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2017-03-24

しょんぼりズム

誕生月というのは放っておいても、星の巡りかなにかで勝手に快い風が頬をなでていくものかと期待していたけれど、今年はどうも閉塞感が漂う、ここ数週間。

普段からだいぶ地味な暮らしぶりなので、人様からみて分かりやすく何がどうという変化はない。特別誰かに指摘されることもなく、いつも通りといえばその通り。ただ自分の中でひっそり静かに、このしょんぼりズムを様子見していた。

「理由を挙げよ」と言われれば、身近なものから社会情勢まで5つ6つ具体的な事象は思い浮かぶのだけど、「それが理由なのか、どれが一番の決定打?」と問いただしても、どうかなぁとぼんやりした答えになる。そういう因果律にのせる話じゃなくて、なんとなくそういう時期ってことなのではと思ったほうが自然な受け止め方なのかもって気もする。

それでまぁ、どれかに要因を定めて応急処置を試みることもなく、しばらく無理に元気ぶらずに(ってもともとがあれなのであれだけども)、本を読んだりラジオを聴いたりして(ってこれもいつもと変わらなすぎるけど)、淡々と経過観察して過ごすようにしていた。キャリアカウンセラーとして、極力こういうときには自分の心の動きを丹念に観察するようにしているというのもある。

それで気づいたのは、こういう気持ちのしぼんだときに、「サピエンス全史」みたいな壮大な世界の話だけ読んでいると、私はダメなんだなってことだ。

地球の始まりや人類の始まりから今をながめる世界の捉え方に触れていると、対する自分のちっぽけさを感じざるをえない。自分の気持ちの塞いでいるのなんて、それこそちっぽけなことに思われるので、最初は大いに健全な過ごし方だと思って読んでいた。今こそ、こういう壮大な話を読むべきなのだ、と。

はじめは本当にそうだったのだけど、なにぶん読むのが遅いので、何日もかけて読み続けていると、頭の中が自分がちっぽけであるということだけに埋め尽くされてしまって、これはこれでバランスが悪いのではないかと気がついた。

外界は壮大であり、自分はあまりにちっぽけである。というのは、あまりに当たり前のことである。と同時に、とはいえこのちっぽけな自分の人生を、壮大なものとして生きているちっぽけな自分もいるのである。

一人の人間として生きていく以上、このちっぽけさからは逃れられないから、私の外側に広がる世界の壮大さと同等の壮大さをもって、私の内側にも小宇宙のようなものが広がっている、そう捉えないと健全なバランスを欠いてしまう。

外側ばかりに目を向けて、自分はなんてちっぽけなのだ…というだけで何日も何週間もやっていると、ちっぽけな自分が、自分にとっちゃそれでもすさまじい人生を生きていくということを、どう価値づけていいのかわからなくなってしまう。この浮遊感は、ちょっと健全じゃないなって思った。

なので、一旦「サピエンス全史」を手放して、一人の人間の物語を読んだり、ユングや河合隼雄さんの心理学の本を読み直すことにした。この処方箋はあっていたようだ。

あと、稀有な友人たちとのおしゃべり時間をもって、はぁ、やっぱり人は人と触れ合って生きていくのだよなぁと実感したり。ちょっとした仕事の声かけがあって、はぁ、やっぱり私は人に仕事をもらって、それでかろうじて生きているのだなぁと再認識させられたり。なんかぎりぎり乗り切った感があるけれども、そろそろ誕生月も終わるし(関係ない)、4月は久々に新しい気持ちで迎えてみようと思う。

2017-03-08

教養に向かう興味の源泉

子どもの頃から、理科や社会は苦手科目だった。たぶん最初の出会い方を失敗したのだ。物心ついたときには、すでに理科や社会が「覚えなきゃいけないこと」の集合体に見えていた。中学、高校と進むごとに苦手意識は高まって、受験はいつも国語と英語で切り抜けてきた(数学は論外…)。

大人になってから、おしゃべりの中で「え、それって小学生のときに習わなかったっけ?」という返しをもらって、「え、小学生のときに習った理科のこと覚えてるの!?」と真剣に驚いた。

そうした非凡な人たち(私からみると)との出会いに恵まれたことが、私の幸運だった。彼・彼女らが子どもの頃から純粋に興味をもって「へぇ、そうなんだ」とインプットしてきたことを喜々として語る様子に触発され、私は大人になってから理科とか社会で取り上げられる類いのことに(わりと)純粋な関心を向けるようになった。

ただ一方で、私の中に芽生えた興味は、非凡な友人らのそれとは異質なものに感じられるのも事実。生物でも化学でも歴史でもいいけれど、友人らが興味対象に向ける純粋な知的好奇心は、それ自体にまっすぐ伸びて、それに直接接続する強さが感じられる。一方の私には、それを「とことん知り尽くしたい」とか「とことん考え抜きたい」とか「とことん調べ尽くしたい」といった気概がない。

興味を覚えるようになったとはいっても、一般向けの入門書を読んだら、もうお腹いっぱい。しかも読書中から数行・数ページ読んでは、その少量を携えて自分の内側に向かっていってしまうことしばしばで、読書は遅々として進まない。

思索と言えば格好もつくが、別段どこに到達するわけでもない。読み終えれば詳細はほとんど忘れてしまうから、人に教えられるような知識も残らない。なんの分野にも一向に精通しない。

ただ自分の、世界や自分ごとをとらえる物差しが増えたり伸びたりして、自分自身が楽になっているだけだ。

昔から、この時代・この地域・今の自分周辺の価値観に限定した当たり前や常識にとらわれたモノの見方にはまりたくないという性向はあった。けど、若いときのそれはせいぜい100年200年前との比較を想定したものだった。高校生くらいのときは、江戸時代にもその考えって通用するだろうか?と、よく自問していたものだ。

その尺が、大人になってぐわっと伸びた。「ソフィーの世界」(*1)を読めば紀元前600年から、「サピエント全史」(*2)を読めば45億年前の地球誕生どころか、135億年前の物質とエネルギーの誕生とか、原子と分子の誕生から今までと、世界をとらえる物差しが一気に伸びるのだ。

持ち替えられる物差しが手もとに増えれば、そのぶん自分のモノの見方も自在になる。長いの短いの、都合にあわせて持ち替えられると、いろいろな場面で楽である。少し経つと「あれ、何億年前だっけ?」「あれ、何の始まりだっけ?」と忘れちゃうのだけど…、私は自分の物差しが増えたり伸びたりしただけで、わりと満足してしまうのだった。ここに、友人らの非凡さと、私の凡庸さがはっきりくっきり出る。

それでも、ないわけじゃない私の極めてはかない興味の芽生え。この源泉はいったい何なんだろうかと考えていて思い浮かんだのが、以前読んだ本の一節だ。

ヘーゲル的な「教養」には、自分にとっての「よい」が普遍的に「よい」ものかどうかを判断するための能力という意味がある。教養は、共同体における「よさ」が多様なものであることを教える。(*3)

こういうことかと合点がいった。私はヘーゲルが言うところの教養を欲しているのではないかと。物質とエネルギーとか、原子と分子そのものにはさしたる興味をもてないのだけど、自分のモノの見方をちょいとでも普遍的で多様なほうへもっていくことには興味がある。

普遍的なモノの見方、多様なモノの見方を完全に手中におさめるなんて、人間には到底無理な話だ。それは、あきらめている。それは前提として、昨日より今日、今日より明日の自分が、少しでもそっちのほうに近づいていけたらいいなぁという、だいぶ控えめで平凡な願いをもっている。今もっている自分の前提を崩し続けて、一段ずつでも普遍的な見方に近づいていくために教養を欲しているのだと考えれば、なるほどと思う。

この世界はどっちつかずな物事にあふれていて、狭い了見で極論を一択すれば、いろんなところに無理が出てきてしまう。そうではなくて、あれとこれの真ん中に立って、その不安定さを許容して、うまくバランスさせようとするところに、人間ならではの聡明さがあるんじゃないか。そうせんと動機づけ、その過程を下支えしてくれるのが教養だ。それを欲していると考えれば、なるほどと思う。

純粋な知的好奇心に比べれば、きわめて微弱ではあるけれども、自分なりにこの「教養に向かう興味」を大事にしていけたらと思う。

多様なモノの見方を受けとめた上で一つの着地点を見出そうとする過程で、人は優しくなれたり、強くなれたり、創造的になれたりする。ときに難しくて、もろくなったり、コントロールがきかなかったりもするけれども、教養はそこでも助け舟を出してくれる。別のやり方、別の見方、別の気の持ちようを与えてくれる。大人になって教養科目に惹かれていったのは、そうした背景があるのかもと思った。

ともあれ長きに渡って魅力的な人たちと出会い、つきあってこられてこその変化。本当にありがたい。そんなことを思いつつ書き連ねつつ、まもなく四十を終える。

*1: ヨースタイン ゴルデル「ソフィーの世界」(NHK出版)
*2: ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエント全史」(河出書房新社)
*3: 平原卓「読まずに死ねない哲学名著50冊」(フォレスト出版)

2017-03-07

内示を受けているときの頭の中

組織改編の時期、私も2月末に上司に呼ばれて内示を受けた。ここ数年、会社的にはいろいろありつつも、私自身はもう何年も同じ部署・同じ肩書きでやってきたのだけど、今回は久しぶりに異動となった。

といっても、所属している「キャリアデザイン部」ごと、事業部門から管理本部に移るというので、それについていく恰好。個人の配置転換というより、組織改編に伴う人事異動という感が強い。

名刺も「○○事業部」とか「管理本部」とか入っていないので、4月以降も「キャリアデザイン部トレーニンググループ」という、これまでと同じものを使うことになるだろう。

とはいえ大枠の所属部門が変わるということは、期待される役割も少なからず変わるということ。とりわけ私のように(何かの専門分野を内にもつコンテンツホルダーでなく)何らかのシチュエーションを外から与えられてそれを編集するような役回りの人間は、「どこに所属して誰に向かって仕事するか」の変更に影響を受けること大とも想像する。

今後は、一般クライアント案件より内部向けの比重が大きくなり、もっと長期的なスパンで組織内の人材開発を担っていくことになるのかしら。まだ、直近で何に注力したいか、先々どう展開させたいかという組織的意向を詳細には確認していないし、どこまで詰めているかもわからない。

「中の仕事」より「外の仕事」のほうが性に合うと思っているところがあって、今は、内側の仕事にどう向き合えるか、不安もないわけじゃない。どれくらい独立的に仕事ができるか、どれくらい決済能力と権限ある人を巻き込めるか、どれくらい案件一つひとつを通じて自分が成長実感をもてるか、やれることを増やせるか。

いろいろ気がかりだけど、いい歳だし、そこも含めて力の鍛えどころということなのかもしれない。基本的な指針が折り合うかぎり頑張りたい…。あと久々の席替えが待っているのも気がかり。今くらい奥まったところの静かな席に移れることを日々願っている。

このところはクライアント案件も立て込んでいるわけじゃなかったし、私自身も「研修サービスという枠組みを取っ払って、組織的なパフォーマンス改善にどう貢献するか」って、もう一つ広い枠組み(あるいは、もう一歩踏み込んだソリューション)にフレームをさしかえたいかも…と思っていたところなので、ちょうどいいタイミングなのかもしれない。

やり方と環境次第では、外のクライアント仕事より新しい領域にチャレンジさせてもらいやすいかとは思うし、内情も深掘りして把握しやすい。そこで「組織のパフォーマンス改善」と「個人のキャリア開発」をうまく掛け合わせて成果を出せるようになれば、まずは社内への貢献、その経験をもって外のお客さんの役に立てる領域も広げていけるかもしれない(今でもご相談ウェルカムですが!)。

Web分野にとどまらず、自社グループが手がけるゲームや映像編集系の業界知識もたくわえて、自社→グループ各社→一般クライアントへと、クリエイティブ業界を中心に人材開発とかパフォーマンス改善に貢献していける戦力を磨いていけたら、それは私個人にとっても会社にとっても、きっと良い道筋だ。

私はわりと、機会に乗じて身の振り方を考える受け身(だけど前向き)キャリアデザイン戦法なので…、この機会をうまく活かして専門性を高めていけるといいかなぁなどと思いつつ、内示を聞いた。

会議室で内示を受けている最中というのは、だいたいこういう組み替え作業を頭の中でごちゃごちゃやりながら上司の話を聴いている気がする。自分が今関心を高めている領域と、今ふってきている環境変化と、どう組み合わせたら組織的にも個人的にも建設的な枠組みに収まるかしらとか。その枠組みの中で、直近一年くらいをどんなステップとして意味づけると有意義かしらとか。

ちょうど「パフォーマンス・コンサルティングII」(*1)も読み終えて、自分がこれまでやってきたことの延長線上に「今後掘り下げたいこと」が具体的にイメージできてきた頃合い。あとは実践の場をもっと増やして、調査・分析の経験を積む段階かなぁと思っていた矢先でもある。

「時間がない」「スキル不足」「人手不足」あたりを問題点に据えたところで立ち往生している組織があるとすれば、そこにどう介入して、組織的な問題構造を調査・分析していけるか。ここら辺を形にして、きちんと役立てるようになれたらいいなと思う。

並行して、これまでどおり「実務スペシャリストが講義して教える」だけでは成しえない効果的な学習の構造設計も増強していきたい。実務スペシャリスト(講師役)の良いサポーターとなって、クライアントの実務に直結させた演習作りとか、効果測定・検証、継続施策への展開、実践スキルとして定着する職場環境づくりなど、専門性を磨いて手がけていけたらなと思う。

あとは、研修以外のアプローチも含めて、分析後の対策を具体的に提案できるようになるためには、人事系のいろんな専門家とのネットワークづくりが必要になるだろうとも思う。これが、わりと苦手領域で難儀だけど…。

従業員のパフォーマンスが発揮されない要因が、「個人のスキル不足」1点に限定されることは稀だ。要因が一つでないなら、ソリューションだって単一ではないわけで、そこにきちんと関わって専門的に調査・分析、企画・提案、設計・開発、実行・評価していける力を磨いていくには、自分のやり方にも見直しが必要ってことだ。できるところから、にょろにょろ変えていこう。

*1: デイナ・ゲイン・ロビンソン、ジェームス・C・ロビンソン著「パフォーマンス・コンサルティングII~人事・人材開発担当の実践テキスト~」(株式会社ヒューマンバリュー)

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