記憶は現在に属するもの
先日友人とのおしゃべりで、「記憶」って過去のものじゃなくて、現在に属するものなんだよねって話をした。
最近読んだ本(*1)にあったのだけど、
記憶は現在に属するものであり、現在の自己の掘り出された過去の資源ではない。現在の活動は常に記憶を変えるが、記憶それ自体は常に現在の意味を保持しているのである。
これを説明するのに、著者が「有限パラドックス」の例を挙げているんだけど、これが面白かった。
ウィトゲンシュタインは、有限な数列は、さまざまな方法で続けることができると述べた。たとえば、「2、4、8」という数列は、その後10でも16でもあるいは31でも、規則的に続いているということができる。4番目の数字は、それに先行する数列の意味を変化させるのである。
著者のサビカスは、これって人生でも同じことが言えるとして、「新しい経験は、それに先行する経験の意味を変えることができる」「次に起こることが、それまでに起こったことの意味を再構成する」と続ける。
そうなんだよな。今、8の地点にいるとする。ここから先に進んだとき、10な出来事が起これば、次は14かなぁと思ったり、16な出来事が起これば、次は32かなぁというシナリオを描くかもしれない。でも、8にいる今現在は、10とも16とも31とも思い浮かべることはできるし、自分が行きたいほうに心を決めて舵取りすることもできるし、気分や能力によっては8どまりでふさぎ込むことも起こる。
「過去」には戻れず、過ぎ去ってしまった時を表すとしても、「記憶」は固定的なものじゃない。人の解釈に依拠し、常に再構成されるものとして、今ここにあるのだ。
過去にどんな意味づけをして、どんなシナリオを描くかは、今によって書き換え続けられているし、人によってどんな過去が掘り起こされ、脚色され、どんな未来へ方向づけられるかが異なる。この先にどんな想定外が起こって、今起こっていることの意味が書き換わり、今書いているシナリオがどう書き直されるかもわからない。
これって、少し前に書いた(*2)「マチネの終わりに」の一節ともリンクするなぁと思いながら読んだ。
人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
「過去の記憶」とは、よく使う表現だけど、「現在に属する記憶」って捉えてみると、この既成概念の崩壊っぽい感覚はなかなか快い。記憶とは、過去の解釈とは、すごく創造的なものだなと思う。
*1: マーク・L・サビカス「サビカス キャリア・カウンセリング理論」(福村出版)
*2: 過去を変える、未来の作用(心のうち)
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