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2018-02-26

「腑に落ちない」という身体性

先日「働き方を考えるカンファレンス2018」というイベントに参加したところ、たいそう素敵なお話を聴けた。普通の語り口でしゃべっている言葉の連なりが、コピーライティングされたように切れが良くて、頭のなかに鮮やかに伝えたいコンセプトがイメージされていく感じ。終始聴き入ってしまった。

瀬戸昌宣さん。アメリカのコーネル大学で昆虫学の研究と教育に従事してこられた農学博士。2016年に高知県は土佐町に移住、翌年NPO法人SOMAを設立して「まったく新しい学校」づくりを手がけられているという。

なかでも響いたのが「分けられないものは、分けないでいい」という言葉。これは日頃より、自分がすごく大事にしていることなのだけど、このコンセプトを人の声にのせて直接(しかも切れ味よく一言で)聴く機会はなかなかないことなので、恐れながら、わーっとシンパシーを感じてしまった。

例えば「働く」と「学ぶ」と「遊ぶ」と「生きる」とか。分けられないものは分けないで生きていったらいい。そうすれば自分自身ばらばらにならないでいい。瀬戸さんは、そんなことを話していた。ここだけ切り取ってしまうとアレかもしれないが…、対談の中で、すごく自然な語り口で、そんなことを話していたのだった。

いやぁ、家に帰って愛読書「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」を読み直してしまった。以前に「境界線を引く人」というお話で引用したけれども、一部を取り出すと、

いっさいの言葉は、「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、ホントウは何らかの価値基準に従って世界に引いた、区別のための境界線を指し示しているのである。だから、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言ってもいい。

そうなのだ。「働く」と「学ぶ」と「遊ぶ」と「生きる」の間にも境界線などなく、分断されない、ひと連なりの人の活動である。ある人の人生の、ある特定の時間(例えば、ある月曜日の19時〜20時の誰かとの食事)が、ある面からみれば「働く」、ある面からみれば「学ぶ」、ある面からみれば「遊ぶ」、ひっくるめて「生きる」時間であり、その全部の意味をもって、その1時間を解釈することもできるのだ。

そして、この4つの言葉で言い切れていない、もっといろんな意味解釈を与えることだって、人のちからでできる。なぜって、人がそこに境界線を引き、区別し、そこに自分の価値基準に従って名前を与えているだけだからだ。

もともと区別のないところに、場面場面で便宜的に名前を与えたり述語に展開して、家族に「食事しています」とか、会社に「仕事しています」とか、友人に「会食しています」とか言っているのであって、用途がなければ、そこに名付けも区別も必要なくなる。

ただ、日常生活にはさまざまな用途があふれていることも確かで、名前を与えたり述語に展開したりして語りに展開する。それによって、より豊かな解釈をたぐり寄せられることもある。だからいろいろと、そのときどきで意味づけして、名前を付けて、これはAではなくBですと境界線を引いて、その先へと思考を展開していくわけなのだけど。

厄介なのは、一度分けることを覚える(=分かる)と、何の用途もないシチュエーションでも、私たちは既に使った(学習した)その区別の仕方を使いまわして、自動的にそれらをそれとして分けてしまいがちになることだ。

会社にいる時間は仕事時間、本を読んでいる時間は勉強時間など、自動的に、本来はユニークな日々の活動を、既存の枠組み(名前)に押し込んで分類してしまうようになる。そうすると今度、ある枠組みに押し込められた活動は、「その用途でのみ、やっている」という認識に縛られるようになってしまったりする。

周囲の環境から与えられる既成の価値観みたいなものにも、どんどん飲み込まれていく。「失敗より成功」「2位より1位」という価値基準に飲み込まれ、自分の体験の一つひとつを「失敗した」「1位を取り逃した」としか解釈できなくなると、もうがんじがらめだ。

あらゆる活動には、さまざまな意味解釈を与えることができて、そこには否定的な一つの解釈だけでなく、今後のいろんな生産的価値を見いだせるし、それが自分次第でできるという前提がある。その自由さえ確保しておければ、今回は失敗したけど、こういう収穫があったというふうに、別の切り口からそれを評価・展開していくことができる。その体験を「失敗」と名付けるかどうかも自由だ。

「ヒーローか凡人か悪人か」という3択で人のことを早計に名付けせずに、いろんな人が秀でたところ、平凡なところ、ずるいところの全部をもっている1人の人間であるというふうに多面的に捉えられれば、人の見方、人とのつきあい方だって、もっと開放的になる。

こうあるためには、意識的に「分けない」という選択ができる一段上のコントロールが必要になる。必要がなければ、安易に既成の名付け・解釈を与えず、一緒くたにしておく、分けない。これは、けっこうなエネルギーを要する。気を抜いていると、うっかり分けてしまう。

何かの意図をもって切り分けて名前を与えたときにも、「この用途のために、便宜的に切り分けた」という活用範囲を意識しておいて、その範囲を超えるときは、いつでも一緒くたに戻せるのが理想。全面的にその分類を採用してしまって、それにがんじがらめにされると、柔軟な組み換えができず、変幻自在性が求められる時代には命取りになる。

同じ言葉を使っていても、その意味するところは10年前、30年前と比べて変化していたり、いい悪いの印象すらひっくり返っていることもあるし、同じものを意味するのに10年前、30年前とは別の言葉で呼ばれるようになっているものもある。大企業、中小企業、ベンチャー、スタートアップ、正社員、サラリーマン、フリーランス、アントレプレナー、起業家、あれやこれや、言葉とその意味の入れ替わりは、ところによってはせわしない。

今のような時代にはとりわけ、言葉の意味するところを慎重にすり合わせながら人と言葉を交わしていくこととか、そうしたコミュニケーションを通じて、自分の使う言葉の解釈の広がりに敏感になって、意味を再定義したり、名付けの体系図や価値基準を入れ替え続ける心がけが大事だなと思う。大事な意味、本当のところを取り逃がさないように、柔軟な頭(思考)で意味をたぐりよせていかないと。

で、そのとき思考とともに大事になるのが、身体性なんだなって思った。先ほどの瀬戸さんの対談記事が、「ミシマ社の雑誌 ちゃぶ台 Vol.3 「教育×地元」号」にあるのをTwitterでたまたま知って、これはご縁だなぁと思って買ってみたら、これもまたツボだった。

身体性って重要で、思考と行動にズレがあると、その「気持ち悪さ」や「違和感」を、「腑に落ちない」みたいな感じで体を通して教えてくれる。俺の場合、それらは分けられないものを分けようとしているときに出てくるんじゃないかと思っている。それぐらい身体化された思考や知識が智慧なんじゃないかというのが最近の考え方かな。

うーん。読ませるなぁ。そういう思考と身体性の意見交換を大事にしていきたい。私たちは、問題を成立させている背景が書き換わっていく時代、言葉の意味が書き換わっていく時代、気づいたら問題が解消していたり、問題の中身が別のものに差し替わっていたりする時代に生きている。頭を柔らかく、いつも開放的に、自分の中身を入れ替えていけるように心がけよう。ときに割りと簡単で、ときに割りと難しかったりするけれど。

はぁ、頭の中がごちゃごちゃしているので文章を構造だてるのを放棄して、もうこのままおしゃべりとしてのせちゃう。

2018-02-23

研修の効果測定やら評価やら

私はクライアントに研修を提供する仕事を生業にしているけれども、研修本番が終えた直後「終わったー」という開放感に包まれることは、あまりない。まれに講師を引き受けると本番直後の安堵感が半端ないのだけど、裏方稼業をしていると、研修後のレビューまでが一連なりになっていて、そこを終えるまではなかなか気が抜けない。

研修後は諸々の材料から一人レビューを行い、それをレポートにしてクライアントに提出、それをもって振り返りの打ち合わせをもち、客先から帰ってくると、その内容を整理、近い未来の私に引継メモを残す。そこから請求書の発行手続きを行い、これを終えたあたりで「ふぃー」と声がもれる。今週はそんな「ふぃー」が一つあって、会社のデスクで地味にゴールテープを切った。

研修後のレビュー工程は、プロジェクト初期の「ヒアリングして提案書を出すまで」と同じくらい、裏方にとっては勝負どころだ。適当にやろうと思えば、オーソドックスな受講アンケートをこしらえて、その回答結果を集計してレポート提出するのでも格好はつく。手を緩めようと思えばいくらでも緩められる中、どう品質にこだわれるかという点では、まず自分の態度を試されている気もして、気が引き締まる。

なんて言いながら、以前の私はわりと甘かった。イレギュラー対応はあれど多くの案件では、研修直後に受講アンケートをとって集計と考察をレポートするに留まり、アンケートで何を問うか検討するのも、たいていは教材開発するタイミングでやっていた。今も、作り込みを受注後にやるのに変わりはないし、受講アンケートに留まることも少なくない。

ただ近年は、提案を出す段階で「どう効果を測定するのか」の見通しを立てるように改めた。ゴール設定とあわせて、それをどう効果測定しうるか/すべきか考えて、言語化して提案書に書きこむ。当たり前っちゃー当たり前の話だし、提案書に書きこむ量だって、その時点ではあくまで方針の提示なので、たいした量ではない。だけど、提案段階でゴール設定と効果測定を関連づけて考える習慣の有無は、私にとって確かな変化だ。

また簡易な受講アンケートをとるにしても、中身を以前より吟味するようになった。少ない設問数に留めつつ、どういう観点をどういう言葉で問いかけ、回答コメントから何を読み取って、何を改善点として抽出し、どうレポートで考察・提案を述べるかは、いくらでも創意工夫の余地があるし、洞察力や表現力によってレポートの中身も受け取られ方も変わる。集計結果だけでなく、骨のある解釈や考察、実効性ある提案を、どう簡潔に提示できるか。途方なく上には上があるけれども、だからこそ頑張りどころである。

効果測定の方法も、いろいろ。「受講アンケート」で満足度や理解度、感想を問うオーソドックスなものもあれば、研修前・後の「パフォーマンステスト」を用意して、仮想案件で個々に成果物を作ってもらい、それを個別に評価して研修前後の能力変化と今後の課題や学習方法を、本人とマネージャー別個にレポート作ってフィードバックするガッツリ系もある。研修内容をどれくらい理解しているか、知識習得度を測る「筆記テスト」を作って採点し、結果をレポートすることもあるし、受講者のパフォーマンスや態度を観察して「所見レポート」をテキストに起こすこともある。へろへろになるけれど、ウケは良い。

何をどう測るべきか、どういうフィードバックをすれば、「やっておしまい」でなく、うまく現場にバトンを引き渡せるかは、その案件のゴール設定や学習テーマによっても変わるし、お客さんによっても効果検証にどれだけのコストを割くのが妥当かは判断が異なる。実際、効果検証や評価って仕込めば仕込んだだけ良いというものでもないし、テストなど開発して実施・評価するとなると、作る側もやる側もけっこうな工数をとられることになる。

そんな諸事情をまるっと受け止めて、案件ごとに最もいい按配の、ゴールと中身と効果測定を構造だてて提案し、その整合性を保って現場をチューニングしながら走り抜き、その一貫した目をもって評価や効果検証をし、次の課題設定を示す。そこを頑張るのが裏方の役目だなと思う。

研修や勉強会の類いは、しっかり目的・ゴールからブレイクダウンして中身を構造化して、評価フィードバックを入れて、現場の行動変容につなげようとすれば、ずいぶんと手間がかかる。勢いだけではできないし、いくら気概があっても実務エキスパートが本業と並行して仕組みづくるには負荷が高すぎる。結果、多くの社内外イベントは開催するまでがゴールとなり、何かを伝えた後、それを持ち帰ってどれだけ活かせるかは参加者次第ということになる。

そこのサポートこそ仲介者たる自分の役目で、意図する目的や設定したゴールに向けて、しっかり中身を構造だてて、言葉でこそ伝えるべきものは能率よく講義し、それを使った練習機会を作り、それを評価し、本人やマネージャー層にフィードバックして、現場での発揮、定着、応用につなげられるよう、裏で構造を練りあげて場をつくる。そこを頑張りたい。

という話を、先日のUX JAMのライトニングトーク「UXデザイナーのUXデザイン学習のデザイン」で、新年の抱負として話したのだった。

今回のお客さんの総括レポートには、今後どう研修内容を実務活用につなげていくかの方向づけやアイディアも書き込んで提出しておいて、振り返りの打ち合わせではその辺りも話しこんだ。

振りを受けて、お客さんも「来期の研修体系をどう見直すか」という研修話の枠を超えて、今回の研修をやりっぱなしにせず今後どう実務活用につなげていくか、どう自分たちが仕掛け・環境づくりをしていったらいいかみたいな話を展開していって、私もしゃべれるところをしゃべって補完して、良い話し合いの場になった。

新しいお客さんだと、しばらく話しこんだ後、我に返ったように「あぁ、すみません。社内会議につきあわせちゃったみたいで」と気を遣われたりするけれど、いやいや、すごく嬉しいし、そんなこと言われないくらいのパートナーになっていきたいなぁと思う。

最近少しずつ、お客さんとの関係性に広がりが出てきている気がする。新しいところでは「研修の講師は社内で立てられるのだけど、どう研修を体系化して中身を作っていったらいいかとか、それをどう効果検証して改善していったらいいかとかの相談にのってほしい」という純粋なコンサルティング案件も舞い込んできた。このご縁もすごくありがたく、試行錯誤しながら楽しんでやっている。

私のやる仕事は手仕事が多く、横展開して大規模に展開するインパクトはもてないけれど、こんなふうに型にとらわれないやり方や組み方を手作りして働いていけたらいいなと思う。

2018-02-17

MBA11inchから、MacBook12inchへ

先日、私物のMacBook Airをダメにしてしまった。買ってから数年経つものの、壊れないかぎり当面使い続けるつもりでいたのに、転機は突然に訪れるものだ。

自宅でニュースサイトの映像を見ながら食事をとっていたところ、手元のコンソメスープをパソコンにぶちまけてしまった。急いでキーボード上の水分を吸いとり、逆さにしてポタポタこぼれ落ちるのも拭いてみたりしたけれど、時すでに遅し感が半端ない。ディスプレイが不気味な動きで異常を訴えている。

ニュースキャスターが画面の左側でしゃべり続ける中、ポインタの矢印が画面いっぱい自由に動き回って、縦横斜めに移動したり消えたり出現したりせわしない。その動きはさながら狂ったハエのようであり、あぁ終わった…感に包まれた。

何を押しても、電源ボタンすら、その指令を受け取ることは叶わないようで、キーボードを使ってもマウスを使っても一切のコミュニケーションを受け付けない。もう、このパソコンの脳みそはコンソメスープに冒されてしまったのだ。ちゃぷん。

となると、切り替えは早い。ダメなものはダメなのだから、次どうするかである。特に、わが家はテレビがなく、ニュースも娯楽もネット頼み。大好きなラジオも、radikoを使ったネット経由である。スマホがあるので陸の孤島感はないけれど、パソコンがないと、いろいろと不便。まとまったテキストも打てない。早々に代替機を手に入れなければなるまい。

また基本的に面倒くさがりなので、買い物の類いに時間をかけることができない。一刻の猶予があろうがなかろうが、買い物の検討時間は短いほうがいい。個人的なものを選ぶときは、とりわけ直観任せである。

というような怠け者の自己都合によるパソコンの買い替えは、これまで使っていたものと極力同じものの最新版が第一候補になる。しかし、MacBook Air (MBA) の11inchはもう出ていない。私はAirにこだわりたいわけじゃなく、11inchの小サイズにこだわりたいので、となると、最も近しいのはMacBook 12inchだ。今のMacのラインナップだと、これが一番小さいし、どうやら重量もMBA 11inchより軽くなって1kgをきっている。厚みも4mm近く薄くなっているという。

しかし、この外部機器に通じる口がUSB-TYPE Cの一口しかございませんというのは、なんなのだ。電源供給で、この一口を使ったらおしまい。ワイヤレスマウスのレシーバー、スマホの充電、HDMI接続と、何かしらの併用時は基本的に拡張ケーブルをぶら下げることになる。全然スマートじゃない。

「使用時の使い勝手」を軽視して「使用しない時の見た目と携帯性」に偏重な感じが、実際的につらいのと、作り手へのなんだかなぁ感で、どうも乗り気になれない。

でもまぁ常にマウス、HDMI、スマホ充電に使っているわけじゃないしな、他に選択肢を広げてあれこれ考えるのも面倒だし時間ないしなぁと、その手間を天秤にかけると、面倒くさがりの心は限りなく広大になるのだった。結局受け入れることに。

というわけで、早々MacBook 12inchを買ってしまったのだけど、そんなことそっちのけの事案が、購入直後に立ちはだかった。打鍵音がうるさいのだ。そうだった。私、打鍵音にうるさい人だった。打鍵音がうるさいことにうるさい人だった。ということを忘れていた。数年おきに買うような買い物って、自分が何を大事にして買いたいかという観点を覚えていられないのが、つらい。次回はAIにご指摘願いたい。

今回のMacBookは、だいぶ打鍵音がうるさい。それも高音域でカチャカチャ言う。これ、すごく苦手なのだ。売り場で触ったときは、売り場がうるさいので気づかなかった。

セミナー会場などで使ったら、確実に「かちゃかちゃうるさい人」になれる自信がある。これは、つらい。例えていうなら、朝起きたら自分が苦手とする「くちゃくちゃ音を立てて食べる人」に生まれ変わってしまっていたような、やりきれない生理的受け付けなさがある。これは、どうしたものか。

で、ネットで検索してみると、打鍵音に物申している人がざくざく出てきた。一番簡単な対応策として、「キーボードカバーを使う」という勧めがある。これなら1,000〜3,000円くらいで策を講じられそう。レビューを見て良さげなメーカーをメモ、ビックカメラやヨドバシカメラに足を運ぶも、その辺は置いていないので、Amazonで買うかなぁと退散。これで丸く治まることを願いつつ、壊れたMBA 11inchも起死回生を狙って天日干し…。

というわけで、今回の学び。一つ、私にとって打鍵音が小さいことは、パソコン選びにおいて大変に重要な選定ポイントであることを肝に銘じる。次回もぜひ覚えておきたい(覚えておける自信はあんまりない…)。

一つ、次世代機だからといって、あらゆる面がバージョンアップしているわけじゃない。何かに強く肩入れして磨き上げたことによって(例えば薄さや軽さ)、別の何かが前の機種より損なわれている(例えば静音性や使い勝手)こともある。そして自分の重視する観点が、損なわれたほうにあるということも往々にしてあるわけなので、同じブランドのバージョンアップ品と言えど、そこら辺をわきまえてだな、それなりに調べて検討の上で買い物したまえよ。

一言でまとめると、慌てる乞食は貰いが少ない。あ、あと、言うまでもないけど、飲食物とパソコンはもう少し離して置こう。

もう一つ気がかりは、毎回お古のパソコンをあげている友人に、あと数年はパソコンを引き渡せなくなってしまったこと。もうかれこれ10数年、パソコンを買い換えると、お古を彼女に引き渡す儀式をしていて、もう4〜5台になる。それが今回壊しちゃったことにより、次がだいぶ先送りになってしまった。まぁ前に渡したMBAも不便なく使いやすかったから、当面はこのままいけると思うのだけど。そう思うと、MBA 11inch、ほんとにいいマシンだったなぁと思う。無念。

最後にMacBook12inchを褒めておくと、軽い薄いに加え、ディスプレイはすこぶる美しい。吸い込まれるように、美しい。これを標準として日常を暮らせるのは、きっと豊かなことだろう。その辺の感度は鈍いのだけど、だからこそそれを日常とすることは、きっと良いことだろう。

後日談(2018/2/23追記):Amazonで買った、moshiというメーカーのClearguard MBというキーボードカバーが優秀で、静音性がぐっと高まり、特に高音域のうるささがなくなって、ストレスなくMacBook12を使っています。キーボードカバーの中では高値の3千円台だけど、ここで下手に安さ求めて結局効果なかったらやだなぁと思い、どーんと。一件落着。

2018-02-10

花束を母に

数日前から、ある音楽が頭の中に流れ出した。ずっと頭から離れないというのでもない。なんだか控えめに、日に一度か二度、ふいに流れ出して、私が鼻歌まじりに頭の中で流していると、適当に切り上げて消えていく。

それが今日まで続いて、これは今年の「母の命日」のテーマソングなのだと思った。母が「今年は命日に、これをかけてよ」とリクエストしているような気になって。そっちで、こっちの新譜もチェックできるのか知らないが…。

これまで一度も母と関連づけて聴いたことのない曲だったし、特別興味をもって聴いていた曲でもなかったのだけど、母の命日の数日前から頭の中に流れ出した縁を大事にしよう。

そう思って、命日の晩に部屋で流して聴いた。あぁ、そういう歌なのかと縁を感じつつ、2011年2月からもう7年かと思いつつ、それからの7年をたどりつつ、7年前まであった母との時間に想いを寄せつつ。

花束を君に(Youtubeの動画)。一日遅れになるけれど、明日は家族みんなで会いに行きますよ。花束をあなたに贈るために。歌を聴いて、真っ先に思ったのは「お母さんは普段からメイクしてたじゃない?」だったけど。

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