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2017-08-30

枠組みを超えて、融かして

なんだか「ブログを書く」という行為が遠のいてしまっているなぁ。できるだけ頻繁に書きたいという欲求があるわけでもないのだけど、なんで書いたり書かなかったりの時期があるんだろうなぁというのは、不思議である。忙しいときには書かないとか、別段そういうことでもない気がして。

それで今日は、うたた寝から本気寝してしまって、はっと目覚めた深夜になんとなく書き出してみたのだけど、最近の仕事のほうは、というと今年度に入ってからはずっと案件が潤っている。

別に何かの戦略・戦術を打った結果というわけじゃないから、「今抱えている案件が終わったら、その後はわからん」というのらりくらり具合は相変わらず。でも、一つやって信頼してもらえて、同じ会社の別案件や、関連会社からの案件が立て続くというのは嬉しいことだ。

そんなこんなで今期は、4月の提案からにわかに仕込みが始まり、5、6月にひとやま研修提供のラッシュがあって、7月にちょっと一息。7月後半から8月は新たな仕込み時期で、9月は研修の提供が続く。来月は月・水曜がA社、火曜がB社、木・金曜がC社向けと研修本番で埋まっている1週間があり、今はその教材・テスト作りを数時間ごと頭かちゃかちゃ切り替えながらやっている。

こうしたオーダーメイド研修のほかにも、今年度はいろいろ変わり種の相談をいただいている。クライアント側が外部講師は自分とこで手配する感じで、私は講師手配を含まない研修設計担当として相談をもらえるケースがあったり、キャリア系では講演のほか、若い人のメンタリングやキャリアカウンセリングをお引き受けする(私的には)一風変わった受託案件も出てきて、なんか広がり感あるなぁと不思議にみている。

自分の中には特別、固定的な「自分の仕事」の枠組みって持たないでいるつもりだけど、外からはやっぱり、どういう職種の人なのか、どこを任せられる人なのかと枠組みをもって見られるものだと思うので、こうやってお客さんや友人・知人のほうから自分の既存の枠組みを融かすような機会をもらえるのは、すごくありがたい。

それに応えようとすることで具体的目標ができて、その達成に向かうことで自分が変化していくというサイクルは、自ら目標を立てる姿勢に欠ける私にとって、すごく自然でしっくりいく。人から見れば気に止まらないくらいささやかな変化だろうけど、身の丈的にはそれがちょうどいい。

と、まぁもう少しこういうメモを気軽に残していきたい気もするが、どうなることやら。

そうそう、私が引き受けたメンタリングは同業者としてではないけど、「メンタリングを社外の同業者に業務委託する」というのは有意義かもな、と思ったりした。Web業界とかだと個人や小さな組織でやっているところも多い。社内ではなかなか若手育成に時間が割けなかったり、社内では自分がトップなんだけど会社の枠を越えればまだまだで腹割って仕事の相談ができる先輩が欲しいみたいな場合に、メンタリングの外注っていうのはもっと身近な選択にあっていいのかもなと。飲み会や勉強会とかの交流と別に、1対1で、NDAも結んで、外部の○○さんに「メンタリング:月1回○時間○円」で3〜6ヶ月お願いしてみるとか。会社がお金を負担して、そういう仕組みを作るのもいいかもしれない。もうそこら中でやっているのかもしれないけど。

2017-08-19

批判も法なら、共感も

「クリティカル・シンキング」とか「批判的思考」とかが大事と説かれて久しいけれど、それ一辺倒では、これまたバランスが悪いんだよな。今読んでいる「逝きし世の面影」(*1)の中の一節に目がとまって、そんなことを思った。

共感は批判におとらず理解の最良の方法である

ふむむーと味わった。なにか対象を批判的に捉えてみるって、確かに大事なアプローチなんだけど、それだけだと片手落ち感がある。

批判的に見たら、あとで反対側にまわって、それに気持ちを寄せて見直してみる。まず共感をもったら、あとで反対側にまわって、それと距離をとって批判的にも見直してみる。片方だけ思い切りやって理解した気になってしまうのは怖い。視野が狭まって大事なことを見落としたり誤解してしまっているのに、それに気づけなさそうで怖い。

道標はきっと、自分はそれを理解したいのだという認識。共感も批判もゴールではなくて、私はそれを手段にして、対象の理解に向かっているのだ。そこを見失わなければ、途中で迷っても戻ってこられそう。「批判も共感も、どちらも理解の方法」という一つの見方を、整理してもらった気がする。

そして今は世の中的に、批判より共感こそ意識的に持ち込まないと危うい感がある。

批判的思考というのは仕事場での馴染みもよく、発揮すれば「鋭い指摘だ」「かしこいね」と評価されやすい類いのスキルだ(発揮の仕方にもよるけれど)。評価されるものには、どんどん傾注していくのが人の常。

また情報過多の世の中では、自分は直接関わりをもたない”遠いもの”の情報の一面に触れる機会が多い。数が多く、一面的で、玉石混淆の情報に触れ続ければ、人は疑心暗鬼になっていく。そういう環境下にいると、情報に触れて最初に発動するのって、共感するより批判的に見るほうへと習慣づけられていくのが必然な気もする。

それに、とくに抽象的・概念的な話になると、自分と反りが合わないものの批判を表明するほうが容易く、目に見えない意味や価値を汲み取ったり、相手の背景や可能性に想像を巡らせて共感を表明するほうが難しかったりするかもなと。まぁこの辺は、気分で書いている…。

ともあれ、自分がそれを理解したくて踏み込んでいるなら、批判と同等かそれ以上の共感をもって、それを丁寧にみることを大事にしたいところ。批判と共感をして、発見できるのはきっと違う領域だ。

一方、そもそも理解したいという気がないものなら、下手にあれもこれも顔を突っ込んで批判だけ散らかしていくのは趣味じゃない。理解したいものに、ていねいに時間を使いたい。

これも先の本の中で引用されている、モース「日本人の住まい」の一節。

他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして観察するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤(すす)のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学(エスノロジー)の研究者は、もし公正中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略(ポリシー)のうえからも、ずっと有利なのである。

色眼鏡は、まずバラ色でって、おもしろい。そこからさらに、あちらこちら目線を移して行き来して、真ん中に戻ってきて、それを理解しようという一番大事な気持ちからぶれずに、共感も批判もひっくるめて、それに向き合っていたいと思った。

*1: 渡辺 京二「逝きし世の面影」(平凡社)

2017-08-15

ラッシュの郷愁

帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を見るのが好きだ。「お盆をふるさとや行楽地で過ごし…」と始まると、なんだか気持ちを持っていかれて毎回、高速道路、新幹線ホーム、空港の映像を見入ってしまう。

私はラジオを聴くのが常で、映像でニュースを見るのはニュースサイトで気になったものをいくつかという日々なのだけど、お盆と年末年始は必ず帰省ラッシュ、Uターンラッシュのニュース映像を選んで流してしまう。

なかでも一番好きなのは、高速道路の映像だ。上から車の行列を固定カメラがとらえているだけで、子どもたちの笑顔も、孫に手をふるおじいちゃん、おばあちゃんの姿も映らない。最も淡々としている映像なのだけど、うちは子どもの頃から連休となると、たいてい母の運転で家族旅行に出かけていたので、あの地味な映像にこそ郷愁を覚える。

朝もやの帰省ラッシュ映像にも趣きがあるし、テールランプが光るUターンラッシュ映像も味わい深い。一つひとつの旅行を鮮明に覚えているわけじゃないけど、だからこそ何度も家族とともに行き来した高速道路になじみ深さを感じてしまうのかもしれない。静かな映像に相対するからこそ、自分の内側の動きを感じやすいのかもしれない。

今となっては、それをニュースで眺めて、昔はあの中によくいたよなぁと懐かしむほうが圧倒的に多いのだけど、まれに今でも妹の運転で、父と私と3人で旅する機会をもつと、積み重なった子どもの頃の思い出と入り混じって、なんとも味わい深い時間が流れる。

昨日も、妹の帰省にあわせて、銚子のほうまで父と一緒に日帰り旅行に出かけた(妹がいるとドライブ旅行に出かけられる…)。子どもの頃は、運転席に母、助手席に父、後ろに子ども3人が並んでいたのだけど、今は運転席に妹、助手席に私、後ろに父が座る。

音はラジオ。昔はラジオのほか、母の持ち込んだカセットテープやCDを流していることも多かったけど、音楽はさすがに揺さぶりが強すぎて、まだな、どうかな、と、今のところ持ち込まずじまいでいる。

銚子に着いて、海岸線をドライブして、久しぶりにだだっ広い太平洋を見渡して、素朴な千葉の波音に聴覚を飲み込まれて。展望台にのぼったり、お刺し身食べたり、眼前に海が広がる露天風呂につかったり。

日帰りだったので、のんびりとはいかなかったけど、狙いどおり銚子方面はさほど混雑なく、車通りも人通りも少ない(というか全然いない)通りを走り抜ける時間が長くあって、いい旅だった。お天気はくもり空だったけど、雨にもほぼ降られず済んだし。

地元に帰ってくると、晩は兄一家と落ち合って食事会。孫たちに中華料理の回るテーブルを体験させたいという父の指令を受けて、近場の銀座アスターを手配。予約の電話で「回るテーブルの席を…」とお願いしておいた。甥っ子が楽しげに回していて、ミッション完了。

ちょこちょこと兄一家との食事会は開いているけど、今回は帰省中の妹も参加できて良かった。お盆中だったから、母も参加していたかもしれない。とりあえずお墓参りで会えたので、今夏は家族みんなに会えた感がある。

みんな元気に集まれるのは、身にしみて嬉しい。みんな元気で健康だったら、もう十分だという気持ちで心満たされるようになって早幾年か。この間古い友人と会ったときにも、そんな話をして、歳かねぇと笑った。足るを知るというやつですかな。

2017-08-10

手ぬぐい考

昨年に家族そろって渡英した学生時代の友人が、子どもたちを連れて一時帰国中。実家に帰ったり、再会を果たしたい友人もたくさんいるであろう過密スケジュールに、東京で私たちと会う時間を作ってくれたので、今日は会社を午前休して落ち合う。今回はみんな家族を連れて会う流れとなり、総勢12人が大集合する予定(私は単独参加だが…)。

数日前、子どもたちに何かあげられたらなぁと思い、おもちゃ、おかし、でも荷物になってもいけないしなぁと思案。さりげなく和のものを、なにか持ち帰ってもらえたらと思いついたのが、手ぬぐいだった。日本に住む他の友人たちとも久しぶりに会うので、彼女らの子どもたちにもと思って、神楽坂の「kukuli」というお店で7点の大人買い。

子どもたち、とくに男の子には、ちょっと退屈な贈り物かなと思ったけど、全部ちがう種類を用意して好きなものを選んでもらうことで軽いゲーム性を持ちこみ、どうにかならないかなと…。ピンクのコスモスとか、グリーンの梅とか、グレイの魚とか、ブルーのカモメとか、いろんな色の、いろんな絵柄。でも、どれもやさしい色で、あたたかい絵柄で、やわらかい生地(写真)

風呂敷もそうだけど、手ぬぐいも「一つの主語で、豊かな述語をもつ」和のものって感じが好きだ。何に使うの?と問われれば、なんでもええがなという、意味のふくよかな感じ。ぬぐって良し、拭いて良し、つつんで良し、巻いて良し、かけて良し、敷いて良し、かぶって良し、畳んで良し。

そして、別に何かのために働かなくても良し。ただ、つるして愛でる、さわって味わうだけでも良し。「こう使うと役立つのだ」という有用性を箇条書きで挙げきった後に、まだ語りきれていない価値が残されている気がする。有用性の枠外にあって、それ自体に内在する価値を語りそこねている気がする。そうした存在意義を感じさせるゆとりが、心地いい。

私にとっては、水泳とも仕事とも近しい感じがする。毎朝の水泳も、12年勤める会社も、個人的には、これという目標をもっていない。泳ぎが上手くなりたい、早く泳げるようになりたい、ここでキャリアを積んでこういう人間になりたい、そうした目標を全然もっていない。

ただ、泳ぐことは、それ自体が私にとって意味があることで、だから続いている。仕事も、日々やっている一つひとつのことが、私にとって意味があることをやっている。意味があると思うことをやっていると、日が経っていて、結局やり続けている状態が続く。ただ、それだけだ。そこに私の意思がある感覚は乏しく、言わば自然現象のようなものに身を任せて泳ぎ、働いているだけだなと思う。それを私は、今のところ肯定して暮らしている。

こりゃまた、前後つながっているようで(もないか)、全然つながっていない話を書いたな…。この間、目標はないのか、持ったほうがいいのではないか?と問われて、なんとなく最近考えていたことだ。引き続き、答えをこれと定めず自由に変えていく。

とりあえず、手ぬぐいは良い。薄くて、軽くて、畳むとコンパクトで、乾くのが早くて、使いこむほど馴染んで、やわらかくなって。いいなぁと思いつつ、数時間後には一枚も持たない人間になるのだけど…。それもまた良し。

2017-08-08

GameBusiness.jpにイベント記事

先日登壇させていただいたDeNAさんのイベント(*1)について、GameBusiness.jpが記事にしてくださったので、記念にここにも残しておく。こういうときの写真は、いつも耳がひょっこり出ている…。

ゲームクリエイターのステップアップに必要なものとは? 教える側・切り開く側の視点で語られたキャリアセミナー | GameBusiness.jp

参加された方のアンケートの声も後日、主催者の方に見せてもらったのだけど、「とても満足」という声が多くて心底安堵。ジタバタの事前準備が実を結んだ…。

感想コメントで、身にしみた、腑に落ちた、反省したというふうに自分ごととして受け取ってもらえた声を聴けるのは、自分の伝えようとしたことを、きちんと手渡せたのかなと思えて嬉しかった。

5時間くらい聴きたかった、自分の会社にも来てほしいといった声をもらえたのも、めちゃんこ嬉しかった。

声が聞きとりやすい、話が理解しやすかった、好感がもてたといった声も、パフォーマーとしてはぺーぺーなので、ペーペー前提のご評価ながら嬉しかった。

また一方で、理論化してこの話ができる人がいるとはびっくりした、揚げ足のとりどころのない話だった、難しい話だったけど整理されていてわかりやすかったというあたりは、構成とか演出といった、言わば自分の本業ど真ん中のところなので励みにもなりました。本当にありがとうございました。

ってここにお礼書いても大方届かないんだけど、きちんと感謝して、次へ進もう。余韻にひたらず、ありがたいご褒美はここにしまって、また身ひとつで、次へ進むのが好きだ。

*1: DeNA主催「Game Developer's Meeting」シリーズ ゲームクリエイター向けキャリア勉強会Vol.2

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