半年ほど前、ジェーン・スーさんと秀島史香さんのトークショーに足を運んだとき、ジェーン・スーさんが話していたことを思い出した。
最近は「無関心社会」とか言われるけど、実は真逆。関係ないことに首突っ込んで「関心過剰な社会」だよねって話をしていた。有名人の私生活にあーだこーだ言うなど。そもそも、あなたそれをいいの悪いの判定する立場にないよね、みたいなところに口を挟む関心過剰社会。ジェーン・スーさんはほんと、こういうのを端的にうまいこと言う。
そんな社会の窮屈さに触れた後、彼女は確かこんな考えを述べた。
関心過剰な監視社会を作るのか、あるいは寛容な社会を作るのかに、私たち30、40代が重要な役割を担う。
あぁ、そうだなと思って書き留めたメモがある。最近の世事にふれると、なんとなくこんな感じのことをよく思い浮かべては、私たち次第で変わるんだよな、私たちが作っているんだよな、世の中の空気を、と思う。その一方で、そのことを、まだきちんとわかっていないな、視点やふるまいは旧態依然としたままだな、とも思う。
例えば、小室哲哉が引退を宣言した記者会見の言葉を読むと、最後にこんなことを言っている。
このソーシャルな時代ですから、その方たちの声は耳に届いたり、目にすることはできますので、見させていただくというか。読ませていただくというか。声を聞きたいと思っています。その中から答えが出てくるのかなぁという気もしています。(中略)こういったことを発信することで、みなさんも含めて、日本をいい方向に少しでもみなさんが幸せになる方向に動いてくれたらいいなと心から思っております。微力ですが、少し(でも)なにか響けばいいなと思っております。ありがとうございます。
*【全文4/4】小室哲哉「“悔いなし”なんて言葉は一言も出てこない」 音楽活動引退への複雑な胸中│logmiより
彼のほうは、言わば私たち一般の人と同じグラウンドに立って交信を試みているようにも思われる。私たちが小室哲哉に向かってメッセージを返す道は開通している。21世紀とは、そういう時代だ。
だけど、私たちは未だ20世紀型の屋内施設の客席に着席したまま、舞台上の小室哲哉と文春を見比べては良し悪し判定するふるまいから抜け出せていないのではないか。文春に向かってあーだこーだ反応を返しているのは、「向き」の明後日感を覚える。
壇上の誰かが叩かれるのを見て、一緒に叩くのか、叩く側を叩くのか、いずれにしても自分は客席にいて、安全な場所から壇上に上がっているプレイヤーの良し悪し判定するだけという世界観は、なんだか前時代的な感じがする。
もう端っこでもなんでもとりあえず皆、グラウンドに立つ一員に立場は変わっていて、そのふるまいによってインタラクティブに試合展開は変わっていくのだという世界観のほうが21世紀的だなと感じる。壇上でもないし、客席でもない、フラットなグラウンドの上に、みんなして立っている感じ、みんなが相互作用しあう関係にある感じ。
私たちは文春を叩くことじゃなくて、小室さんに活動を続けてほしいとか、ゆっくり休んでほしいとか、休みつつも音楽活動は続けたらいいんじゃないかとか、思っていることを伝えることができるし、怒っているのか共感しているのか、軽蔑しているのか応援しているのかも、伝えることができる。それが最もシンプルな「向き」の合わせ方だと思うのだけど、どうも20世紀後半に覚えた客席目線に慣れてしまって、そこから抜け出せていない気がする。
向かう先を間違えちゃいけないなぁと。まっすぐ向く先、声をかけて働きかける先はきっと、外なら応援する対象だし、内なら自分がどうするかだし。もう、明後日の方向に向かってしか、もの言えない時代じゃないのだし。
「壇上の有名人と、客席の一般人」に限らず、生活者としての企業・プロダクト・サービスとの向き合い方も、良し悪しの判定を下すだけのふるまいから自分は次の時代にまだ移行していないと省みることが、ままある。
何かのサービスを利用して不具合があって、それを企業に直接返せる窓口は大企業であれ開通しているのに、それを直接、事業者にフィードバックするふるまいをなかなか採ろうとはしない。企業側がSNSなど使って消費者の声を拾いにくればいいと言えばそうなんだけど、客も事業者もフラットにつながって友好関係を結ぶ世界観に立つなら、消費・利用する立場の自分も率直な感想や意見を返して、より良いサービス・プロダクトになっていくよう働いてもよいものだけど、そういう生活者にはなかなかシフトできていないなぁと我が身を振り返る。それが適切な道筋なのかどうかも、よくわからないけれど。
外部の何かについて批評めいたことを思うと、後から苦い思いが募る。SNSで誰でも発信できる時代とか、誰もが作り手になるのだとか言っていても、結局のところ有名人を壇上にあげて、自分は客席にいる、ゲームには参加していない、あくまで観客であるという縦構造に収まろうと無意識にしているのかもしれない。
インターネット時代に生きる私たちは、このフラットな世の中を、もっと自在に行き来できる世界観の中で、もっと良い形にふるまいを変えられるんじゃないかと思う。
もちろん世界観は多様なもので、皆がそれをともにするわけじゃないけど、インターネット時代の、この世界観を共有する人は一定数いるはずで、その世界をどう有意義なものにしていくかという世間づくりの一端を自分も担っているわけで、自分もたとえものすごーく微細な影響であれ、この世界の空気を作っている一員なんだよね、と思ったりする。
いい社会を作るかって、壇上に立っている有名な人がいい人かどうかという他人任せじゃなくて、自分がいい行いをしているか。自分が楽しんでいるか、心豊かか、人に感謝しているか、お礼を言っているか、配慮しているか、許容しているか、まっすぐ率直にその人に伝えるべきを伝えているか、下手に首突っ込んで腹立てていないか、助けているか、声かけているか、挨拶しているか、謝っているか、何をシェアするか、何を黙認するか、何を言葉にするか、何を言葉にしないか、日々の、自分の、そういうことの小さな小さな積み重ねが、いい世界を作るのだよな、と。ちっちゃなちっちゃな自分も、おっきなおっきな世間の構成員の一人なのだよなと。
Qちゃんのこのお話は、とってもとっても素敵だったな。と同時に、「明らかにわたしたち一般人とは違うものを持っていました」と切り取ることもできるけど、私たち誰もが、こういうことができる世の中の構成員の一人であるとも言えるなって思った。
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