入れ替わる手段と目的
先日スマートニュースさんを訪問したときに、「みちくさ」(*1)という冊子をいただいた。2015年10月発行、非売品らしい。同社の皆さんが執筆陣で、01号では特集する「アラン・チューリング」の道しるべとして、独立研究者の森田真生さんを迎えている。
表紙をめくると、スマートニュース代表取締役会長、鈴木健さんの「みちくさ」から文章が始まる。ここに、ごくりっとさせられる一節があった。
人生に目的があるならば、手段もあるはずである。普通の人はそう考える。だが、手段と目的が倒錯し混線するのも、また人間の生命たる所以である。
今の世の中、どちらかと言えば「それは手段と目的を取り違えてるよ!」と指摘したり、指摘されたりがポピュラーだ。ときに、誰からみても、どんな状況にあっても、手段と目的は入れ替わることがないと、普遍的な原理原則でもあるかのように”間違い”を指摘する声も聞かないではない。
確かに、ある組織、あるプロジェクトといった共通目的のもとに事をなす文脈においては、そういうことは言える。逆に言えば、そういう前提がないと複数の人が集まって事をなすときに皆が納得する結論の導きようがなく、チームワークが働かなくなってしまう。
ただ、そういう特定文脈を取っぱらって、ひとりの人間のもとに戻して考えてみたらどうかというと、わりと手段と目的って倒錯し混線しているものかもなって、ごくりっとした後、脱力した。
学校に行くのが目的、その手段として今この道を歩いている。会社に行くのが目的、その手段として今この電車に乗っている。知識を習得するのが目的、その手段として今この本を読んでいる。仕事で成果を上げるのが目的、その手段として今このスキルアップに励んでいる。相手との合意を取りつけるのが目的、そのために今この人と議論している。
特定文脈にのせて見れば、そりゃそうなのだけど、ひとりの人間の人生からみると、途中の道草や、電車に揺られている時間に意味を見出していたり、何かを知ること自体、何かができるようになること自体、何かを作り出すこと自体、人と議論したり話し合うこと自体を、成果がどうあれ楽しんでいることもあると思う。振り返ってみれば。
高い名声と報酬を得るために始めたことが、いつしか、それ自体を面白がる自分を作りだし、もっと突き詰めたくなって高い専門技能や矜持を育むことだってある。一方で、ただ面白いと思ってやり続けてきたこと、作りこんできたものが、匠の技として高い名声や報酬につながることもある。
手段と目的は、ある枠組みを取っぱらえば、ひとりの人間の中で、わりと倒錯し混線するものなんじゃないか。特定文脈という枠組みを無視して、誰にでも、どんな状況にも通用する固定的な「手段と目的の分別」があると信じ、それを誰かれ構わず、所構わず人に強いて、自分と合致しない人を馬鹿にするような態度は、それこそ偏狭で滑稽な感じがしてくるのだった。
振り返れば、人生の美しい瞬間は、学校にまっすぐ行くつもりが蝶と花に心を奪われた、あの道草にあったと懐古する人は多い。道草は余計なものではなく、人生そのものであったと気づくのは、常に後からと決まっている。
ここだけ取り出して引くと、ちょっとキザかもしれないけど、「手段と目的が倒錯し、混線する」具合を、自分にしても、人のそれにしても、丁寧にみてとる気持ちは大事にしたい。
先日、友人らが話しているPodcastを聴いていたら、年配者が若い人に仕事を教えようとするも、どうもうまくいかないっていう話が出てきたんだけど、これはいろんな業界にある気がしている。そこで私たちが(年配者側として)できることは、ひとつに「それの面白さを魅せること」なんだろうなって思う。
やって魅せる、やらせて魅せる、語って魅せる、いろいろあるけれど、そのいろいろをそばでやり続けている先輩が身近にいる環境で育まれるものって、きっと大きいだろうと思う。それが一番実現しやすいのは、毎日通う職場だ。
憶測で世代論めいたことを言うのは健全ではないけれど、試しに言っちゃうと、今の若い世代というのは、自分たち世代と比べて、より効率化が目的化されたガチガチの世の中を生きてきた感がある。効率的なことが良いこと、これよりあっちのほうが効率的だから正しいというのを、幼少期からいろいろと耳目に触れる時代に生きてきたのではないか。
そういう世の中で育ってきて社会に出た今、まず触れたらいいのは、ずっと手段と言われてきたものを目的とみたり、ずっと目的と言われてきたものを手段とみたり、自分の中の倒錯やら混線した状態にはまることなのかもなぁとか、ぼんやり思う。
もちろん、そんな行ったり来たりを、私なんかよりずっと前から存分に楽しんできた若い人もごまんといると思う。でも、もしそうでない若者がいるなら、先輩は、こうやってやると効率的だよって指導ばかりではなくて、こうやったりするのが自分は面白いんだとか、こういうところに自分はこだわりたいんだってことを魅せていくのが大事なんじゃないかなぁと思う。
私の周囲には、作るのが楽しい、インターネットは素晴らしい、人と議論するのが大好きだという同世代や先輩がたくさんいる。こういうものが若い世代にシェアできたら、それが一番じゃないかなぁと。少なくとも若いときに私を育んだ最たるは、そういう先輩や職場環境だった。まぁ、だから別に世代論じゃないか。世代を超えて共有価値をあることって、そういうことかなぁと思う。
なんだか、どこに向かって何を書いているのかわからなくなってしまった道草語り…。
*1: スマートニュース「みちくさ」
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