必要な経由地
最短距離を狙うと、そんな所に立ち寄るのは無駄にしか感じられないのだけど、そこを経由せずしては、目的地にたどり着けないということが、あるんだろうなぁ。
必要な経由地、必要なまわり道。河合隼雄さんの「対話する人間」を読んでいて、そんなことを思った。
河合先生のところに、ある母親が幼稚園児の息子を連れて相談に来た。来訪理由は、その子が知能がおくれているとは思えないのに、言語に著しい障害が見られるためと言う。確かにその子はまったくことばがうまく話せないので不思議に思って、母親と話し合ってみると、こんなことが分かった。
母親は子どもを早くから「自立」させようと思って、なるべく抱かないようにし、寝るときも幼いときから一人で寝させるようにした。はじめのうちは子どもも泣いていたが、ほうっておくと慣れて泣かずに寝るようになり、親類の人たちもそれを見て「よい子」に育っていると評判だったという。
河合先生の見立てでは、このことこそが、子どものことばの発達をおくらせる大きな要因だった。子どもは発達に従って自立していく。母と子が肌を触れ合って感じる一体感こそ、子どもが健康に育っていくための土台になるのだけど、子どもの自立をあせりすぎたため問題が生じてきた。
親離れ、子離れということばにおびやかされて、親のほうが性急に親子の絆を切ろうとしてしまうことから生じる問題は大変多いのだという。
実際、この話に納得した母親が関わり方を改めると、この子はだんだん母親に甘えるようになり、赤ん坊に立ち返ったように母親に甘え、その後にだんだんと普通に育っていくようになった。
甘えるという所を通過しなかったために、幼稚園児から赤ん坊のところまで引き返して、そこから戻ってきたのだ。
十分に接触を体験したものこそが、うまく離れることができるという、一種の逆説めいた真理
を河合先生は指摘する。
最短距離を目指すと、最初から自立の道へまっしぐらという頭になるが、それに必要不可欠な経由地は案外、反対側のほうにあるというのは、わりといろいろな分野に潜んでいそうだ。
まぁ多くのことには個人差があって、誰しもに必要な経由地ということではないだろうけど、だからこそ取り扱いに慎重を期する。
例えば学生が起業したいと言ったときに、「起業したいなら、今すぐ起業したほうがいい」と説く大人と、「一度就職したほうがいい、それからでも遅くない」と説く大人といる。「どっちでも選んで、選んだほうを正解だったと思えるように生きていけばいい」みたいな話もあるが、あぁあのときやっぱりこうしておけば…と後悔するのも人生で、それを次の原動力にすることも経験価値だ。
ともあれ頭ごなしに、「起業したいなら、すぐ起業する以外ないっしょ」という一択でもなくて、人それぞれに、場合によっちゃ真反対に思われるような経由地を挟むことが無駄じゃないってケースもあるって見方は、含んでおいていいんじゃないかなと思う。もちろん、すぐ起業もありという前提である。
ちなみに、自立と依存の関係についても、よくある誤解を、先の本の中で河合先生は指摘していた。
自立と依存は反対概念ではない。
依存しないのが自立だと思うのは大間違いで、それは孤立だという。自立している人は、自分がどこにどういうふうに依存しているかに自覚的で、依存の自覚と感謝がある。そういう人を自立している人というのだ、と。
人間がそもそも矛盾的存在であることをわきまえるなら、按配というのは常に大事にしたいところ。いいかげんを自分でバランスさせるというのは、いつも、いつも、大事なことだ。それは、誰かじゃなくて、自分でやることなのだ。
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