批判も法なら、共感も
「クリティカル・シンキング」とか「批判的思考」とかが大事と説かれて久しいけれど、それ一辺倒では、これまたバランスが悪いんだよな。今読んでいる「逝きし世の面影」(*1)の中の一節に目がとまって、そんなことを思った。
共感は批判におとらず理解の最良の方法である
ふむむーと味わった。なにか対象を批判的に捉えてみるって、確かに大事なアプローチなんだけど、それだけだと片手落ち感がある。
批判的に見たら、あとで反対側にまわって、それに気持ちを寄せて見直してみる。まず共感をもったら、あとで反対側にまわって、それと距離をとって批判的にも見直してみる。片方だけ思い切りやって理解した気になってしまうのは怖い。視野が狭まって大事なことを見落としたり誤解してしまっているのに、それに気づけなさそうで怖い。
道標はきっと、自分はそれを理解したいのだという認識。共感も批判もゴールではなくて、私はそれを手段にして、対象の理解に向かっているのだ。そこを見失わなければ、途中で迷っても戻ってこられそう。「批判も共感も、どちらも理解の方法」という一つの見方を、整理してもらった気がする。
そして今は世の中的に、批判より共感こそ意識的に持ち込まないと危うい感がある。
批判的思考というのは仕事場での馴染みもよく、発揮すれば「鋭い指摘だ」「かしこいね」と評価されやすい類いのスキルだ(発揮の仕方にもよるけれど)。評価されるものには、どんどん傾注していくのが人の常。
また情報過多の世の中では、自分は直接関わりをもたない”遠いもの”の情報の一面に触れる機会が多い。数が多く、一面的で、玉石混淆の情報に触れ続ければ、人は疑心暗鬼になっていく。そういう環境下にいると、情報に触れて最初に発動するのって、共感するより批判的に見るほうへと習慣づけられていくのが必然な気もする。
それに、とくに抽象的・概念的な話になると、自分と反りが合わないものの批判を表明するほうが容易く、目に見えない意味や価値を汲み取ったり、相手の背景や可能性に想像を巡らせて共感を表明するほうが難しかったりするかもなと。まぁこの辺は、気分で書いている…。
ともあれ、自分がそれを理解したくて踏み込んでいるなら、批判と同等かそれ以上の共感をもって、それを丁寧にみることを大事にしたいところ。批判と共感をして、発見できるのはきっと違う領域だ。
一方、そもそも理解したいという気がないものなら、下手にあれもこれも顔を突っ込んで批判だけ散らかしていくのは趣味じゃない。理解したいものに、ていねいに時間を使いたい。
これも先の本の中で引用されている、モース「日本人の住まい」の一節。
他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤(すす)のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学(エスノロジー)の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略(ポリシー)のうえからも、ずっと有利なのである。
色眼鏡は、まずバラ色でって、おもしろい。そこからさらに、あちらこちら目線を移して行き来して、真ん中に戻ってきて、それを理解しようという一番大事な気持ちからぶれずに、共感も批判もひっくるめて、それに向き合っていたいと思った。
*1: 渡辺 京二「逝きし世の面影」(平凡社)
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