余生ではなかった
ゴールデンウィーク後半は喫茶店をはしごしながら、カズオ・イシグロの「日の名残り」に読みふけっていて、ほとんど英国の執事と二人きりだった。スティーブンスが「〜ではありますまい」とか言いながら執事のなんたるかをひとり語りするのに、静かに耳を傾け(実際は読んでいたのだけど)、だいぶくったりと過ごしていた。
自分の社会的役割など「喫茶店の客」以外の何者でもないと余生感漂いまくっていたのだけど、あの日々も遠い昔となり、連休があけた初日からなかなか忙しい。
毎日3、4点作っては納品、作っては納品の日々(私が作るのはドキュメントだけど)。また、ここのところ数日にいっぺんのペースでお客さんが新たな相談をくださるので、それのヒアリングから提案作りの仕事も加わって、週ごとに案件が増え続けている。
週末は他のお客さんの調べ物をしたり提案書や教材を作ったりしていて、あっという間のような、いつもより長いような濃厚な一週間を過ごしている。一週間が7日あるって、すばらしい。
4月半ば頃からにわかに忙しくなって、以来社内にいるときはほとんど集中が途切れることがない。それはそれで、なかなか爽快である。もともと寡黙に働くタチなので、従来とあまり変化はないのだけど、それにしたって…という感じで、席に座っているときは、ほぼずっと自分の頭の中に居る感じだ。
一方で、席を立つと、フロア内を移動しているときなど、わりと空っぽである。お手洗いに向かっているときとか、お昼を買いにいくときとか。お手洗いで歯を磨いているときなど、本当に何も考えていない。
ただ、急いでいる。席に戻ったらあれをやらなきゃ、あれをやったら今度あれをやらなきゃ、という頭があるから、社内にいるときは基本的に余裕がない。複合機で印刷して戻ってくるときなど、ときどき小走りでさえある。
表に出たときも、道を歩いているときというのは、ものすごいすっからかんだ。だいたい何も考えていない。ほぼ何者でもなく「街を歩く人」でしかない。
ただ、電車に乗ると、考え出す。客先に向かうとき、その帰り道も、これから打ち合わせで話すことの要旨とか、打ち合わせを受けてこの先どういう段取りで進めようかとかを具体的に考えたり、メモをとったりしている。
日に何度かは、まるで「街を歩く人」になりに行くように表に出る。ノートをもって会社の近所に行き、その道中で「街を歩く人」をやる。それを挟んでから、近所であれこれノートに書きとめて、また、「街を歩く人」を挟んでから会社の席につくと、ことが一歩二歩とスムーズに進む。
これまで、近所でノートに向かうと、ことが一歩二歩進むと思っていたのだけど、近所に向かう途中で「ただの人」をやるから、ことが一歩二歩進むのかもしれないな、とも思う。プールで泳いでいるとき、お風呂に入っているとき、会社から家に帰る途中も、たいてい何も考えていない。「ただの人」だ。
だけど、空気にふれて歩いている。水にふれて泳いでいる。体は体で、なにかを外から受け取ってバランスよく生きているようだ。私にはよくわからないけど。
ともかく、まだ余生ではなかった。やることがあって、ありがたい。一つひとつ丁寧にやって、一つひとつ、やれるかぎりのことをやったなと振り返れるようにしたい。
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