「ということになっておりまして」の背景
先日、大きな病院で診察を終えた後、帰りしなに採血に立ち寄っていくよう言い渡され、突然のことに「えぇっ!!」と動揺をあらわにしてしまった。慣れた人には「帰りにちょっと一杯」くらいの話なのかもしれないが、私にとっては一大事だ。血を採るなんて、聞いただけで貧血で倒れこみそうなほど苦手なのだ。
しかしまぁ、目を閉じたり深呼吸したりしてどうにか乗り切った。終わってみれば、病院行く前から事前予告されていなくて良かったー、人生における恐怖体感時間が短くて済んだ…と思うのだから現金なもの。
しかし受付で採血を案内されたときには、そんな、急に…と、明らかなる拒絶反応を全身で示し、表情をこわばらせた。困惑顔の私をみて、受付のお姉さんはこう言葉を添えたのだった。「手術する方は全員、事前に採血することになっておりまして…」と。
理解を促すつもりで、良かれと思って言い添えてくれたのであろうが、「ということになっておりまして」という言い回し、受け取る側としては、どうも微妙である。「お嫌でしょうけど、こちらの事情も汲んでおくんなさい」というような。
どういうことだろうと一通り終えた帰り道に考えてみたところ、これって暗黙的に「お宅様の事案で、それが最適かは存じませんが」という前置きを受け取ってしまうからかなと思った。
ここで言うなら、「あなたの目の手術で採血が必要かどうかはわかりませんけれども、うちのような大病院では、手術する人は全員採血するってことで運用したほうがいろいろと都合がいいんです。個別最適ではなく、全体最適から導き出した結論ですので、お嫌でしょうけど、こちらの事情も汲んでおくんなさい」と、一通り言葉にしちゃうと、そういう感じがするからかなと。
実際の事情がどうかは一切わからない。ただ、一患者が、あるいは一顧客が、「ということになっておりまして」から受け取る背景イメージを言葉にすると、こんな感じになっちゃわないかしら。そうやって全体最適に結論するっていうのが、どうも20世紀的な結論の導き方に感じられて、その停滞感みたいなのもまた引っかかるのかもなぁ。
まぁでも何世紀と言わず、大きなところでは全体最適でものを考えなきゃ現実的にうまくまわらないところもあろうし、その分小さいところは個別最適でものを考えることで大きな組織にない価値を生み出していけるってこともあり。
何を選んで何を選ばないかは客側個々人の自由なのだから、双方の都合が合わないところに体当りして文句言ったり不満を募らせるより、個々人がうまくその辺の特徴なり組織事情なり見通して、適材適所で取捨選択して、それぞれと良好な関係でつきあっていくのが大事なのであろうなぁなどと思う。今回の手術は大病院のお世話になる必要があるのだし、私もまぁ環境的に安心であるのだし。
それにしても、手術する身で採血にびびっててどうするんだという話だけど、どっちも怖いものは怖いのだから仕方ない。とりあえず採血が無事に終わって良かった…。目の手術は仕事に支障が出ないように12月に行います。
« 記憶は現在に属するもの | トップページ | 哲学おしゃべりの余韻 »
コメント