哲学おしゃべりの余韻
先日、急きょ哲学を語る飲み会に参加した。もともとは、大学で哲学科だった女性陣が参加予定だったところ当日になって2人来られなくなってしまい、1人でも欠員補充ができればということで、会の企画者と飲み友達で、勤務地が飲み会会場の近くだった哲学素人に声がかかり、濃厚メンバーに混ざって代打枠で参加することになった。
他の4人は哲学科専攻の人もいればそうでない人もいたけれど、とにかくみんなどっぷり日頃から哲学している卓見に富んだ面々で、交わすおしゃべりのどれもこれも面白かった。
何かみんなで話したいネタ(哲学的問い)を持ってこいというので、私も「人間を構成する要素を全部人工的に作れるようにして、それを人工的に統合して生かしたら、そこに魂は生起するか?」というのを持っていった。が、軽い挨拶からそのまま哲学話になだれ込んで2時間は話しこんでいたと思うので、みんなの持ってきた問いを持ち出したのはだいぶ後半になってから。4時間ほどぶっ通しで遠慮なし、キレキレの哲学話に花が咲いて、気づいたら0時近くになっていた。
やっぱり最初は、「で、哲学って何?」って話が出てくるんだけど、哲学科出身の人の話を直接聴けたのも面白かったし、これまでの哲学史の流れをざーっと、おしゃべり言葉で説明してもらったのも、分かりやすすぎてありがたすぎた。なんであんなことが何も見ないでできるんだ…。
哲学では「〜とは何か」「なぜ〜なのか」っていう問いがよく出てくるって話も、そうだなぁと。後から思ったのは、加えて「〜とはどのようにしてできたのか」って起源に迫ろうとする問いと、「〜に意味はあるか」って問いも多い。その辺を掘っていく作業というのはやっぱり、人が世界や人間を知りたいという智慧を愛する思いあってのもので、そうなる人の働きというか自然現象を、私は尊いなぁと思うのだ。
「神話」があったからこそ「哲学」が生まれ、「哲学」があったからこそ「科学」が生まれ、私たちは遠く紀元前から、前の時代に生きた人たちの生み出したものを踏み台にして、口承し、書物にまとめ、そこに対立や矛盾を生み出しては止揚してってサイクルをまわしながら、思考や論理や科学を発展させてきたのだ。壮大すぎる。恩恵受けまくりである。
私は哲学本って、一般の人向けに書かれた入門レベルのものをせいぜい十数冊読んでいる程度なのだけど、なかでも「ソフィーの世界」はお気に入りの一冊。家に帰ってから改めて手に取り、チラ読みしてみたんだけど、やっぱり紀元前の自然哲学の起こりのあたりはグッとくる。
紀元前700年くらいまでは、雷鳴るのも雨が降るのも「神話」で説明されていたんだけど(お空を行くトールって神様が槌をふると雷が鳴って雨が降るみたいな)、それを紀元前600年頃から自然哲学者たちが「え、なんかおかしくない?」って批判しだす。
こうした自然哲学の起こりには、紀元前700年頃にギリシア神話が書物にまとめられたことが背景にあって、「文字にすること」「書物にまとめること」の有意義さがひしひしと感じられて心に染み入る。それまで口承されてきたものが文字に書かれたことで、議論ができるようになり、批判の目を向けられるようになったという。
いろんな神話を整理して書物にしてみると、エチオピア人はエチオピア人ふうの神さま、トラキア人はトラキア人ふうの神さまを描いていて、ねぇこれってもしかして、馬とか牛に手があって絵を描くことができたら、馬は馬の、牛は牛の神さま描くんじゃないの?ねぇ、神話ってもしかして、人間の空想の産物なんじゃないの?って言い出したのだとか。編纂って偉大。
アリストテレスが後世に残したものも、別に自分で全部発見したんじゃなくて、彼以前の哲学者たちが生み出したものをまとめただけだとある。いや、先に述べたとおり、まとめるのだって相当偉大なこと。なんだけど一方で、アリストテレスの功績も、今ある科学の発展も、紀元前に神話を否定するところから始まっている。そう思うと、いやぁ染み入る。
この時代に生きた人でいうと、私はエンペドクレスという哲学者が好きだ。当時は、自然界のあらゆるものの起源は一つと考えられていた。それは何だろうというのがテーマだった。「水だ」「火だ」「空気だ」と、みんな変化の根底にあるものを、これと主張した。そんな中でエンペドクレスは「土・空気・火・水」4つの元素があると考えたのだ。すごい。
みんなが1つの元素から他のすべてのものが作られていると信じている世の中で、「1じゃなくて複数」だと考えるなんて…。「3つじゃなくて4つじゃない?」って問うのとはワケがちがう。なんでそんなことが…。
そして、4つが混ざったり解体したりしていろんなものができているとすると、そうなるための力が必要だというので、はじめて「物質」と「力」を区別したという。すごい。なんでそんなことが…。
私はこの「1じゃない、複数だ」という視点が好きだ。これは自分が多様性を好む気持ちに通じている。でも、拡散的に想像してみるってことを億劫がると、無意識のうちに「その辺全部一緒くた」に丸めてみちゃうのが癖づくに違いないと恐れている。そうならないために、できるだけ「それって全部一緒くたにみて、一つにまとめちゃっていいの?」って問いが、自然と発動されるように自分への刺激を与え続けたい。
むやみやたらと既成概念に頼って「分けてみる」のも好かないし、面倒がってなんでもかんでも「一緒くたにみる」のも好かない。その先を見据えて、それぞれのために自在に見方を組み替えられる開放的な目をもって分けてみたり分けずにみられるようでありたいのだ。そういう知性をもつことは、自分が強くあることとか、人に優しくあることを、確かな力で下支えしてくれると思っている。
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