ニュースにならない日常
昨日、倉庫をリノベーションしたという都内のオフィスビルに打ち合わせに出向いたのだけど、ビル前までは問題なくたどり着いたものの、その入り口で立ち尽くしてしまった。ビル名は合っている、間違いない。が、目の前のフロア案内に、目的地の社名がない。さらに、この倉庫ビルの入り口は、A、B、C、3つあると書いてある。
もう2つの入り口は、だいぶ遠くにありそうだ。大きな倉庫ゆえ、通りに面してずーっと先まで外壁が続いていて、建物の終わりが見えない。2つ目、3つ目の入り口前まで移動して、1Fのフロア案内にその社名があるか調べていったら、訪問時刻を過ぎてしまうにちがいない。
しかし、目の前の入り口から指定階まで上がって、果たして目的地にたどり着けるか、これも怪しい。これは、あれじゃないか、入り口ごとにたどり着けるところが違って、入るところを間違えると一向に目的地にたどり着けないってやつじゃないか(そういうので何度も痛い目にあっている。特に大きな駅…入り口じゃなくて出口だけど)。とりあえず指定階に上がってみて、その会社がなかったら、これまた時間のロスが大きい。
その会社のサイトに情報はないし、ここは電話をして入り方を確認するのが早いか…などと10秒20秒思案していたところに、郵便やさんがやってきた。これは!なんという巡り合わせ。郵便やさんこそ、こうしたビルの内部構造を知り尽くしているにちがいない、相談相手にうってつけの人物登場だ。しかも、これからまさに、このビルの中を一通り配達してまわろうという感じだ。というので、郵便物の束を抱えて入ってきたお姉さんに躊躇なく声をかけた。
「あの、どこそこって会社に行きたいんですけど、ご存じですか。サイトにはこういう表記しか書いていなくて。この入り口から◯階に上がって、たどり着けますかね?」と相談を持ちかける。すると、「あぁ、うーんと、じゃあ一緒に上がりますよ」と案内してくれることに。本当はいつもの配達ルートがあると思うんだけど、私が行きたいと言っているフロアを先にしてくれるらしい。「大丈夫。そのフロアにも用あるので」と、着いてきな!って感じで前を歩いていく。
お礼を言って足早に彼女を追いかけ、1Fのエレベーター前まで来ると、そこの各フロア案内には目当ての会社名が書いてあった。「あ、ありました!社名書いてありました。あとは大丈夫そうです」と指差して言うと、彼女「あぁ、でも、そのフロアはシェアオフィスだから、入り組んでいてわかりづらいんですよ」と言って、やはり一緒に上がってきてくれた。
そして、目的の会社のドア前までたどり着いたところで、私がガラス越しの先方担当者を目にとめて視線を向けているうちに、郵便屋さんは「じゃあ」と言って足早に曲がり角を折れていった。向かう途中に何度かお礼やら詫びやら伝えていたものの、私は最後にきちんと頭を下げてお礼を言えずじまいに。
こちらは心残りだったけど、彼女にとってはたぶん、日常のちょっとした当たり前の善意なんだろうという気がする。私も彼女の立場だったら、まぁ同じようなふるまいをするだろうとも思う。思うんだけど、私はそのことを何度となく、この一日半くらいの間に思い出しては感じ入った。
なんというのかな、そうやって私たちは毎日を生きているんだよなって思ったのだ。こうしたささやかな善意は、何のニュースにもならない。けど、たぶん日々そこら中で起こっているのだ。当たり前のことは、ニュースにならないのだ。
そうした日常の、ニュースにならないこと、悪いことではなく善いことを、気に留めて、目を向けて、言葉を与えて、意味を与えて、価値を見いだすのは、誰のすることか。私なのだ。メディアじゃなくて、一市民である一人ひとりの私が、やるかやらないかなんだよな。そうやって自分が生きる世界の見え方は、自分がつくっていくのだ。
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