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2017-03-08

教養に向かう興味の源泉

子どもの頃から、理科や社会は苦手科目だった。たぶん最初の出会い方を失敗したのだ。物心ついたときには、すでに理科や社会が「覚えなきゃいけないこと」の集合体に見えていた。中学、高校と進むごとに苦手意識は高まって、受験はいつも国語と英語で切り抜けてきた(数学は論外…)。

大人になってから、おしゃべりの中で「え、それって小学生のときに習わなかったっけ?」という返しをもらって、「え、小学生のときに習った理科のこと覚えてるの!?」と真剣に驚いた。

そうした非凡な人たち(私からみると)との出会いに恵まれたことが、私の幸運だった。彼・彼女らが子どもの頃から純粋に興味をもって「へぇ、そうなんだ」とインプットしてきたことを喜々として語る様子に触発され、私は大人になってから理科とか社会で取り上げられる類いのことに(わりと)純粋な関心を向けるようになった。

ただ一方で、私の中に芽生えた興味は、非凡な友人らのそれとは異質なものに感じられるのも事実。生物でも化学でも歴史でもいいけれど、友人らが興味対象に向ける純粋な知的好奇心は、それ自体にまっすぐ伸びて、それに直接接続する強さが感じられる。一方の私には、それを「とことん知り尽くしたい」とか「とことん考え抜きたい」とか「とことん調べ尽くしたい」といった気概がない。

興味を覚えるようになったとはいっても、一般向けの入門書を読んだら、もうお腹いっぱい。しかも読書中から数行・数ページ読んでは、その少量を携えて自分の内側に向かっていってしまうことしばしばで、読書は遅々として進まない。

思索と言えば格好もつくが、別段どこに到達するわけでもない。読み終えれば詳細はほとんど忘れてしまうから、人に教えられるような知識も残らない。なんの分野にも一向に精通しない。

ただ自分の、世界や自分ごとをとらえる物差しが増えたり伸びたりして、自分自身が楽になっているだけだ。

昔から、この時代・この地域・今の自分周辺の価値観に限定した当たり前や常識にとらわれたモノの見方にはまりたくないという性向はあった。けど、若いときのそれはせいぜい100年200年前との比較を想定したものだった。高校生くらいのときは、江戸時代にもその考えって通用するだろうか?と、よく自問していたものだ。

その尺が、大人になってぐわっと伸びた。「ソフィーの世界」(*1)を読めば紀元前600年から、「サピエント全史」(*2)を読めば45億年前の地球誕生どころか、135億年前の物質とエネルギーの誕生とか、原子と分子の誕生から今までと、世界をとらえる物差しが一気に伸びるのだ。

持ち替えられる物差しが手もとに増えれば、そのぶん自分のモノの見方も自在になる。長いの短いの、都合にあわせて持ち替えられると、いろいろな場面で楽である。少し経つと「あれ、何億年前だっけ?」「あれ、何の始まりだっけ?」と忘れちゃうのだけど…、私は自分の物差しが増えたり伸びたりしただけで、わりと満足してしまうのだった。ここに、友人らの非凡さと、私の凡庸さがはっきりくっきり出る。

それでも、ないわけじゃない私の極めてはかない興味の芽生え。この源泉はいったい何なんだろうかと考えていて思い浮かんだのが、以前読んだ本の一節だ。

ヘーゲル的な「教養」には、自分にとっての「よい」が普遍的に「よい」ものかどうかを判断するための能力という意味がある。教養は、共同体における「よさ」が多様なものであることを教える。(*3)

こういうことかと合点がいった。私はヘーゲルが言うところの教養を欲しているのではないかと。物質とエネルギーとか、原子と分子そのものにはさしたる興味をもてないのだけど、自分のモノの見方をちょいとでも普遍的で多様なほうへもっていくことには興味がある。

普遍的なモノの見方、多様なモノの見方を完全に手中におさめるなんて、人間には到底無理な話だ。それは、あきらめている。それは前提として、昨日より今日、今日より明日の自分が、少しでもそっちのほうに近づいていけたらいいなぁという、だいぶ控えめで平凡な願いをもっている。今もっている自分の前提を崩し続けて、一段ずつでも普遍的な見方に近づいていくために教養を欲しているのだと考えれば、なるほどと思う。

この世界はどっちつかずな物事にあふれていて、狭い了見で極論を一択すれば、いろんなところに無理が出てきてしまう。そうではなくて、あれとこれの真ん中に立って、その不安定さを許容して、うまくバランスさせようとするところに、人間ならではの聡明さがあるんじゃないか。そうせんと動機づけ、その過程を下支えしてくれるのが教養だ。それを欲していると考えれば、なるほどと思う。

純粋な知的好奇心に比べれば、きわめて微弱ではあるけれども、自分なりにこの「教養に向かう興味」を大事にしていけたらと思う。

多様なモノの見方を受けとめた上で一つの着地点を見出そうとする過程で、人は優しくなれたり、強くなれたり、創造的になれたりする。ときに難しくて、もろくなったり、コントロールがきかなかったりもするけれども、教養はそこでも助け舟を出してくれる。別のやり方、別の見方、別の気の持ちようを与えてくれる。大人になって教養科目に惹かれていったのは、そうした背景があるのかもと思った。

ともあれ長きに渡って魅力的な人たちと出会い、つきあってこられてこその変化。本当にありがたい。そんなことを思いつつ書き連ねつつ、まもなく四十を終える。

*1: ヨースタイン ゴルデル「ソフィーの世界」(NHK出版)
*2: ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエント全史」(河出書房新社)
*3: 平原卓「読まずに死ねない哲学名著50冊」(フォレスト出版)

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コメント

年を取れば取るほど、教養を含め、教育に関する話題や分野への興味が強くなりますね~

なんでしょう、この自然と引き込まれる感。頭が良くなりたいとは別のところに要因がありそうな気もしていて。

林さんがおっしゃっている人との出会いっていうのが1つのカギなのかもとも。またぜひいろいろお話しましょう。


そして、ハッピーバースデイ!

そうなんですよねぇ、歳を重ねるにつれ、自然と引き込まれる感じ。頭が良くなりたいんだったら、もう少し記憶に残そうと頑張ると思うんですが、そこがいまいち…。笑
しばらくゆっくり話しこんでいないので、また近々おしゃべりしましょう。
お祝いメッセージも、ありがとうございます!

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