祖母が99歳の生涯を終える
おばあちゃんが亡くなった。母方の、私の祖母だ。数日前に、満99歳になったところだった。大正、昭和、平成ときて、あと少しで、もう一つの元号を経験するところだったけれど。99年、生きたのだ。ここ数年、健康状態は落ち着いているようだったから、老衰ということになるだろうか。
母が亡くなったのが59歳だから、祖母は母より40年長い人生を生きた。人の一生って、99年もあれば、59年の人生もある。40年て、すごいよな。私の人生が、ほぼまるまる入ってしまう。祖母には人のおばあちゃんになってからの人生が40数年もあったのだ。母がおばあちゃんとして生きたのは5〜6年ほどだろうか。
祖母はひいおばあちゃんとして10数年、おばあちゃんとして40数年、私の母親を含む女の子3人の母として70数年、そのずっと前から続く人生が99年。大正時代から毎日が続いていたのだ。
そんな通りいっぺんの区切り方と別に、祖母には本人ならではの、自分の人生のくくり方というのがあるのだろう。とりわけ、どのへんの時代を懐かしく思い出すのか、そんなことはまったく想像つかないほど、たいしたおしゃべりもせずに見送ってしまったけれど、身内というのはそういうものかもなぁという気もする。
私たち一家は、祖母の家の近くに住んでいたので、子どもの頃はよく、祖父母と、母の姉一家が住む家に顔を出していた。私たちは、いとこらと一緒に遊んで過ごした。けれど私は人見知りで、さほど打ち解けていなかったので、なんとなく週末連れていかれては数時間をそこで過ごすという感覚だった。
「おばあちゃんこ」というには程遠い。おばあちゃんにしても、私に対して特別な印象はもっていなかったように思うけれど、「末娘の長女」ということでは気にかけてくれていたという感じか。成人式には着物を用意してくれて、それを着て挨拶に行ったときは喜んでくれていた気がする。
そんな孫の目線から今「おばあちゃんとの思い出」を振り返ると、やっぱり一番印象深く思い出されるのは、母がなくなる数日前におばあちゃんが病院にやってきて、親子対面したシーンだ。
母の姉が、おばあちゃんを施設から病院へ連れてきてくれて、私は病室の外でおばあちゃんを出迎えると、車いすを押して、母のもとへ連れていった。だから私の視界にあったのは、ずっとおばあちゃんの後ろ姿だ。ベッドの上でおばあちゃんを迎える母の表情と、おばあちゃんの小さな背中が、光景としてやきついている。
おばあちゃんは、母が余命わずかということを知らなかったけれど、病院のベッドで病いを患っている様子をみるや、車椅子から起ち上がって「かわいそうに」「どこが痛いの」と母に近づき、手をとって優しくさすった。泣いていた。
当時書きとめた話「おばあちゃんが来た」を読むと、目頭が熱くなってしまう。何を言っていたか、何を感じたか、書きとめておいてよかったな、と思う。
祖母と最期に会ったのは、1〜2年前の年末年始に帰省したときだ。実家から車で数十分のところにある老介護施設に、父と伯母(母の姉)夫婦と一緒に挨拶に行った。その日は機嫌も良かったらしく、私たちを笑顔で迎えてくれたが、私のことは誰だかわからない様子だった。体は一回りちっちゃくなった感じで、手をとってしばらくさすっていたのだけど、家事をしなくなった手はすべすべしていて、あったかかった。
あの穏やかな体調のまま安らかに眠りにつけたのであれば、大往生ということになるだろうか。でも、もう何年も施設暮らしだったのは、もの足りなかったかな。できるだけ頭も体も心も健康に歳をとっていきたいと思う。祖母も、母も、身をもって私に生と死を教えて、この世を去っていった。私は彼女のつくりだした自分の生を、私なりに生きるしかない。この世界に母を、私を送り出してくれて、ありがとうございます。
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