手ぬぐい考
昨年に家族そろって渡英した学生時代の友人が、子どもたちを連れて一時帰国中。実家に帰ったり、再会を果たしたい友人もたくさんいるであろう過密スケジュールに、東京で私たちと会う時間を作ってくれたので、今日は会社を午前休して落ち合う。今回はみんな家族を連れて会う流れとなり、総勢12人が大集合する予定(私は単独参加だが…)。
数日前、子どもたちに何かあげられたらなぁと思い、おもちゃ、おかし、でも荷物になってもいけないしなぁと思案。さりげなく和のものを、なにか持ち帰ってもらえたらと思いついたのが、手ぬぐいだった。日本に住む他の友人たちとも久しぶりに会うので、彼女らの子どもたちにもと思って、神楽坂の「kukuli」というお店で7点の大人買い。
子どもたち、とくに男の子には、ちょっと退屈な贈り物かなと思ったけど、全部ちがう種類を用意して好きなものを選んでもらうことで軽いゲーム性を持ちこみ、どうにかならないかなと…。ピンクのコスモスとか、グリーンの梅とか、グレイの魚とか、ブルーのカモメとか、いろんな色の、いろんな絵柄。でも、どれもやさしい色で、あたたかい絵柄で、やわらかい生地(写真)。
風呂敷もそうだけど、手ぬぐいも「一つの主語で、豊かな述語をもつ」和のものって感じが好きだ。何に使うの?と問われれば、なんでもええがなという、意味のふくよかな感じ。ぬぐって良し、拭いて良し、つつんで良し、巻いて良し、かけて良し、敷いて良し、かぶって良し、畳んで良し。
そして、別に何かのために働かなくても良し。ただ、つるして愛でる、さわって味わうだけでも良し。「こう使うと役立つのだ」という有用性を箇条書きで挙げきった後に、まだ語りきれていない価値が残されている気がする。有用性の枠外にあって、それ自体に内在する価値を語りそこねている気がする。そうした存在意義を感じさせるゆとりが、心地いい。
私にとっては、水泳とも仕事とも近しい感じがする。毎朝の水泳も、12年勤める会社も、個人的には、これという目標をもっていない。泳ぎが上手くなりたい、早く泳げるようになりたい、ここでキャリアを積んでこういう人間になりたい、そうした目標を全然もっていない。
ただ、泳ぐことは、それ自体が私にとって意味があることで、だから続いている。仕事も、日々やっている一つひとつのことが、私にとって意味があることをやっている。意味があると思うことをやっていると、日が経っていて、結局やり続けている状態が続く。ただ、それだけだ。そこに私の意思がある感覚は乏しく、言わば自然現象のようなものに身を任せて泳ぎ、働いているだけだなと思う。それを私は、今のところ肯定して暮らしている。
こりゃまた、前後つながっているようで(もないか)、全然つながっていない話を書いたな…。この間、目標はないのか、持ったほうがいいのではないか?と問われて、なんとなく最近考えていたことだ。引き続き、答えをこれと定めず自由に変えていく。
とりあえず、手ぬぐいは良い。薄くて、軽くて、畳むとコンパクトで、乾くのが早くて、使いこむほど馴染んで、やわらかくなって。いいなぁと思いつつ、数時間後には一枚も持たない人間になるのだけど…。それもまた良し。
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