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2016-11-19

「講演」の過小評価

これを書こうとして筆を執ったというのに、昨日は結局、それ以外の話を書き連ねて終わってしまった。これを書く前に書き起こしておかないと先に進めないという思いの丈が噴出、長々としたためているうちに夜更けを迎えていた。でも私には、書かないとたどりつけない場所というのが多いので致し方あるまい。

それで本題というのは、自分は講演者が果たす役割の責任逃れで、「講演」という枠組みを過小評価していたんではないか?という気づきについてだ。

私は日頃、講師の話を聴くだけで終わらない複合的なアプローチで学習の場を設計するよう心がけ、そういう組み立てを専門にしているので(って全然言い訳にはならないが)、「講義形式」が単体で果たしている役割について軽視していたところがあったのではないか、と思った。

実際には、講義形式だけでほぼほぼ展開する研修プログラムでも、受講者をおおいに引き込んで後に学びを残していく講師の方とのつきあいもあり、現場に立ち会うたび敬服し、こういうことができる人がいるのだとは知っていた。ただ、それは特別な能力をもっている人ができるものとして見ていたんだと思う。

だけど、自分が講演をする立場になり、登壇1週間前に「TED TALKS」(*1)のこの一節を読んだとき、はっとさせられた。それは、「有能な講演者」が成せる技ではなく、「講演そのもの」に期待される役割なり価値として考え直す機会になった。

講演者のいちばんの使命は、自分が心の底から大切にしている「なにか」を取り出して、聞き手の心の中にそれをもう一度築き上げることだ。その「なにか」を、僕らはアイデアと呼ぶ。人々が拠りどころにし、持ち帰り、価値を見出し、ある意味で人生を変えるような概念だ。

自分は、講演が果たす役割、講演が引き受けられる責任範囲を過小評価することで、講演者として自分が果たすべき責任逃れをしていなかったか、と反省した。

「TED」といったら、素晴らしい講演者が前に立って、見事なプレゼンを披露するというイメージだけど、それは有能な講演者が選出され、有能でない講演者が選考時点で落とされているからだ(その上で、もちろん素晴らしいアイデアの持ち主が選ばれる)と、これを読む前はそんなふうに捉えていたんだと思う。そうやって、自分は後者側であるというふうに位置づけて責任逃れをしていたんじゃないか。

この一節を読んで、「人が講演を通して、人に何かを伝える」ということの意味を、一から考え直すことができた。人は講演を通じて、聞き手の心の中にアイデアを植え付ける。「植え付ける」なんていうと偉そうだけど、だからこそ本当に自分が大事だと思っているもの、自分の人生の時間をおおいに使って大事にしてきたものでないと、薄っぺらくて、コーティングすればするほど嫌らしいものにしかならない。それでは聴いてくれる人に失礼だし、自分もそんなことはしたくない。

アイデアとは、聴く前と後で「世界の見方を変えてくれるもの」とある。講演という形式ではないけれど、私はまさしく、これを読む前と後で、著者のアイデアの共有によって世界の見方を変えることができた。

そういう前提に立って、自分が何をしにいくのかという役割をシンプルに位置づけ直せたら、用意していたスライドのいらないものがぼろぼろと浮き彫りになってきて、焦点が定まり、構成をえいっと見直すことができた。

自分や会社のことを語る要素は、必要最低限まで削った。別に権威づけしたくて入れていたわけじゃない、逆に自信の無さから過剰に付けていたことを自覚したのだ。

初対面相手で、まずは関係づくりをしなきゃいけないから、参加者と自分の共通点は時間を割いて話したほうがいいのではないかと考えて、当初は会社関連の情報を、これまでした講演にはない量で入れていた。

でも、限られた時間に、本当に自分が大事にしてきて、今回お話しする皆さんにはこういうことを共有したいと思うことを話すとなったら、そんなことに多くを割いている場合ではなかった。そう思って、ばさばさ切り捨てた。話したいメッセージを軸にして、それがうまく伝わるために必要な文脈、下地づくり、遊び…と、全体を見直した。

これが登壇1週間前。ここで一気に贅肉がとれた頭になれて、あとは(風邪ひき以外)すごく身軽になってシンプルに、自分のまま舞台にあがって素で話したいことを話したらいいのだという気持ちになれた。

「TED TALKS」は事前に読めて、本当によかった。言葉の力にも、改めて思いを馳せた。

コミュニケーションの中で言葉によって伝わるのはわずか7%だが、声のトーンで38%、ボディランゲージで55%が伝わる

というアルバート・メヒラビアン教授の発見(1967年)を誤解して引き合いに出す人もいるとあって、こう言葉の力を述べている。

彼の実験は、人の「感情」がどのように伝わるかを調べるものだった。たとえば、だれかが「いいね」と言うときに、怒った声で言うのか、脅かすようなボディランゲージで見せるかで、どう違うかをテストしていた。この場合は当然、言葉はあまり関係ない。それをスピーチ全体に当てはめるのは、馬鹿げている

声の調子やボディランゲージの効果も否定しない。でも、

トークの本質は、言葉にかかっている。ストーリーを語るのも、アイデアをつくり上げるのも、複雑なことを説明するのも、論理を主張するのも、行動に訴えるのも、言葉だ。

これも私の心をすごくシンプルにしてくれた。伝える言葉をじっくり事前に考えて行けば、人前で話すのが不慣れでも、聴く人にしっかり届けることはできるのではないかと勇気づけられた。

自分に自信がなくてもいいのだ。自分が大事にしていることが、本当に大切なことだという自信があれば、自分に自信があるかどうかは関係ない。自分の人格なり、話す能力の高低は、この段になっては関係ないのだ。事前にできるかぎりの準備をして、今自分ができるやり方でやればいいんである。その準備に、有能な人の100倍の時間がかかろうと構わない。そういう四苦八苦の中で、能力を鍛えられるというものだろう。

という所に立てて、すっきり。身軽。すがすがしい。

*1: クリス・アンダーソン (著), 関 美和 (翻訳)「TED TALKS スーパープレゼンを学ぶTED公式ガイド」(日経BP社)

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