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2016-10-10

いい仕事の話をする

数ヶ月前、ご無沙汰していた学生時代の先輩から「Web制作を頼める信頼おける人を紹介してもらえないか」と相談があった。それで気づいたのは、私、それを生業にしている人とのつきあいは、それなりにあるというのに、その人たちがどんな仕事をどんな感じでやっているのかという情報を、個別にはほとんど持ち合わせていない、ということだった。

よく手がけるクライアントやサイトの規模は?得意な業種・業態とかあるのか?ほか、こういう案件を手がけたいといった希望は?どんな技術を得意にしている?ビジュアルデザインはどんな感じ?ディレクションから設計・実装まで、どの辺りをどんなふうにやっている?ビジネス・マーケティング領域はどれくらいまで専門的に関与できる?自分の専門外はどんなパートナーシップで対応する?顧客対応はどんな感じ?時間守れる?連絡はマメ?責任感やプロ意識はどれくらいある?打たれ弱くない?仕事受ける余裕ありそう?

友人にはあれもこれも考えすぎだとあきれられたんだけど、依頼主は私に「信頼をおける人を紹介してほしい」と望んでいるので、途中で中途半端なことになってしまう人を紹介するわけにはいかない。けれど、仕事上で信頼をおけるかどうかって友人関係とは別もので、仕事外でおしゃべりしているだけではあんまり見えてこなかったりもするし。

なんて言っていると、結局一緒に仕事してみないことにはわからないという結論にしかたどり着かないんだけど、相談する先の視点にまわって、どんな実績・強みをもっているから、どういう案件を手がけたいと思っているのかについても、自分があまりに情報を持っていないことに正直唖然とした。制作実績ページなどもなかなかたどれない。

それでも、おおよその先輩からの与件を整理した段で、「こういう案件で、この先輩のパーソナリティだと、この人がいいんじゃないか」と思い浮かんだ方が一人いて、お声がけしてみたらちょうどフィットしているようだったので、そのままご紹介して一件落着。

こういうのは、紹介した後もずるずる仲介者が入り続けるのって、仕事がやりづらいだろうし失礼だと思っているので、あとはもう完全にお任せして私はドロン。そのWebサイトが先日めでたくリリース日を迎え、その日に打ち上げということで3人集まってシャンパンで乾杯(私は何もしてないけど…)。やりとりも順調に進んだようだったし、双方いい顔をしてお話ししていたので、きっといい仕事ができたんだなぁと嬉しかった。こういうときのシャンパンの幸福感っていったらない(私は何もしてないけど…)。

それにしても、もうちょっと小まめにいろんな人の仕事の話を聴いておくといいんだろうなぁと思った。他方、自分の仕事の話を人にするのも、お互いにだなと。

自分の仕事の話って、私はさほど話す機会がない。新規のクライアントさんに呼ばれて、こちらの紹介をある程度望まれているふうのときは話すけれど、極めて裏方業務なのでうまく説明もできず、それをくどくどするより、具体的な相談内容を聴いちゃって、それであればこういうのはどうですかってお客さんの話に入っちゃえれば入ってしまえたほうが話が早い。新規クライアント以外ともなると、公私ともほとんどこちらの仕事に具体的関心を示す人もいないので(私の説明がわかりにくいのもあると思うが…)、あまり話す機会をもたずにやってきた。

ここ最近で、相手が求めているわけでもないけど自ら自分の仕事の話をしたっていうと、自分がメンターを仰せつかった新卒社員の子らだ。ここ数年は、人事に依頼されて新卒のメンターをやっているのだけど、今年は意識的に、最初の挨拶で話す時間をもらったとき、私が今面白いなぁと思っている仕事の話をした。今こういう仕事をやっていて、それがこんなふうに面白くって…と。

若い人には、「仕事」の肯定的な面より、否定的な面のほうが届きやすいメディア環境なのかもしれないなって恐れがあって、情報は小粒だけど生身の人間をもって対面で肯定的な面を伝えられたらいいなと思ってやってみた。

それは数十分に満たない初回挨拶の一構成要素に過ぎないし、もう数ヶ月前のことだから相手方は憶えていないだろう。ただでさえ日々覚えることたくさんある中だ。それでもなんとなく、頭の隅のほうに残っていたらいいなと思う。仕事を面白いって話す大人に直接会ったことがあるというエピソードが、なんとなく微かに残っていれば。生身の人間を通して「一例外」を知っていることは、いつかどこかで「全否定」に飲み込まれそうになったときにも回避する隙間を作っておける気がして。

私ができるのは、身近な縁ある人と小さく手渡しあうことばかりだけど、いろんな人と細々でも直接に「いい仕事の話を交わすこと」が今、ちまたにいる私たち、市井の大人にこそ求められている気がする。

2016-10-08

哲学おしゃべりの余韻

先日、急きょ哲学を語る飲み会に参加した。もともとは、大学で哲学科だった女性陣が参加予定だったところ当日になって2人来られなくなってしまい、1人でも欠員補充ができればということで、会の企画者と飲み友達で、勤務地が飲み会会場の近くだった哲学素人に声がかかり、濃厚メンバーに混ざって代打枠で参加することになった。

他の4人は哲学科専攻の人もいればそうでない人もいたけれど、とにかくみんなどっぷり日頃から哲学している卓見に富んだ面々で、交わすおしゃべりのどれもこれも面白かった。

何かみんなで話したいネタ(哲学的問い)を持ってこいというので、私も「人間を構成する要素を全部人工的に作れるようにして、それを人工的に統合して生かしたら、そこに魂は生起するか?」というのを持っていった。が、軽い挨拶からそのまま哲学話になだれ込んで2時間は話しこんでいたと思うので、みんなの持ってきた問いを持ち出したのはだいぶ後半になってから。4時間ほどぶっ通しで遠慮なし、キレキレの哲学話に花が咲いて、気づいたら0時近くになっていた。

やっぱり最初は、「で、哲学って何?」って話が出てくるんだけど、哲学科出身の人の話を直接聴けたのも面白かったし、これまでの哲学史の流れをざーっと、おしゃべり言葉で説明してもらったのも、分かりやすすぎてありがたすぎた。なんであんなことが何も見ないでできるんだ…。

哲学では「〜とは何か」「なぜ〜なのか」っていう問いがよく出てくるって話も、そうだなぁと。後から思ったのは、加えて「〜とはどのようにしてできたのか」って起源に迫ろうとする問いと、「〜に意味はあるか」って問いも多い。その辺を掘っていく作業というのはやっぱり、人が世界や人間を知りたいという智慧を愛する思いあってのもので、そうなる人の働きというか自然現象を、私は尊いなぁと思うのだ。

「神話」があったからこそ「哲学」が生まれ、「哲学」があったからこそ「科学」が生まれ、私たちは遠く紀元前から、前の時代に生きた人たちの生み出したものを踏み台にして、口承し、書物にまとめ、そこに対立や矛盾を生み出しては止揚してってサイクルをまわしながら、思考や論理や科学を発展させてきたのだ。壮大すぎる。恩恵受けまくりである。

私は哲学本って、一般の人向けに書かれた入門レベルのものをせいぜい十数冊読んでいる程度なのだけど、なかでも「ソフィーの世界」はお気に入りの一冊。家に帰ってから改めて手に取り、チラ読みしてみたんだけど、やっぱり紀元前の自然哲学の起こりのあたりはグッとくる。

紀元前700年くらいまでは、雷鳴るのも雨が降るのも「神話」で説明されていたんだけど(お空を行くトールって神様が槌をふると雷が鳴って雨が降るみたいな)、それを紀元前600年頃から自然哲学者たちが「え、なんかおかしくない?」って批判しだす。

こうした自然哲学の起こりには、紀元前700年頃にギリシア神話が書物にまとめられたことが背景にあって、「文字にすること」「書物にまとめること」の有意義さがひしひしと感じられて心に染み入る。それまで口承されてきたものが文字に書かれたことで、議論ができるようになり、批判の目を向けられるようになったという。

いろんな神話を整理して書物にしてみると、エチオピア人はエチオピア人ふうの神さま、トラキア人はトラキア人ふうの神さまを描いていて、ねぇこれってもしかして、馬とか牛に手があって絵を描くことができたら、馬は馬の、牛は牛の神さま描くんじゃないの?ねぇ、神話ってもしかして、人間の空想の産物なんじゃないの?って言い出したのだとか。編纂って偉大。

アリストテレスが後世に残したものも、別に自分で全部発見したんじゃなくて、彼以前の哲学者たちが生み出したものをまとめただけだとある。いや、先に述べたとおり、まとめるのだって相当偉大なこと。なんだけど一方で、アリストテレスの功績も、今ある科学の発展も、紀元前に神話を否定するところから始まっている。そう思うと、いやぁ染み入る。

この時代に生きた人でいうと、私はエンペドクレスという哲学者が好きだ。当時は、自然界のあらゆるものの起源は一つと考えられていた。それは何だろうというのがテーマだった。「水だ」「火だ」「空気だ」と、みんな変化の根底にあるものを、これと主張した。そんな中でエンペドクレスは「土・空気・火・水」4つの元素があると考えたのだ。すごい。

みんなが1つの元素から他のすべてのものが作られていると信じている世の中で、「1じゃなくて複数」だと考えるなんて…。「3つじゃなくて4つじゃない?」って問うのとはワケがちがう。なんでそんなことが…。

そして、4つが混ざったり解体したりしていろんなものができているとすると、そうなるための力が必要だというので、はじめて「物質」と「力」を区別したという。すごい。なんでそんなことが…。

私はこの「1じゃない、複数だ」という視点が好きだ。これは自分が多様性を好む気持ちに通じている。でも、拡散的に想像してみるってことを億劫がると、無意識のうちに「その辺全部一緒くた」に丸めてみちゃうのが癖づくに違いないと恐れている。そうならないために、できるだけ「それって全部一緒くたにみて、一つにまとめちゃっていいの?」って問いが、自然と発動されるように自分への刺激を与え続けたい。

むやみやたらと既成概念に頼って「分けてみる」のも好かないし、面倒がってなんでもかんでも「一緒くたにみる」のも好かない。その先を見据えて、それぞれのために自在に見方を組み替えられる開放的な目をもって分けてみたり分けずにみられるようでありたいのだ。そういう知性をもつことは、自分が強くあることとか、人に優しくあることを、確かな力で下支えしてくれると思っている。

2016-10-05

「ということになっておりまして」の背景

先日、大きな病院で診察を終えた後、帰りしなに採血に立ち寄っていくよう言い渡され、突然のことに「えぇっ!!」と動揺をあらわにしてしまった。慣れた人には「帰りにちょっと一杯」くらいの話なのかもしれないが、私にとっては一大事だ。血を採るなんて、聞いただけで貧血で倒れこみそうなほど苦手なのだ。

しかしまぁ、目を閉じたり深呼吸したりしてどうにか乗り切った。終わってみれば、病院行く前から事前予告されていなくて良かったー、人生における恐怖体感時間が短くて済んだ…と思うのだから現金なもの。

しかし受付で採血を案内されたときには、そんな、急に…と、明らかなる拒絶反応を全身で示し、表情をこわばらせた。困惑顔の私をみて、受付のお姉さんはこう言葉を添えたのだった。「手術する方は全員、事前に採血することになっておりまして…」と。

理解を促すつもりで、良かれと思って言い添えてくれたのであろうが、「ということになっておりまして」という言い回し、受け取る側としては、どうも微妙である。「お嫌でしょうけど、こちらの事情も汲んでおくんなさい」というような。

どういうことだろうと一通り終えた帰り道に考えてみたところ、これって暗黙的に「お宅様の事案で、それが最適かは存じませんが」という前置きを受け取ってしまうからかなと思った。

ここで言うなら、「あなたの目の手術で採血が必要かどうかはわかりませんけれども、うちのような大病院では、手術する人は全員採血するってことで運用したほうがいろいろと都合がいいんです。個別最適ではなく、全体最適から導き出した結論ですので、お嫌でしょうけど、こちらの事情も汲んでおくんなさい」と、一通り言葉にしちゃうと、そういう感じがするからかなと。

実際の事情がどうかは一切わからない。ただ、一患者が、あるいは一顧客が、「ということになっておりまして」から受け取る背景イメージを言葉にすると、こんな感じになっちゃわないかしら。そうやって全体最適に結論するっていうのが、どうも20世紀的な結論の導き方に感じられて、その停滞感みたいなのもまた引っかかるのかもなぁ。

まぁでも何世紀と言わず、大きなところでは全体最適でものを考えなきゃ現実的にうまくまわらないところもあろうし、その分小さいところは個別最適でものを考えることで大きな組織にない価値を生み出していけるってこともあり。

何を選んで何を選ばないかは客側個々人の自由なのだから、双方の都合が合わないところに体当りして文句言ったり不満を募らせるより、個々人がうまくその辺の特徴なり組織事情なり見通して、適材適所で取捨選択して、それぞれと良好な関係でつきあっていくのが大事なのであろうなぁなどと思う。今回の手術は大病院のお世話になる必要があるのだし、私もまぁ環境的に安心であるのだし。

それにしても、手術する身で採血にびびっててどうするんだという話だけど、どっちも怖いものは怖いのだから仕方ない。とりあえず採血が無事に終わって良かった…。目の手術は仕事に支障が出ないように12月に行います。

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