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2016-11-06

荒井由実と松任谷由実

我が家には相変わらずテレビがなく、私はすっかりラジオ党だ。もう20年近くになろうか。しかも、ここ数年はAMラジオを好んで聴くようになった。朝はNHKラジオ、夜はTBSラジオ(「TBSラジオクラウド」で主に昼の番組を)が習慣化している。先日のプロ野球日本シリーズなんて連日にわたって手に汗握る試合展開だったので、“ながら聴き”を止めて真剣に聴き入ってしまい、さながら昭和時代の小三男子のようであった。

聴けば聴くほど、ラジオは自分の性に合うなぁとの思いが深まっていく。そんな折、なじみの「NHKマイあさラジオ」を聴いていると、「著者に聞きたい本のツボ」というコーナーで、ラジオの本が紹介されていた。文藝春秋をやめて2003年にフリーランスライターになった柳澤健さんが著した「1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代」(*1)。柳澤さんがどんな紹介をしていたかは忘れてしまったのだけど、これは読まねばと興味を覚え、早速買ってみた。

私は世代がずれていて『パックインミュージック』という番組を知らなかったのだけど、1970年代、一部の若者たちに熱狂的に支持されたTBSの深夜ラジオ番組。ニッポン放送でいったら『オールナイトニッポン』、文化放送でいったら「セイ!ヤング」に近いっぽい。そのパーソナリティを務めたのがTBSアナウンサーの林美雄さん。久米宏さんと同期。まだ無名だったユーミンやタモリも、この番組を足がかりに有名になったと言われる。林さんは「70年代のサブカルチャーを80年代にメインにした放送人」とも評される。

本の内容はラジオの話に留まらない。読み進めると、1970年の時代もようが、まるで映画化されて脳内に上映されているかのような感覚を覚える。当時の社会背景、映画・音楽・演劇といった文化のありよう、鬱屈したエネルギーを抱えこんだ若者たちの様子、アナウンサー林美雄という人物のもつ多面性が、いきいきと描かれている。自分はマニアではない、素晴らしい人たちの間をとりもつ媒介者である、といった林さんご自身の役割定義に共鳴しながら読んだ。

ユーミンの変容ぶりを、1970年代当時から、私が知るようになる1980年代へと、ひと連なりにして見られたのも興味深かった。

松任谷由実と荒井由実を、別と分けて語る人は少なくない。より正確にいうと、アルバム2枚目までと、3枚目以降ということになるのかもしれない。村上春樹も、初期の作品を愛する友人が、彼の作品は変わってしまったと残念がるのを聞くことがある。

私はポンコツなので、そのあたりの作品性の機微に疎い。どちらかといえば、そうした違いを切実に感じて、一方を愛し、一方を拒絶せざるをえない人たちの心もようのほうに興味を覚える。そこにはどんな繊細さがひそんでいるのだろう、両者を分かつ言葉を欲しくなる。聴き手は荒井由実の歌を聴き、自身の心に何を見出したのか。アルバム3枚目以降に、損なわれたものとは何だったのか。投影先の作品より、投影元の聴き手の心のほうへ視線が向き、それをこそ知りたくなる。この本は、そこに迫る本でもあった。

一方で、ユーミン側の視点が言葉に起こされているのにも惹かれた。ユーミンのデビューアルバム『ひこうき雲』に収録された曲は、すべて彼女が16歳までに書いたものだという。セカンドアルバム『MISSLIM』の収録曲の多くもまた、10代に書いたもの。2枚のアルバムを作り終えて、曲のストックは尽きた。

松任谷由実は1990年1月号の「月刊カドカワ」で、こんなふうに語っている。

「やさしさに包まれたなら」(注・『MISSLIM』収録)という曲は、自分でいうのも変なんですけど、すごく特殊な歌で、もう書けないな、っていうものなんです。インスピレーションというか、今、振り返ると、何であんなことを書けたんだろう、と思うような内容で。(中略)荒井由実のころって、私はほんとうにインスピレーションで、というかインスピレーションというものがあるということも意識せずに書いていた時期があるんです。そうしたら、いつしかそれができなくなった。これはもう、自分で書いて書いて見つけるしかないなって気持ちで……

そうしてポップでキャッチーな方向に路線変更し、作品を量産。そのスタートが「ルージュの伝言」であり、サードアルバム『COBALT HOUR』だったという。そこからの活躍は、私と同世代かそれ以上なら、多くの人が知るところ。

彼女のアルバムの2枚目までと3枚目以降を聞き分けられること、分けずにはいられない繊細さに、憧れがないわけじゃない。私はその人たちより、ある意味では劣位なのだと思う。ただ見方を変えれば(脳天気に受け止めるなら)、そのポンコツに意味を与えることもできる。

私は穏やかに、松任谷由実の心情を推し量る。彼女は、初期の彼女の作品を愛した人たちの落胆の言葉を浴びるよりもっと先に、自身の抗いようのない変化を受け入れる過程を踏んだのではないか。ファンは落胆して離れることができるが、松任谷由実は松任谷由実から離れることができないのだから。それは誰より壮絶な道のりだったかもしれない。

また一方で穏やかに、前者を好み、後者を拒絶せざるをえない人たちの心情にも心を寄せる。もちろんどちらについても当事者の深みには遠く及ばない。それでも、落胆することなく、無理をすることなく、冷徹にでもなく、平静にそれができる。それはそれで特徴と言えるだろう。見ようによっちゃあ特技なのだ。

私はここの役割で働いていけたらいいなと思う。人間は個の特徴を活かすのが良い、というのが私の基本方針だ。非凡な繊細さ、非凡な創造力をもつ人たちの中で、それ以外に仕事がないとも言えるけれど、それをこそやりたいのだとも思う。その辺がなんとなく、林さんの役割定義と共鳴するところだ。彼は実際のところ、自身が語るよりずっと非凡だったと思うけれど。

1960年代後半から1970年代前半にかけて、こうした自分がぎりぎり生まれていなかった時代の話を読んでいると、あぁ私のいない世界がずっとずっとあって、そこにぽんと生まれてしばらく私のいる時間があって、また私が消えた後にもこの世界はあり続けるのだ、ということに独特の納得感を覚えるところもあり、それまた不思議な感じがした。とりとめない感想文でした。

*1: 柳澤健「1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代」(集英社)

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