アイデンティティとか個性とか
アイデンティティとか個性とかっていうと、各人がもって生まれた特質だとか、周囲の環境によって揺るがされない確固たる不変性をもつ気がしなくもない。自分の内側を掘って掘っていった先、いずれ確かな直感をもって自ら探し当てる、というような。
けれど実際は、人と関わって環境に影響を受けながら形作られていく、もっと柔らかでオープンなものなんだろうなぁと、そういうことを考える機会が、最近まとまってあった。
といっても最近たまたま手にとった本のどれにも、そういうことが書かれているように読めた、というだけなのだけど、勝手に関連づけては、そんなことを考えた。
一冊あげるなら、阿部智里さんの「玉依姫」の中にある一節。これは別にアイデンティティについて語っているわけじゃないのだけど、勝手にこう置き換えて読んでみた。
自分を自分たらしめているのは何かっていうと、
一番大事なのが自覚で、二番目が他者からの認識なのだ
自分が自分をどういうものと認識しているか、どうとは認識していないか。人が自分をどういうものと認識し、どうとは認識していないか。その相互作用で形作られていくのが、自分のアイデンティティとか個性とかってものかなと。アイデンティティと個性を横並びにおくのが、そもそも雑なのかもしれないけど、どちらも人の認識の外には、置きようのないものではあると思う。って言い出したら、そんなのばっかりだけど…。
閑話休題。元NHKアナウンサーで最近独立した有働由美子さんのエッセイ「ウドウロク」には、個性について書かれた文章があった。
有働さんが、自分はこれから沢山のアナウンサーの中で、どうやって仕事をしていけばいいのだろうと、大勢の中での自分の個性というものを思案しだしたときのこと。
私は、どんな場所に、どんな立場でいて、どういう仕事をしていて、何歳で、どういう容姿なのか。それもこれも含めてすべてみている他人が、私のことをどんな個性の人間だと思っているのか。それさえ掴めていれば、あとは楽になる。仮にそれが、自分が思う本当の自分とは少々ずれていても、それは自分の素を理解されていない、ことにはならない。逆に、なぜ私はこう受け止められているのかを考えると、自分には見えていなかった自分の個性が見えてきたりする。社会の中での個性とは、そういうものじゃないだろうか。
彼女は、それに応えていくことで自分の個性を磨いていった。自分の自覚する個性が人に理解されない、分かってもらえないと嘆くより、もっとオープンに、自分と人との間に認められる個性に目を移してみると、楽になれたり、ほんものの自分に近づけたりするのかもしれない。
河合隼雄さんの「『出会い』の不思議」には、こんな一節がある。
そもそも、アイデンティティというものは「開かれた」ものこそ、ほんものなのだ
自分勝手につなげて解釈しているだけだけど、まとまって読んだ本がなんとなく共鳴しあっているような気がした。
生まれながらにして自分のなかに埋め込まれた種が、ひとりでに個性として花開くわけじゃない。いろんな人と関わりながら、いろいろと変わっていくもの、いろいろと変えられるもの。決して不変性を前提とするものじゃないんだろう。そういうラフさを大事にして、人と関わりながら発見したり育んだりしていくものなんだろう、自分というものは。
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