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2018-03-31

「無料で読む」熟語

無料で読ませているんだけど「購読者」「購読ユーザー」と書いているメディアがあって、これは明らかに間違っているよなと思う。「購読」は「買って読む」ことを意味するので、無料メディアでは使わないよなと。

それはそれとして、じゃあ無料の読み物系メディアが、読んでくれている人をどう呼んだらいいんだろうと考えると、ちょうどいい言葉がぱっと出てこない。「読む」を熟語で言い表そうとして、真っ先に思い浮かぶのは、やはり「購読」であり、次が出てこない。読み物は売り物として普及したという背景によるものなのか。

これが動画だと、テレビのおかげか無料で観ることを前提とした「視聴者」という言葉がすっと出てくる。聴くコンテンツだと「聴取者」、というより「リスナー」という言葉が、ラジオのおかげですっかり定着している。これも無料前提。

Webサイトは「閲覧者」が一般的だけど、これがメルマガだったり、読み物系のニュースアプリともなると、基本的に「記事を読む」というスタンスなので、「閲覧」という言葉がフィット感を欠いてくる。

意味的にいい感じなのは「閲読(えつどく)」だと思っているのだけど、これはいまいち一般化していないのが難点。巷であまり聞かない。でも、読むを内包した感じが好ましい。そして、これなら無料メディアでも心置きなく使える。

ということで、今のところ私の中では、みんながもっと使うようにして、「閲読」という言葉をメジャーシーンに押し上げるのがいいんじゃないかと思っている。が、もうすでに別の言葉が普及しているのを私が取り逃がしているだけなのかもしれない。今一度、慎重にその辺の言葉に触れてみることにしよう。

いずれにせよ、「無料で読む」という体験が世の中に増え、一般化(大衆化)された言葉を欲している。これが時代の要請というやつか、などと思う。

追記:そっか。読者か。

2018-03-22

「Web担当者Forum」でキャリア話の連載開始

地味にも程がある…と写真見て思わず突っこんでしまいましたが、時すでに遅し。服装のことを一切気にかけず第1回の取材に赴いたため、都会の迷彩服か!みたいな装いになっていますが、まぁ平常運転…。何はともあれ「Web担当者Forum」での連載が始まりました。

「Web系キャリア探訪」というコーナーで、森田雄さんとともに、Web系の仕事に携わる方を訪ねて、その方のキャリアや、組織の人材育成をテーマにインタビュー、月1回ペースでお届けしてまいります。

第1回は「まだ会社でやれることがある」同じ場所にいるからこそできる挑戦――岩崎電気 新井隆之氏に聞いた

事業会社でWebマーケティングやネット戦略系のお仕事に携わっている方、あるいは専門家としてその手の領域を手がけられている皆さんに、自分のキャリアや、組織の人材育成を考える際にお役立ていただける情報や論点をネタ提供していけたらと思っています。

この手のことって、自分ひとりで考えるのがわりと難しく、限界あるテーマだと思っていて、他者や他社という比較対象をもって、照らしあわせることで見えてくる自分や自社の特徴や価値観、現状や課題の発見があれば嬉しいです。

で、やってみてまず思ったことは何かと言うと、人の話を聴くのはほんとうに楽しいなぁということ。その人が経験してきたこと、その過程で感じたこと、考えたこと、逡巡、今振り返って思うこと、最近考えていること、今後に思うこと、そうしたことをじっくりと、その人の選ぶ言葉で、表情で、声で、話を聴かせてもらうというのは、たいへん豊かな体験です。

クライアントやパートナーと打ち合わせで話し込んだ後にも、友人知人とひとしきりおしゃべりを楽しんだ後にもよく思うことなのだけど、今回縁あって、これまであまりおつきあいのなかった方面の方々の話を聴く機会に恵まれ、貴重な時間を過ごさせていただいています。

が、相変わらずインタビューは難しい。私は瞬発力が乏しいので、事前の準備を入念に…と思っていろいろ下準備はしていくのだけど、人のキャリアの話って、つまりは人生そのものの話なので、お話に引き込まれて、へぇ、ほぉと聴き入っていると、さらに周囲に頼りになる人がいると、舵取りがどんどん人任せになっていってしまう…。

今のところ、当初の懸念を上回るパフォーマンス不足をひしひし感じながらやっているのですが、下手に引き締めにかかってせっかくのお話に集中できなくなっては元も子もないので、まずはこのフォーメーションならではのトークを楽しみつつ、回を重ねながらゲストのお話を引き出すレベルアップを図っていけたらなと思っている次第です(甘いですか、ですよね…)。

第1回の記事内でも最後に書きましたが、今どきは一社の中でロールモデルを共有すれば事足りる世の中でもなく、Web界隈のように人材流動性が高い業界こそ率先して、キャリアや人材育成について、企業間をまたいだ情報共有を活発にして、刺激を交換しあえたらいいかなと思っています。また企業組織に属していない方にもお役立ていただける記事をお届けしていきたいと思っていますので、今後どうぞ、ごひいきに。

あと個人的には、仕事を面白いと思っている人の声が、もっとネット上に出回って、それが若い人にも届いたら嬉しいなと思っています。社会人が、皆いやいや仕事して、18時の終業を待っているばかりじゃないし、仕事と自分の関わりをこんな表情で話す大人もいるんだってことを、写真とあわせて記録し、届けられたら嬉しいなと。

2018-03-19

「その仕事は自分の成長につながらないのでやりません」考

一般のクライアントからいただく研修案件だと、Web系の学習テーマを扱うことが多いのだけど、自社やグループ会社、あと友人知人の会社からもらう相談は、キャリア形成や若手育成に関するテーマのほうが多い。

ということで、とある案件の下調べがてら、新卒社員の育成とかメンター方面の本を数冊買ってきて読んでいるのだけど、そのうちの一冊がリクルートコミュニケーションエンジニアリングの船戸孝重氏、徳山求大氏の共著本「折れない新人の育て方 自分で動ける人材をつくる」(ダイヤモンド社)。

で、そこに出てくる話で、これはワークショップなどの意見交換ネタにいいんじゃないかと目に止まったのが、帯にもなっているこれ

部下に仕事を頼んだら「嫌です。その仕事は自分の成長につながらないのでやりません」と返ってきました。どうする、なんて応える?

もちろん参加者をどう構成するかで、学びのほどは変わってくるんだけど、いろんな人の考えや仕事ぶりに触れられる問いかなぁと思う。酒の肴にして「自分だったら、どうします?」って話題にしてみるのも楽しそう。こういう意見交換で、淡々と神業を出してくる人っているしなぁ。

ちなみに、社内でワークショップ的にやってみようという場合は、自分のところの環境でありそうなシチュエーション、仕事内容を具体的に情報加えてお題を出すのをお勧めします(そういう前提情報がないと、深く思考を練ることができないので、なんとなくな考え方の交換に留まって中途半端に終わる可能性が高い)。

あと、そもそもそういう感じのことを言いそうな人は採用していないという会社は、もっと現実的に起こりそうなケースで意見交換したほうが有意義だと思う。

ちなみに、この本の中で紹介されたのは、こんなシチュエーションだ。

ある会社の営業セクションでのこと。営業部員の人事異動に伴い、顧客の担当替えが行われた。会議の席で、「Aさん、君はBさんから引き継いで、下期から大手のX社を担当してくれ。Bさんは新たにベンチャー系の中小企業を担当してほしい」と課長が指示した。すると、入社一年目のBさんは、「嫌です」と即答。課長が「何でだ?」と尋ねると、Bさんは悪びれることもなく答えた。「そのお客様を担当しても、私の成長につながらないからです」

これは実話で、当の上司は、あまりの驚きに声が出ず、二の句が継げなかったという。実際こういうシーンに突然直面した場合、すぐに気の利いた対応をするのは難しそうだ。

課長の立場で、人によってどんな展開が考えられるかなぁと、いろいろ考えてみた。

●絶句。静かに心のシャッターを下ろし、それ以降極力その人に関わらないようにして放置。頼みたかった仕事は別の人をアサイン
●激昂。怒りに身を任せて、つべこべ言わずにやれ!と怒鳴って従わせる
●情で押す。会社や世の中ってのはさ、自分がやりたくないことでもやらなきゃいけないこともあるしさ…と、会社や世の中を主語に説き伏せる
●論破。「おまえは自分の成長に何がつながって、何がつながらないかをすべて見通せているのか、じゃあ何はそれで何は一切成長につながらないか説明せよ、そう考える根拠も説明せよ」と理攻め・質問攻め。相手の死角や非合理的な信念をつき、息の根をとめる…
●淡々と事を進める。「じゃあ、やらなくてもいいから代案をくれるかな。この仕事を誰かがやらないと、うちもX社も困るのはわかるね。じゃあそれ、君じゃない誰がやるべきで、その根拠は何か、その人の了解と私の納得を得られるように論理立てて説明してくれるかな」など

自分がその人のメンターなりカウンセラーだったらどう関わるか考えてみると、やはりこの人の「成長志向」に機会を見出すのがいいか。そこに軸をたてて、まずはその人にとっての成長イメージを具体的に理解することに努め、そこから今回の仕事と、その成長イメージとの関連性を見いだして具体的に提示してあげられればベスト。

どうにもつながらなかった場合、それまでに聴かせてもらった話から他の機会を見出して、「この仕事を引き受ける」ことに「自分の成長につながらない無駄な仕事」以外の、どんなプラスの解釈がありうるかを一緒に考えて、思考を広げていく感じになるか。

(1)あなたは、どんな成長を希望しているのか
(2)どういう仕事だと、その成長につながって、どういう仕事だとつながらないと思うのか
(3)私は、あなたの望む成長に、今回の仕事経験がこういうふうに意味をもつと思うけど、それについてはどう思うか
(4)今は欲していないけど、経験を通じて得られれば、後から振り返って「やって良かった」と思えるタイプの成長もあるだろうし、あなたが今計画している成長ゴールと、その道筋だけにがんじがらめになるのはもったいないような気がするけど、それについてはどう思うか。そのゴールを急ぐ、あるいは経験の取捨選択にこだわる理由が何かあるのか

みたいな話をじっくり話しあってみて、一緒に考えの道筋を探っていく時間が大事な気がする。正解はない前提で。と、まぁいろいろ考えてみたけど、なかなか興味深い問いなので、とりあえず酒の肴にして話を聴いてみよう。

2018-03-14

100の事例解説より、自分で事例研究へ

法人向けに研修プログラムを作って提供する仕事をしていると、「事例解説」を求められることが多い。先方ご担当者から「事例をふんだんに入れてほしい」と求められることもあるし、受講者にとるアンケートでも「事例がたくさんあって分かりやすかった」という感想コメントは定番だ。

事例解説というのは、たしかに有効なアプローチだ。新しい概念や方法論の説明って、ただ聴いただけでは、なかなかぴんと来ないもの。事例解説を加えると、それを現場でどう使うのか、どう組み込むと効果的なのか、どういうドキュメント&コミュニケーションで周囲を動かすのか、どういう所がはまりポイントなのか、どういうリスクヘッジや根回しが必要になるかなど、文脈にそって具体的なイメージをもてる。

概念説明だけでは取りこぼしてしまう"痒いところ”を、ストーリーに織り込みながら解説できるので、聴き手は自分の持ち場に取り入れやすくなるし、新しい概念それ自体の理解も深まる効果が期待できる。もちろん話し手がそういう話し方をすれば、という条件つきだけど。

優れた事例解説には、事例解説ならではの学びがきちんと埋め込まれている。一件の事例から、あるいは複数の事例を横に並べて、熟達者はこういう観点をこんなふうに解釈して、再現性あるノウハウをこんなふうにストックしていくのか、という思考プロセスを学べるように話す。逆に、一事例から下手に拡大解釈して他にそのまま適用することがないようにも、注意を払って解説をする。そういう事例解説は、何か新しいことを学びはじめたとき概念説明と一緒に聴いておけると、知識基盤を固めやすく、その後も能率よく知識をアップデートしていける。

と、私は事例解説というアプローチに、それならではの価値を感じている。のだけど、数を聞いたら聞いただけ身になるというものでもない、とも思っている。

知識基盤を作ったら、あとその上にトンテンカントンテンカン更なる知識ノウハウを積み上げていくのは、自分の仕事にしたほうがいいのではないか。つまり、その後も延々と事例解説を他者に(だけ)求めるのではなく、自分で(も)事例を世の中から収集し、分析し、そこから学べるポイントを抽出し、応用できる状態でストックしていくように切り替えたほうが、スムーズに血肉化するのではないかと思う。

というわけで最近「事例を前年よりさらに多く」と求められた案件では、100の事例解説より自分で事例研究を!として、受講者が自分で事例を集めて、自分で分析して、自分で他のメンバーに解説し、事例研究を交換しあうミニ演習を、提案に盛り込んだ。

ワークシートを配って、そこを埋めてきてもらう形なら、そのシートの構成次第で難易度や所要時間はチューニングできる。受講者のレベル感や時間枠に合わせてどうワークシートを作り込めるかは、こちらの腕の見せ所だ(これがテキトウだと効果は見込めなかったりする)。

宿題で、ちょっと事例を持ってきてもらって、次の回にグループごとに事例を解説しあってもらえば、事例とそのポイントを自分で説明する訓練にもなるし、「どこどこ社も、こういうふうに取り入れて、こんな反響が得られているんですよ」などと話せるようになれば、明日からのちょっとした営業トークにも取り入れられるかもしれない。

事例解説を欲しがる人から、事例解説を与える人、ネタを持ち寄って交換しあう人間関係に変わる。そういう研修プログラムを提供したい、そう思った。実務家には、現場から持続的に学び続ける能力が必要だと思うし、そういう能力獲得を後押しする支援をしていきたい。

もちろん、数十分のセミナー時間枠で、そのテーマを一から説明する必要がある対象者なのに、ただインタラクティブで盛り上がるからという理由でワークショップ形式を持ち込み、解説もそこそこに事例研究をやらせるのは違うと思う。でも、一定の時間枠を確保できて、自由に研修をデザインできるなら、事例解説だけでなく、「事例から何をどう学ぶかポイント解説→事例研究の演習」を組み込んでみるといいんじゃないか。

「お客さんの要望をそのまま形にするのではなく、背景にある潜在的ニーズを読み取って提案するのだ」とはよく言うけれど、お客さんからオリエンを受けたとき、「事例解説を厚くしてください」ってわかりやすい要望を出されると、そのまま「事例解説を厚くします」って、要望に応えそうになる。素直さとも言えるが、思考停止とも言える。

それでほんとに、より高い効果が見込めるか、いやぁ、違和感あるなぁと思ったら、その違和感を大事にしたい。きちんと違和感に気づいて、そのもとをたどって言葉にして、どうだったらいいのか考えて、そっちのアプローチも作って提案する。そんなふうに、本当に意味がある、現場パフォーマンスを変える学習経験って何だろうっていうのを練って提案するのを当たり前の感覚として研ぎ澄ましていきたいと思った最近の一件。

2018-03-12

1週間と、十日間

クライアントからオリエン(相談)を受けて、提案書を出すまでの期間って、みんなだいたい「1週間」なのだろうか。私はたいてい「では、1週間以内には提案書をPDFでお送りしますので」と言って客先を後にする。

どういう業界の、どんな規模感の、どんな複雑性の相談ごとかで違うのだろうけど、とはいえ1週間ならOK、2週間だと(特別な事情がないかぎり)「遅っ」と思われそうな感じは、野生の合意事項なのかなんなのか、なんとなーくある気がしてならない。

提案を出す側の感覚として、1週間なら相手も「うん、そんなもんだよね。うちの仕事だけやってるんじゃないんだし」と、普通に受け止めてくれそうな気がして口にしやすい。実際、1週間と言って眉間にしわをよせるお客さんはいない。ちゃちゃっと1日2日でやって!という類いのものは別だが。

それが2週間となると、言う前から「遅いですね」という相手の反応が想像されて口に出す気にならない。自分に向き合っても「2週間与えたらダレて、いい提案かけないだろうな」という気がするので、相当な規模なり複雑さを漂わせた案件でないかぎり口にしない。

私がそういう規模感の仕事をしているということかと当初は思ったのだけど、大きいなら大きいなりに粗くとも方針を指し示すとか、小さければ詳細に落とし込むなりして、提案内容の粒度は違えど、1週間という期間設定は似たり寄ったりなのかもしれない、とも。でも忙しい人だと、直近1週間確保ってきついかもな、とも。

ただ、あるとき、1週間はつらいなぁという重ための提案があって、「十日」と言ってみるのはありなのではないかと思いついた。それで言ってみたら、すんなり快諾くださったのだった。

以来、基本は変わらず「1週間以内」だけど、まれに「十日以内」というのを使っている。
オリエンでいろんな話が挙がって、ちょっとこりゃ提案作るのもいろいろ大変でしょうって共通認識が、お客さんと握れているふうのオリエン時に言う。「いただいたお話を踏まえると、ご提案を用意するのに少し時間がかかりそうですので、十日ほど…」というセリフを覚えたのだ。今のところ「えぇ、えぇ」と、すんなり受け入れてもらえている。私は選択肢を手にしたのだ。

そうして、その十日間が始まるのだが、余裕はない。今日までの十日間が、そうだった。あれやこれややっていると、あっという間に十日は経つ。ちなみに「十日ほど」のニュアンスは、10営業日ではなく、10日間だ。なので、週末を2回挟んだ約束は気持ち的な余裕はあるものの、営業日的には先々週の金曜日にオリエンを受けて、翌々週の月曜日までに提案書を出すスケジュール。

与件を整理して、要件を定義して、提案方針を考えて、具体策に展開して、それを準備するスケジュールをたてて、見積もりに落とし込んでと、自分の中で整理して、構造立てて、提案書に起こして、関わってくださるパートナーの方に説明して、内容を調整したりして、なんてやっていると、十日まるまる。

今日は十日目。約束どおり提出できて、とりあえずほっとした。お客さんからの反応は戻ってくるまで予想がつかないけれど、年明けから意識的にストレッチのきいた提案を出すようにしているので悔いはない。あとは正面から受け止めて、応えていきたい。

先日、無事に誕生日を迎えて歳を重ねた。大人になると、自分で自分のバーをあげていく必要があるんだよな。今年はそういう、自分なりにストレッチをきかせた提案書を丹念に作っていこう。「もっと洗練されたものを」「もっと頭の回転を早く」などは、憧れるものの向かう先が不透明で難しいけれど、案件ごとに「お客さんがそういうことなら、こうしたらいいんじゃないか」という提案を、自分の見える120%先まで言葉にして提示することはできる。そこをきちんとやって、提案が通ったらしっかりやり抜いて、実務が強化トレーニングも兼ねるようにやっていきたい。

2018-03-08

番号札を店員さんに向けるか問題

このところ、友人とのおしゃべりの席で尋ねてみていることがある。先払いのカフェなどに入って、例えばトーストと紅茶を頼む。お会計を済ませると、「トーストはお席にお持ちします」というので、トレイに紅茶と番号札をのせて、席に向かう。そんなことが、ありますねと。

席を決めて着席をする。そのとき、そのトースト待ちの番号札を、店員さんがやってくるほうに向けて番号が見えやすいように置き直すって、世の中の何割くらいの人がやっているものでしょう、というのが、私の問い。

少し前、まさにこの番号札の置き換えをしながら、この行為ってどれくらい当たり前で、どれくらい当たり前じゃないものかと疑問に思ってしまったら、なんだか気になってしまって。

問いの答えも気になるけれど、それについて友人がどういう答えを述べるのか、というか、その問いを切り口にして「世の中をどう捉えているか」みたいな話を深掘りして話しこめるのが面白い。

私は当初、6〜7割は店員さんに向けて置き直すけれど、3〜4割は、まぁそちらに気が回らなかったり、本読みたい紅茶飲みたい一息つきたいとか他に気の向かう先があって、置き直さないって感じなんだろうかと思っていた。

けれど友人に聞くと、だいたい割合が逆転している。6〜7割が置き直さないほうじゃないかと。人によっては、番号札を置き直すのは1割くらいでは、とも。そんなに?

どうあるべきとか、どうあってほしいとか、どうでないと嫌とかそういう話とは違って、ただ世の中のメジャーどころって、どの辺なんだろうという疑問のようなものなのだけど、もうしばらく酒の肴にして、いろんな人に訊いてみたいなぁと思っていること。

これって別に、優しいかどうかとかじゃなくて、そのほうが店員さんも楽だし、自分も早くあったかいトーストにありつけるし、番号札の向きを置き換えるなんて全然負担でもなんでもない1秒タスクだし、つまり合理的だからやっているという感じだと思うのだけど。人の「当たり前」というのは、ほんと、つかみどころがない。

2018-03-03

移行するのか、共存するのか

先日ここに書いた「働き方を考えるカンファレンス2018」では、スマイルズの遠山正道さんのお話も面白かった。

株式会社スマイルズは、食べるスープの専門店「Soup Stock Tokyo」を運営する会社として知られるが、自社事業のほかコンサルティング&プロデュース、出資・インキュベートという形で、いろんな事業を手がけている。遠山さんは三菱商事の社内ベンチャーから同社を起こして独立、2000年の設立以来、代表取締役社長を務めている方。

今「Soup Stock Tokyo」は50数店あるらしいけれど、さらに店舗を倍増とかしていく気はさらさらないそうで、スタッフからもそうした声はあがらないという。2018年に2〜3店舗出す予定はあるものの、あくまで面白いパートナーや場所があれば出店するとのこと。「私、スープ売るために生まれてきたわけじゃないからね」と笑って話していらした。

こうした拡大路線に乗らない事業のあり方を私はすごく自然に感じるし、時代に合っている気もするのだけど、違和感なり「王道ではない」感覚を覚える層もある気がする。

バブル期と一線をひく、今のアラフォー世代以下にはわりと自然に感じられるのでは?とも思ったけど、はたして世代差なのか、あるいは業界によって差があるのか、大企業と中小企業に勤める人の価値観に違いがあるのか、そうした分かりやすい集団の考え方の違いとして分けられるものなのか、考えてみると、よくわからない。

スマイルズは他にもユニークな事業をいろいろ手がけていて、四国に出している「檸檬ホテル」は1日1組だけ泊める宿、「森岡書店」は1冊の本を売る5坪の本屋さんだとか。

規模が小さいほうがリスクが少なくて、いろいろチャレンジができる。チャレンジするとユニークなことができるので、その情報が遠くまで届く。それで、きちんと利益を出しているのだという。「森岡書店は、この間いちおう株主総会もやったんですよ、喫茶店で」と、壇上でにこやかに笑う。順調なので、この度エアコンを買ったのだとか。

大きな会社だと、どうしてもスケールさせたくなる。ユニークなチャレンジを許容できなくなる。100ブランドやるなら、大きな会社1社でやるより、小さな会社100社でやったほうがいいと説く。

スマイルズのあり方を「新しい」とするなら、これまで王道とされた「従来の」やり方や価値観は、今後廃れてゆくのか、それとも時代に適応しながら併存してゆくのか。

そもそも従来型って、なんだろうな。規模の拡大を狙うこと、売上や粗利、店舗数や販売エリア、販路の拡大を狙うこと。こうした拡大路線を、他の選択肢を検討する余地なく盲目的に狙うことだろうか。

時代が進んで、規模拡大の一択ではない、多様な狙いの置き方、ゴールの目指し方が台頭してきたってことか。事業をスケールさせずにチャレンジしやすい状態を維持して、ユニークな価値を社会に送り出すことに専念する、という企業としての立ち方が、この情報化社会には成り立ちやすくもなったし、ポピュラーにもなったということなのか。

背景として、人の暮らしぶりが豊かになって、人の幸せのあり方、事業を通じて追求したいことも多様になったって語れるものか。

そうして人の価値観が多様になったと考えるなら、事業をスケールさせようとすることでドライブがかかる人もいれば、ユニークな価値を生み出そうとすることに専念したい人もいるのでは。とすると、どっちを狙う組織もあったほうが豊かで、多様性ある社会ということになるんじゃないか。とすると、ここは一つ、移行ではなく共存の方向で、スケールさせたいもあり、スケールさせないもありってのがよろしいのでは。

例によって別にこれという結論のないメモなのだけど…、何か新しいものが出てきたとき、それが従来のものから移行していく流れにあるのか、共存していく流れにあるのか(なんて真っ只中ではわからないのが常なので)、早計に決めつけずに観察し続けたい。どちらに向かっているかというと、自由、合理化、多様化、個別化、いくつかキーワードになる道標はあると思うんだけど、新旧フラットに観察して、双方を尊重して、活かす道を探る受容性を大事にしたいところ。

2018-03-02

駅員さんの声がかぶるネタ

混雑した渋谷駅の改札口付近で、2人の駅員さんが右から左から、拡声器をもって張り合うように声を出している。その日は事故か何かがあって、駅構内は混雑というより混乱状態だった。人がごった返す中、駅員さんが必死に乗降客の誘導にあたっていた。

改札口のあっち側とこっち側、数メートルしか離れていないところで同時に叫ぶものだから、おたがいの声をかき消し合って、どっちも聞こえない。両方とも声はしっかり聞こえるのだけど、両方とも何を言っているかはわからない。

こういうことは、過去に何度も経験がある。駅のプラットフォームでも、電車が遅延しているときなどは、自動放送の案内に駅員さんのマイクの声が乗っかってきて、さらに上りと下りの自動放送が入り混じって、何が何やら。もはや自分に最も必要な情報の聞き分け能力を試されているかのようである。

あれは、やっぱり、気がついていないということなのだろうか。わざとかぶせても仕方ないし。話す側に立っていると、聞く側の立場に気が回らなくなる。伝えることに精一杯になってしまうと、周囲の状況が見えなくなり、それが伝わっているかどうかまで気が回らなくなる。自然といえば、自然なことかもしれない。

一人の人が案内しているときには、ゆずって終わるのを待つというルールなりマニュアルなり指導なりがあれば変わるのか。あるいは、もうひとり世話役みたいな人がいれば、そばで気づいて、順番に言いなさいとか、一人でまとめてやりなさいとか声をかけられるのでは。そんなことも思うけれど、あいにくそういう役どころはなかなか登場しない。1人は東京メトロの人、1人は東急の人だったりするのかもしれない。

などと、どこにも到達しそうにないようなことを考えながら、ちょっとした引っかかりを得ると、なんとなく観察して、時おりメモにとってみたりする。今、上に書いたようなメモだ。

取り立てて何かに展開する見通しも意図もない、書くことで期待できる収穫もないまま、ただ気にとまったシーンを言葉でスケッチしてみる。

何か気に止まったことを、そのまま忘れてしまうよりメモにでもしてみたほうが、何かの足しになるかもしれない。なんとなく気に止まったということは、何かしら意味があるのかもしれないし。

そうして書いているうちに本当に何かしらの気づきを得ることもあるし、別の何かと結びついて、ほとんどそれと関係ないようなところに考えが及ぶこともある。

あるいは、知覚したイメージを言葉で描写していく過程で、あれ?あれって何ていうんだっけ、どっちの漢字だっけ、この言葉って本当にこういう意味で使っていいんだっけ…などと日本語の勉強に移っていることもある。書くからこそ「わからない」が出てきて、わからないに至れるからこそ「調べる」に到達するのだ、これでいいのだ、と思う。

それすらもなく、何にも展開しない、ただシーンを描写するに留まることもある。書いたこともいずれ忘れてしまって、何にもなっていないというメモもたくさんある。

でも、何にも展開しなかったからといって無駄なことをしたという気もしない。後になって、また掘り起こす日が来たりするかもしれないし、まぁ一生来なかったとしても、それはそれでいいじゃないかと。そうして満足できちゃうところに、自分の凡人性を感じる。

というわけで、冒頭の渋谷駅の話も、ずっと何にもならずに眠り続けていた凡メモである。それをなぜ今さら引っ張り上げるに至ったのかというと、この間たまたまお笑い芸人の「中川家」が、自動放送と駅員さんの声がかぶるネタを笑いにしているのを見つけたからだ。

これを見て、日々の引っかかりをもって、こんな見事にコンテンツを創造する人がいるのだなぁと、笑いながら感服。非凡の極み。それで、自分の手元にある何にもならなかったスケッチを、この笑いにお供えして成仏をはかるというか、なんというか…。

それでも、明確なねらいも期待ももたず、何にも到達しないかもしれないスケッチも、のんびり続けていきましょう。そんな言葉の散歩もいいでしょう。

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