しょんぼりズム
誕生月というのは放っておいても、星の巡りかなにかで勝手に快い風が頬をなでていくものかと期待していたけれど、今年はどうも閉塞感が漂う、ここ数週間。
普段からだいぶ地味な暮らしぶりなので、人様からみて分かりやすく何がどうという変化はない。特別誰かに指摘されることもなく、いつも通りといえばその通り。ただ自分の中でひっそり静かに、このしょんぼりズムを様子見していた。
「理由を挙げよ」と言われれば、身近なものから社会情勢まで5つ6つ具体的な事象は思い浮かぶのだけど、「それが理由なのか、どれが一番の決定打?」と問いただしても、どうかなぁとぼんやりした答えになる。そういう因果律にのせる話じゃなくて、なんとなくそういう時期ってことなのではと思ったほうが自然な受け止め方なのかもって気もする。
それでまぁ、どれかに要因を定めて応急処置を試みることもなく、しばらく無理に元気ぶらずに(ってもともとがあれなのであれだけども)、本を読んだりラジオを聴いたりして(ってこれもいつもと変わらなすぎるけど)、淡々と経過観察して過ごすようにしていた。キャリアカウンセラーとして、極力こういうときには自分の心の動きを丹念に観察するようにしているというのもある。
それで気づいたのは、こういう気持ちのしぼんだときに、「サピエンス全史」みたいな壮大な世界の話だけ読んでいると、私はダメなんだなってことだ。
地球の始まりや人類の始まりから今をながめる世界の捉え方に触れていると、対する自分のちっぽけさを感じざるをえない。自分の気持ちの塞いでいるのなんて、それこそちっぽけなことに思われるので、最初は大いに健全な過ごし方だと思って読んでいた。今こそ、こういう壮大な話を読むべきなのだ、と。
はじめは本当にそうだったのだけど、なにぶん読むのが遅いので、何日もかけて読み続けていると、頭の中が自分がちっぽけであるということだけに埋め尽くされてしまって、これはこれでバランスが悪いのではないかと気がついた。
外界は壮大であり、自分はあまりにちっぽけである。というのは、あまりに当たり前のことである。と同時に、とはいえこのちっぽけな自分の人生を、壮大なものとして生きているちっぽけな自分もいるのである。
一人の人間として生きていく以上、このちっぽけさからは逃れられないから、私の外側に広がる世界の壮大さと同等の壮大さをもって、私の内側にも小宇宙のようなものが広がっている、そう捉えないと健全なバランスを欠いてしまう。
外側ばかりに目を向けて、自分はなんてちっぽけなのだ…というだけで何日も何週間もやっていると、ちっぽけな自分が、自分にとっちゃそれでもすさまじい人生を生きていくということを、どう価値づけていいのかわからなくなってしまう。この浮遊感は、ちょっと健全じゃないなって思った。
なので、一旦「サピエンス全史」を手放して、一人の人間の物語を読んだり、ユングや河合隼雄さんの心理学の本を読み直すことにした。この処方箋はあっていたようだ。
あと、稀有な友人たちとのおしゃべり時間をもって、はぁ、やっぱり人は人と触れ合って生きていくのだよなぁと実感したり。ちょっとした仕事の声かけがあって、はぁ、やっぱり私は人に仕事をもらって、それでかろうじて生きているのだなぁと再認識させられたり。なんかぎりぎり乗り切った感があるけれども、そろそろ誕生月も終わるし(関係ない)、4月は久々に新しい気持ちで迎えてみようと思う。
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