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2017-09-23

新規クライアントの初回訪問

今期は4〜6月(春)、7〜9月(夏)と、3ヶ月タームで数案件が立ち上がっては収束して、お客さんの入れ替わる感がある。この3ヶ月ターム、10〜12月(秋)も続くもようで、今は夏案件の実施レポートや評価フィードバックと、秋案件の新規引き合いの束が折り重なっている。

今週・来週は縁あって3件の新規訪問があるので、人見知り引っ込み思案緊張しぃの私にとっては、わりと大変な日々である。それぞれに下調べをし、営業&ヒアリングの準備をし、訊きたいこと、いろんな仮説を持って、いざ訪問。そこであれこれお話を伺った後は、問題を整理して企画を立て、1週間程度で提案書にまとめて提出する大仕事が待っている。

客先にヒアリングに行くと、たいてい先方から複数メンバーが出てくる。4、5人のことも多い。そこで先方にいろいろ質問を重ねていくと、「あ、これはもしかすると、私個人の意見かもしれないですけど…」という前置きに遭遇することがある。わりと、ある。私が尋ねることは、組織的にみれば結構ニッチな論点と思われるので、そういう場面に遭遇しやすいのだと思う。

ヒアリング中、こうした前置きを聞くのは好きである。私の質問を引き受けて、誰かが何か答えてくれようとする。ひと言発した後「あっ」と一旦止まって、ちょっと他のメンバーの顔を見回す。そして、他の人が同じ意見かわからないんですけど…と前置きしてから、再びこちらを向いて話し出す。

それを一通り聴いた後、他の方にも答えを求めていくと、これまで先方社内で話し合われたことがなかったことについて認識をすり合わせる機会を持ったことになる。さらに、そこで落とし所まで一緒に話し合えれば、社内の合意形成までその場で進めたことになる。この先の私の提案が先方のお眼鏡にかなうかどうかに関わらず、少なくともこの打合せを持ったこと自体は、先方にとって無駄ではなくなるのだ。

ヒアリングを終えて外に出てくると、大丈夫だったかなぁと毎回不安になるけど、このセリフに遭遇した打合せの後は、ともかく皆さんが、このテーマでざっくばらんに意見交換し、どう施策を打っていくか方向性をすり合わせる機会にはなったのだ、と一呼吸入れる。今週訪問した先でそのセリフが聴けて、あぁ、良かったと思った。自分は自分で、これを持ち帰って、いい提案を考えて持っていこうと思う。

受注後ともなると、先方から10人近く参加する打合せもある。そういうときは先方の社内打合せに、私がちょこんとお邪魔している感じになる。私はキャラ的にあまり異物感がないらしく(存在感が弱いとも)、そういう感じでやりとりできると、個人的には仕事がやりやすい。

もちろん一人だけだいぶ立ち位置が違うので、混ぜてもらっている立ち位置から意見を出していく必要があるのだけど、客先で社内の議論を前進させるざっくばらんな打合せに関わらせてもらえるのは楽しい。毎回客先に一人でのこのこ行くのも、これを作り出すにおいては、なにげに大事にしたいこと。影薄キャラも、大事にして活かしていきたい。

2017-09-18

「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて

デジタルハリウッド大学の2017年秋のキャンペーン「みんなを生きるな。自分を生きよう。」に触れて。Facebookに書いたことだけど、とても大事な気持ちなので、ここにも残しておこう。Facebookでは、うずもれてしまう…。

デジタルハリウッドは1996年、小僧の私を拾って社会人にしてくれた会社。インターネットにつなげてくれた会社でもある。

杉山先生はいつも目をキラキラさせて、夢ではなく事業を語る人だった。いつか誰かの夢でなく、来たるべき社会の姿と、自社の理念と事業をかけ合わせて、いつもワクワクした顔をして私たちに話をした。

まっさらな私に、リアルな「会社」の概念を与えた人でもある。会社も、仕事も、事業も、ビジネスも、全部有意義なものなのだという当たり前を、私にインストールした人。

当時一緒に働いた先輩方も、へんてこな会社に転職してくる、自分を生きてる人の集合体だった。私に「働く大人」の当たり前をインストールしたのは、この人たちだ。

最初にここで働けたことの意味を、私は10年20年して改めて感謝している。なので、一般の感覚では到底評せないけど、いいコピーだと思う。

ユングの、人の成長とは個性化の過程という考え方が好き。人が成長するってことは、他の人と違っていくということ。みんなと同じになっていくことじゃなくて。私の周辺には、そういう人がうじゃうじゃいて楽しい。私も私なりに、自分を生きている。

2017-09-03

ビンタについて

あるメディアが、ある人の「ビンタ」を問題として報じて以後、他メディアでも多く、強度へのさしたる言及なく「ビンタ」という言葉を採用しているのが気になっている。

あの会場にいたという人のtweetで、「ビンタは「目を覚ませ」な感じで音も聞こえないピタピタ、とほっぺた触った感じ」と書いているのをみて、私の脳内にあったビンタイメージを、バチーンからピタピタに挿し替えてみた。だいぶ場面が落ち着いた。

バチーンだと「叩く」だけど、ピタピタとかペチペチだったら、限りなく「触る」に近づく。先のtweetも一人の意見で絶対視できるわけじゃない。けど、他に見た、強度に言及していない多くのビンタ記事より、具体的なイメージを提供してくれているし、少なくともバチーンじゃない平手打ちを、私のビンタイメージのうちに放り込んでくれた点で、ありがたかった。

「ビンタ」って擬音っぽい印象あったけど、調べたら「鬢た」って頬らへんの位置を含んだ名詞だった。確かに、よく考えてみると、ビンタしたときに「ビンタっ!」という音はしない。よく考えなくても、そうか。

「ビンタ」の意味は、頬を平手で打つこと。強度については辞書に書かれていなかったけど、もとは軍隊用語で暴行・暴力の類いに分類される行為ってことだから、やはり「触る」とは一線を画す。「ビンタ」を動詞で言い換えると、はたく、叩く、ぶつ、ひっぱたくあたり。される側が、痛い!と感じてこそビンタだ。

ビンタというと、私はまず「バチーンという音を立てて、思い切りよく頬を平手打ちする」シーンを脳内再生してしまったが、ビンタの一般的なイメージがどれくらいの強度なのかは、よくわからない。どれくらい共通化されているのかも、よくわからない。人によっては、パチンかもしれない、ペチっとかパチっとか、バシっとかベシっとか、ペチーンとかパチーンとか、パンパンパパァンとか。実体験というより、読んでいたマンガとか見ていたドラマに影響するんだろうか。

いずれにせよ擬音じゃないから、わりといろんな強度を内包するのかもしれない。が、少なくとも「触る」と一線を画す「打つ」領域に突入してこそビンタなんだろう。

しかし、「触る」と「打つ」の間に明確な線は引かれていない。このての言葉の線引きは人が勝手にするもので、自然界に答えを求められない。触ると打つの間に実線は引かれていない。

そして、多少盛った表現をあえて選択する人たちもいる世の中である。受け取る側も、疑問を持たずに与えられた言葉から自分の脳内イメージをこれと固めてしまったりするし。「たしなめるようにして触れる」という、叩くとは違う触れ方があることを自分の中でイメージとして持っていなければ、触ると打つの両方を想定してかかることも難しい。

自分の言葉とイメージを、バランスよく豊かに育てていきたいなぁと思う。人から受け取った言葉そのまま、自分の限定的なイメージにつなげて、無意識のうちに事実を歪曲して捉えてしまう落とし穴にはまりたくないなぁと。

言葉はイメージを固定化する。枠組みを規定してくる。それに囚われない手腕も磨いていかないと、尊い言葉を悪役にしてしまう。言葉とイメージを豊かに持っていないと、人に優しくあろうとしても限界が出てくる。自分が発する言葉の一つひとつにも、人が発する言葉の一つひとつにも、慎重に、丁寧につきあいたい。それにはやっぱり気持ちだけでなく知性が必要なんだ。

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