「腑に落ちない」という身体性
先日「働き方を考えるカンファレンス2018」というイベントに参加したところ、たいそう素敵なお話を聴けた。普通の語り口でしゃべっている言葉の連なりが、コピーライティングされたように切れが良くて、頭のなかに鮮やかに伝えたいコンセプトがイメージされていく感じ。終始聴き入ってしまった。
瀬戸昌宣さん。アメリカのコーネル大学で昆虫学の研究と教育に従事してこられた農学博士。2016年に高知県は土佐町に移住、翌年NPO法人SOMAを設立して「まったく新しい学校」づくりを手がけられているという。
なかでも響いたのが「分けられないものは、分けないでいい」という言葉。これは日頃より、自分がすごく大事にしていることなのだけど、このコンセプトを人の声にのせて直接(しかも切れ味よく一言で)聴く機会はなかなかないことなので、恐れながら、わーっとシンパシーを感じてしまった。
例えば「働く」と「学ぶ」と「遊ぶ」と「生きる」とか。分けられないものは分けないで生きていったらいい。そうすれば自分自身ばらばらにならないでいい。瀬戸さんは、そんなことを話していた。ここだけ切り取ってしまうとアレかもしれないが…、対談の中で、すごく自然な語り口で、そんなことを話していたのだった。
いやぁ、家に帰って愛読書「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」を読み直してしまった。以前に「境界線を引く人」というお話で引用したけれども、一部を取り出すと、
いっさいの言葉は、「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、ホントウは何らかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線を指し示しているのである。だから、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言ってもいい。
そうなのだ。「働く」と「学ぶ」と「遊ぶ」と「生きる」の間にも境界線などなく、分断されない、ひと連なりの人の活動である。ある人の人生の、ある特定の時間(例えば、ある月曜日の19時〜20時の誰かとの食事)が、ある面からみれば「働く」、ある面からみれば「学ぶ」、ある面からみれば「遊ぶ」、ひっくるめて「生きる」時間であり、その全部の意味をもって、その1時間を解釈することもできるのだ。
そして、この4つの言葉で言い切れていない、もっといろんな意味解釈を与えることだって、人のちからでできる。なぜって、人がそこに境界線を引き、区別し、そこに自分の価値基準に従って名前を与えているだけだからだ。
もともと区別のないところに、場面場面で便宜的に名前を与えたり述語に展開して、家族に「食事しています」とか、会社に「仕事しています」とか、友人に「会食しています」とか言っているのであって、用途がなければ、そこに名付けも区別も必要なくなる。
ただ、日常生活にはさまざまな用途があふれていることも確かで、名前を与えたり述語に展開したりして語りに展開する。それによって、より豊かな解釈をたぐり寄せられることもある。だからいろいろと、そのときどきで意味づけして、名前を付けて、これはAではなくBですと境界線を引いて、その先へと思考を展開していくわけなのだけど。
厄介なのは、一度分けることを覚える(=分かる)と、何の用途もないシチュエーションでも、私たちは既に使った(学習した)その区別の仕方を使いまわして、自動的にそれらをそれとして分けてしまいがちになることだ。
会社にいる時間は仕事時間、本を読んでいる時間は勉強時間など、自動的に、本来はユニークな日々の活動を、既存の枠組み(名前)に押し込んで分類してしまうようになる。そうすると今度、ある枠組みに押し込められた活動は、「その用途でのみ、やっている」という認識に縛られるようになってしまったりする。
周囲の環境から与えられる既成の価値観みたいなものにも、どんどん飲み込まれていく。「失敗より成功」「2位より1位」という価値基準に飲み込まれ、自分の体験の一つひとつを「失敗した」「1位を取り逃した」としか解釈できなくなると、もうがんじがらめだ。
あらゆる活動には、さまざまな意味解釈を与えることができて、そこには否定的な一つの解釈だけでなく、今後のいろんな生産的価値を見いだせるし、それが自分次第でできるという前提がある。その自由さえ確保しておければ、今回は失敗したけど、こういう収穫があったというふうに、別の切り口からそれを評価・展開していくことができる。その体験を「失敗」と名付けるかどうかも自由だ。
「ヒーローか凡人か悪人か」という3択で人のことを早計に名付けせずに、いろんな人が秀でたところ、平凡なところ、ずるいところの全部をもっている1人の人間であるというふうに多面的に捉えられれば、人の見方、人とのつきあい方だって、もっと開放的になる。
こうあるためには、意識的に「分けない」という選択ができる一段上のコントロールが必要になる。必要がなければ、安易に既成の名付け・解釈を与えず、一緒くたにしておく、分けない。これは、けっこうなエネルギーを要する。気を抜いていると、うっかり分けてしまう。
何かの意図をもって切り分けて名前を与えたときにも、「この用途のために、便宜的に切り分けた」という活用範囲を意識しておいて、その範囲を超えるときは、いつでも一緒くたに戻せるのが理想。全面的にその分類を採用してしまって、それにがんじがらめにされると、柔軟な組み換えができず、変幻自在性が求められる時代には命取りになる。
同じ言葉を使っていても、その意味するところは10年前、30年前と比べて変化していたり、いい悪いの印象すらひっくり返っていることもあるし、同じものを意味するのに10年前、30年前とは別の言葉で呼ばれるようになっているものもある。大企業、中小企業、ベンチャー、スタートアップ、正社員、サラリーマン、フリーランス、アントレプレナー、起業家、あれやこれや、言葉とその意味の入れ替わりは、ところによってはせわしない。
今のような時代にはとりわけ、言葉の意味するところを慎重にすり合わせながら人と言葉を交わしていくこととか、そうしたコミュニケーションを通じて、自分の使う言葉の解釈の広がりに敏感になって、意味を再定義したり、名付けの体系図や価値基準を入れ替え続ける心がけが大事だなと思う。大事な意味、本当のところを取り逃がさないように、柔軟な頭(思考)で意味をたぐりよせていかないと。
で、そのとき思考とともに大事になるのが、身体性なんだなって思った。先ほどの瀬戸さんの対談記事が、「ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台 Vol.3 「教育×地元」号」にあるのをTwitterでたまたま知って、これはご縁だなぁと思って買ってみたら、これもまたツボだった。
身体性って重要で、思考と行動にズレがあると、その「気持ち悪さ」や「違和感」を、「腑に落ちない」みたいな感じで体を通して教えてくれる。俺の場合、それらは分けられないものを分けようとしているときに出てくるんじゃないかと思っている。それぐらい身体化された思考や知識が智慧なんじゃないかというのが最近の考え方かな。
うーん。読ませるなぁ。そういう思考と身体性の意見交換を大事にしていきたい。私たちは、問題を成立させている背景が書き換わっていく時代、言葉の意味が書き換わっていく時代、気づいたら問題が解消していたり、問題の中身が別のものに差し替わっていたりする時代に生きている。頭を柔らかく、いつも開放的に、自分の中身を入れ替えていけるように心がけよう。ときに割りと簡単で、ときに割りと難しかったりするけれど。
はぁ、頭の中がごちゃごちゃしているので文章を構造だてるのを放棄して、もうこのままおしゃべりとしてのせちゃう。
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