甘い解釈策「運が悪かったのだ」
ちょっと相当、気をもむことがあって、それに対する対処法や、自分の心持ちをどう導いたら健全だろうとか、このところずっと自問自答したり思考錯誤していた。
いざ覚悟を決めて試行してみても、戻ってくる反応はなく、ではより良いどういうアプローチが自分にありえたかと反省してみるも、良さそうな代替案は浮かばず。
そもそも試行する前に、どのタイミングで、どういうやり方で、どういう言葉をつづって、何を伝えたいのかを思案して、行きつ戻りつ熟考を重ね、今の自分の力のかぎりを尽くして一歩出たのだ。
試行に対して何らかリアクションがあれば、それを受けとって反省して、新しいやり方なりスタンスを思いつく可能性も出てこようが、反応無しで別の策というのは、もはや今の自分に望めないのだった。
もっと器の大きい有能な人には対処できるのだろうか。その人はどんなアプローチで、それを軌道に乗せるのだろう。あるなら知りたい。力量の問題なら、私はこの機会を活かして、これを正面から乗り越えることで成長できるってことでは?と、好奇心と向上心をもって純粋に考えてみるも、やはり思いつけないものは思いつけない。
人に意見を聞こうにも、私からの偏った情報では、慰めようはあれど、策のアドバイスは難しかろうと思う。かといって、反応がない以外に相手方の情報を提示することができない。公平性を欠く前提で人に相談を持ちかける気にもなれない。
はたして、これをどうしたものかとしばらく考えあぐねていたのだけど、とりあえずの着地点を見出した。
運が悪かったのだ、ということにしてはどうかと。
この状況下で、自分の反省点や次の一手を見つけるのは難しい。それは、もうわかった。ひとまず今の私には対処困難な事案と考えるのが妥当だ。
しかし、この心理状態をこのまま続けるのも健康的じゃない。人生はそう長くない。健康第一、健やかな精神性を維持&育て続けることは、私にとってとても大事なことなのだ。
であるならば、いったん、自分のほうに目に見えて至らない点はなかったということにしてしまって、自分の反省点探しを切り上げ、この先これを好転させる策に頭を悩ますのもやめて、別へ気持ちを切り替える。向きをかえて我が道を前進するのが、健康的にみて最善だろうと考えるに至った。
そのときの落とし所として、「運が悪かったのだ」とするのだ。これなら、後を引くわだかまりも残りづらく健康的だ。
頭でそう至っても気持ちの引きずられる機会はちょいちょい巡ってくるかもしれないが、それでも頭の中はいくらかすっきりするし、頭が心の良き話し相手というか聴き役として機能するだろう。
そうか、そうかと、その度に頭は、私の悶々とした思いをひとしきり聴いて、こう返すのだ。
運が悪かったのだ、あまり気にするな。もしかすると、あのときこうしていれば良かったというアイデアが先々浮かぶことはあるかもしれない。それはそれで成長を喜べば良し。でも今回だって、大きな落ち度があったわけじゃない。自分の身の丈でできうる最大限のことをやってダメだったんだから、それはもう仕方のないことなんだ。自分の人生として、受け容れるほかない。運が悪かったんだ、ということにして。そういう解釈で、いいんだよ。下手にもうこれ以上、自分の反省点を絞り出そうとしてくたびれないでいい。これをそのまま引き取るのが私の人生なのだ。
そうなのだ。仕方ないよな。私には、思うところを抱えこんだまま黙り続けることもできなかったし、かといって反応を期待できない(向こうに望まれていないであろう)試行をこの先もだらだら続けることだってできない。そういう人間なのだから仕方ない。それで今ここにいるなら、この結末は自分が招いた必然なのだし、その結果は自分で引き受けるしかないのだ。
ただでさえ自分が役に立てる領域なんてニッチで細々としているのだから、長々と気落ちしていても仕方ない。微力でも自分が貢献できるところに身をおいて生きていけばいい。それしか健康に生きていく法もないのだから。
自分の側に何か落ち度がなかったか、より良いアプローチはなかったかを考える癖は大事にしたいけど、どうにも突破できないで心が塞いでいくばかりのときは、「運が悪かったのだ」と真反対に着地させるのも、やり方だなと思った。解決策でなく、解釈策を講じるのだ。
しかし、どこからどこまでを運の悪さに含めるかで、ことの大きさは変わってくる。そこはまだ、頭も決めかねている。四十にして未だ惑うのも、人生の味わいなのかもしれない。心のうち、全開である。
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