアルワールドに目を向けたい。

そう思うのは、概念的に頭の中で考えて同定したり結論を出してしまいそうな危うさを恐れてのことかもしれない。

現実は、頭の中で思いえがく概念世界よりもっと境い目が曖昧で、ぐちゃぐちゃで、その時々で変化してってものなのに、概念世界だけにとどまって思案していると、そのことがわからなくなってしまう。

一方で、リアルワールドに直接触れてみれば人は一瞬にして理解することができるし、自然界は有無を言わさず人に飲み込ませる力をもつ。この世界の混沌を、この世界に概念上の矛盾があまた存在するという常識を。

というか、そもそも混沌とした世界への理解を進めたいがために、人が便宜的にあれやこれやに名前/言葉を与えてしゃべり出しただけで、リアルワールドは今も昔もぐちゃくちゃの混沌に変わりない。

自然界が創造した人の心も、混沌としていて矛盾に満ちている。相反する気持ちを両方とも内包している上、名前のつけられないどっちつかずのもやもやがまとわりついていて、一言ではこう思っている、こう考えていると言い切れないことが、いくらでもある。

一言考えを述べれば「でも反面、こういう気持ちもあって…」と、後追いで言葉を添えたくなる。そういうことは別に珍しいことじゃない。人の心とは、そういうものだと思っている。

やわらかい気持ちと、かたい気持ち。気高さと低俗さ。公平と差別意識。はねつけたい気持ちと、受け入れたい気持ち。ここを発とうとする気持ち、ここに留まろうとする気持ち。挑戦心と恐怖心。人なつこい気持ち、人を遠のけたい気持ち。

いつも揺らぎの中にあって、意思や運や縁や、ちょっとしたきっかけでもって、私たちはあたかもどちらかを自ら選んで意思決定したかのようにみえる外見上の変化を遂げたりもするけれど、変化の前も後も、変化のない日々も、内側には混沌とした気持ちがごちゃまぜにあって、いつもそれを一つの体の中に入れている。

意識できているものもあれば、無意識に潜んでいるものもあって、すがすがしい気持ちで丸ごと受け入れられることもあれば、一体の中に抱え込むのは到底無理ということもある。

概念世界のようにはなかなか、きれいに整理整頓や取捨選択ができないリアルワールドで、その混沌を、矛盾を、大事にみていきたい。ないものとして済まさないで、落ち着かないからと見て見ぬふりをしないで、「あって当然」と正面から受けとめて、両手を広げて受けいれて、今年はとりわけ人の心の揺るぎや多面性を丁寧にみて、大事に関わっていきたいと思う。そんな一年の始まり。本年もおつきあいのほど、どうぞよろしくお願いします。

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