プレッシャーを与えるが吉か、取り除くが吉か
人をマネジメントするとか、人に仕事を教える立場の方にお会いすると、人のモチベーションをアップさせる方法に関心を示す方が多い。やる気になってほしい、モチベーション高く仕事にあたってほしい、もっと貪欲に自分から勉強してほしい。
こうした「人に何かさせたい、動機づけたい」というときに、プレッシャーを与えるが吉か、取り除くが吉かというのは、一度立ち止まって考えたいポイントだ。
先日アップロードしたスライドでも、「後でテストするよ!」は学習成果を向上させるのかという問題を取り上げたけれど、それ以外でも例えば、鹿毛雅治氏が日本で行った公立中学校の実験(*)がある。
中学生に対して小テストを行うのに、1つは「小テストを教師が採点し、成績の評価に用いる」と告げる、もう1つは「生徒自らが学習成果を確認するためにテストをし、その結果は成績評価としてはまったく用いない」と告げる。結果、小テストの結果が成績評価に結びつくとした前者のほうが、内発的動機づけと最終テストの得点が低かった。
「プレッシャーを与えたほうが効果が上がらなかった」という実験結果は、エドワード・L・デシ他の著作「人を伸ばす力」(*)に、これ以外もいろいろ紹介されている。
何かの学習を促すのに、部下なり後輩なりに「点数・順位をつけて競争させる」「○○ができたらご褒美をあげる」「○○ができなければ評価を下げる」「○○するまで××はお預け」「このままでは生き残っていけない」といった報酬、強要、脅し、監視、競争、評価のアプローチは、わりとポピュラーだ。
けれど、こうした外発的動機づけは、その効果の一方で、本人の「内発的動機づけを低減させる」リスクを考慮する必要がある。
内発的動機づけとは、活動することそれ自体がその活動の目的であるような行為の過程、つまり、活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程を意味する。
つまり、外からの統制で何かしようとするのではなくて、それを知りたいとか、やりたいとか、もっと深掘りしたいとか、ずっとやっていたいとか、それ自体への興味関心や好奇心によって、本人が自己決定的にそれを欲し、それをやろうとするもの。
こうした内発的動機づけは、金銭的報酬を与えたり競争させたりといった外発的動機づけをむやみに与えると低められるとする研究が紹介されていて、確かになって思う。
デシは「もともと報酬なしで自発的に取り組んでいる活動に対して外的な報酬が提供されたとき、その活動に対する内発的動機づけはどうなるのだろうか」という問いを立てて実験をした。
実験当時の常識では、「内発的動機づけと外発的動機づけは互いに相容れないネガティブな関係ではなく、むしろ生産的なポジティブな関係とされていた。たとえば、興味をもって取り組んでいる活動に対して報酬がもらえたら、もっとその活動を楽しみ、さらに続けたいと思う」とされていた。
が、実験をしてみると、内発的動機づけは低下する結果となった。最初は報酬なしでも喜んでやっていたゲームなのに、いったん報酬が支払われる環境を体験した学生らは、その後報酬が支払われない環境下に戻ったとき、そのゲームに興味を示さなくなってしまった。「そのゲームは報酬を得るための手段にすぎないもの」というふうに、報酬が人の考えを変えてしまったのだ。
デシは「人はいったん報酬を受け取り始めると、その活動に対する興味を失う」「報酬は自由な行為を、外部から統制される行為へと変えてしまう」「人は自分自身の行動の源泉でありたいと願っている」として、外発的動機づけアプローチに反対する。(報酬の解釈によるけれど)
報酬にかぎらず、強要、脅し、監視、競争、評価といった外発的動機づけは、確かに効果を発揮するが、活動それ自体を楽しみながらするという欲求を失わせるというマイナス効果をもつとしている。
外発的動機づけによって効果が出たものは、一過性が高く、外部依存的だ。たとえば外から報酬が与えられなくなってしまえば持続しない。競争は、活動それ自体より勝つことに注意を向けさせる。強要や脅しは、いかに罰を逃れるかに注意を奪われる。本人の内からなる動機づけは一向に育まれず、外部にはずっと負担がかかり続け、危うさから抜けだせない。
デシは研究をこう振り返る。
外から動機づけられるよりも自分で自分を動機づけるほうが、創造性、責任感、健康な行動、変化の持続性といった点で優れていた
人の「創造性」を軸に学習支援の場づくりを生業とする自分には、共鳴するところが多分にある。プレッシャーを与えて人を統制しようとするより、プレッシャーを取り除いて相手に選択の機会を提供すること。学びたい欲、知りたい欲、わかりたい欲、やりたい欲、試してみたい欲、仕事に持ち込んでみたい欲がすくすく育つ環境をいかに作り出すか、邪魔をしないか。
競争させたり、点数をつけたりしてプレッシャーを与える方法が、なぜ採用されるか考えてみた一つに、“動機づけたい側にとって”施策が単純で、思いつきやすい、講じやすいからではないか、というのがある。けれど、学ぶ側の本人は生きた人間であり、単純な施策で事が済むほど甘くはない。
プレッシャーを与えて何かさせようという外的圧力は不自然で、もろく、軽薄にも感じる。学ぶ側一人ひとりには深淵な心が存在するし、生きたいとか知りたいとかできるようになりたいとか面白いとか達成したいとか、そういうシンプルな力が(たとえその時は眠っているとしても)内在していると信じている。一方で、そのシンプルな力の発揮を咎める何かしらを、人それぞれに抱えていたりもする。そういうことを前提においた上で、お客さんに向き合い、自分の仕事を丁寧に手がけたい。
「学習させるための支援」ではなく「自ら学習するための支援」を念頭に、動機づけたいクライアントに何を提案できるか、学習者からそれをどう自然に引き出していけるか、学習を後押しする場をどう実現できるかを、こまやかに編んでいく。それが自分の働きどころだよなと思った。
*: エドワード・L. デシ, リチャード フラスト「人を伸ばす力―内発と自律のすすめ」(新曜社)
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