« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »

2016-08-29

相手を悪者にしないユーモア

うちの会社の夏期休暇は「7〜8月に5日間の休みを取ってよし」というもので、いちおう連続での取得が推奨されているけど絶対じゃない。それに甘えて、今年は全部とびとびで取った。

複数案件がいろんなフェーズで走っているのと、まとまった時間をとって集中してやりたい仕事が断続的に発生するのと、いいのか悪いのか休まなきゃならない事情もなかったので、今年は「気まぐれに5日間、休暇をつまみ食いできる2ヶ月」として楽しむことにした。

そうしてなんとなく夏期休暇を取り終えた8月最終週の先週末、言わば「ただの土日」に、今年の夏まず間違いなく私にとって最も夏休みらしい休日を過ごした。妹の帰省にあわせて、父と妹と私で家族旅行に出かけたのだ。父が舛添さんの泊まったホテル三日月に行きたいというので、行き先は千葉の房総に決定。

一週おきにやってくる台風の合間、どうにか雨に降られず曇り空のもと出発。車の運転は妹、父は後部座席、私は助手席に乗り込んだ。高速道路に乗って南に下っていく。久しぶりのサービスエリアも楽しい。

再び高速に戻ってしばらく車を走らせていると、どこかのインターチェンジで無茶な入り方をしてきたのだったか、黒のミニバン(たぶん)に遭遇。以下、うろ覚えの家族の会話。

妹「すごい運転だなぁ」
父「ああいう運転はだいたい60くらいのオバハンや」
私「えぇ!? 60の女性は車体の色に黒って選ばなくない?」
父「じゃあ、確かめてみよう。◯子、追い抜け」
妹「よし、見てみよう」※良い子は真似しないでください
(追い越し車線に移動、ブオォーン、真横まで来る)
私(左を見て)「ほ、ほんまやっ!」
妹(すかさず)「全然違うじゃん!お姉ちゃん、ほんまやっ!って言いたいだけじゃん…」

そうだった。全然60じゃなかった。40か50くらいのアラレちゃんメガネした女性だった。お姉ちゃん、ほんまやっ!って言いたかった。っていうか運転席から見てたのか、妹…。となると、3人全員で一斉に左向いて彼女を見ていたことになる。そりゃ向こうも見るわな。アラレちゃんと思いきり目が合ってしまった。

そんなこんなで、向かっている時点から笑いのお稽古は万全だった。なのに、その後の旅先でうまく使えなかったんだよなぁ。

ホテル三日月は、値段がかなり張るのだけど、それでこれは無いよなぁというオペレーションが目立った。施設にお金をかけているのはわかるのだけど、目立つところにお金をつぎ込んで、一見一流を装いつつ実際はそうでないから残念さが出てしまう。一人1万円くらいに押さえてあれば、あのオペレーションでも笑って流せるのだけど。でも120%ファミリー向けだったので、うちのようなジジババトリオで行くと、とりわけ行き届いてなさ加減が目についてしまうというのもあるかもしれない。

まぁそんなのも家族旅行となれば、旅の味わいに変えてしまえるもんである。ここのオペレーションはこうすれば良くなるのに…とか、宿の側がそうなら客の側が頭使ってこう動けば一気に長蛇の列は解消されるのに…とか、あーだこーだゴハンを食べながら(勝手に)問題点を整理して改善策を練るおしゃべりも楽しいっちゃ楽しい。私だけかもしれないが…。

とにかく夕食も朝食も、数百人入る広間に満員状態で、たくさんの人をうまく動かす流れが作れていないので混乱ぎみ。父はとりあえず風呂あがりのビールを持ってきてほしいのだけど、注文から何分待ってもやってこない。そこで宿の若者をつかまえて父が「もう150時間待ってるんだけど」と声をかけると、若者「150時間ですか…」と顔をこわばらせて固まってしまった。もしかして計算してるのか…。

そこで機転をきかせて「6日も前から座っとるはずないやないかー!」とか「そこ真面目に計算するとこやないでー!」とか合いの手を入れられればよかったのだが、私はこういう時たいてい笑いに持っていけず、「いや、冗談です」とか「だいぶ前に注文したんだけど、まだ来ていなくてねぇ」などと仲介に入って、柔和に微笑んで場をなごますとか間をとりなすとか止まり。

そういうので終わってしまうと、結局「文句を言った客と、文句を言われた宿の人」という構図そのものは崩せない。んむむ、やはり明石家さんまは偉大だ。

場をなごます、間をとりなすから、もう一歩。ユーモアをもって緊張を総崩れさせたいもの。だけど、ユーモアの語釈には「思わず微笑させるような,上品で機知に富んだしゃれ」と載っている。「6日も前から座っとるはずないやないかー!」じゃ品に欠けて、ユーモアへの道は険しいことを痛感するのだった。

これって、自分がサービスを提供する側と位置づけても大事なことだし、仕事以外の人間関係でも大事。誰かと相対するときに、ユーモアってとっても大事だ。こちらの対応力如何で、相手の意見がクレームになったり、相手が悪者になったり。逆に、相手の意見をクレームにしない、相手を悪者にしないこともできる。ある程度は、受け取る側の力量と心持ちで変えられるのだ。ある程度は、だけど。あと真剣に怒っている人には火に油、だけど。

って話がまとまらないので、話を戻して、とにかく家族旅行はとっても楽しかった。2016年夏の素敵な思い出。

2016-08-25

暗中模索に一筋の光

クライアントから「わかりやすい内容で、いろいろとイメージが膨らんだ。次回の打ち合わせを楽しみにしている」との返信をいただいた。嬉し泣きすぎる…。今回出した提案に対して、これほどもらって嬉しい言葉があるだろうか。いや、ない!夏休みだけどメールチェックしに来て良かった…。提案書を送った昨日のうちに、一通り確認して返事をくださっていたのにも胸がつまった。ほろり。

思えば、ここ2ヶ月ほどは暗中模索の日々だった。今もまぁそこから脱したわけじゃないが、この一筋の光は私にとって大きな意味をもつのだった。

もともと、この案件に関わる自分にとっての個人的な意味は、疑いの余地なくあった。研修に落としこむ前提ではなく、組織の人材開発という通常より広いスコープで、お話をうかがって分析する機会を得た。わらわらと挙がってくる問題をどう整理して、その先どこに解決策を導き出すのかは、私のこれまでのキャリアに照らすと、レールのない地頭勝負な面が強かった。

その道のプロとしてお助けしましょう!と胸はって言える領域じゃない。が、まずは営業活動の一環として無償でやる流れだし、それであれば文句も言われまい。使えないなと思えばそこで終了にするだろうし、それであれば客先にかかる迷惑も最低限に留められるだろう。私としては未経験ともいえる分野を実践させてもらえる機会だし、やらないと伸びない能力なのだからやりたいならやるっきゃない。というわけで、とにかく今自分ができるかぎりのことを体当たりでやってみようと思った。個人的に進むべき道は一択でシンプルだった。

ただ、それをメタ的にみて、自分の仕事のあり方を差配するのは難しかった。お話を聴いて分析レポートを上げた後も継続してやりとりがあり、この自分の働きはお客さんにとって有用なのか、自社にとってはどうなのかと悶々としていた。

私との継続的な関わりが、お客さんにとって無駄骨になってはいけないし、会社の時間を使って立ちまわる以上、自社にとっても意味ある働きに還元できないと申し訳ない。では、この案件において自分がどういう立ち位置で役割を果たせれば、お客さんにとっても自社にとっても望ましいのか。どう動けないなら、どこで自分は判断して身を引くべきなのか。先方から言われれば話は早いが、自分は自分で厳しく自己評価する目をもたねばなるまい。

しかし、わからないのだった。新しい要素を多分に含んでいるため、自己評価はたいそう難しい。この打ち合わせ時間はお客さんの問題整理、課題発見に有用だったのだろうか。この分析レポートは、お客さんが施策展開に打って出る一助になるのだろうか。すでに社内でも散々話し合って整理されていること、関係者間でもとうに共有されていることであれば、打ち合わせの中で私に状況説明する時間も、私のドキュメントを読む時間も、先方にとっては無駄な時間、労力なのだ。私には、自分の働き、打ち合わせのパフォーマンス、提出したドキュメントの有用性、これらを評価する能力が著しく欠けていた。

客先からの評価がどう下ろうとも、それを真正面から受け止めようとは腹をくくっていた。けれど実際のところ、こちらが何か出したものについて、お客さんがその良し悪しに焦点をあてて明確なフィードバックをよこしてくることは、なかなかないものだ。

それは、違和感なく読めて的を射ており、腹落ちしたから課題そのものに集中していて突っ込みがないということもあるし、可でも不可でもないとか価値が見出せなくてスルーしているから反応がないということもありうる。そこんとこが、つかみとりづらいこともままある。

でも前者なら、せっかくお客さんが課題そのものに集中しているのを遮って、私のアウトプットどうでしょうと野暮な質問を持ちかけたくはない。私だってお客さんと一緒に課題に集中して次に歩みを進めたい。一方で後者なら、向こうが言い出す前に察して、自ら引く冷静さを持ちたい。お客さんに気を使わせて、ずるずると要らぬ打ち合わせをもったりドキュメントを読むコストをかけ続けさせるような迷惑はかけたくない。

研修案件と比べて自己評価のあてがなく、自分の仕事に対してずっと懐疑的だった。ただ、一段階二段階と歩を進めていくうち、最初期に比べれば靄が晴れてきて、提案も具体化でき、あぁこのご担当者のこの課題にはこういうサポートができるかもしれないという提案ごととか、この人の真剣な取り組みを自分がこんな役回りでサポートできたら嬉しいなぁという思いとかが、ぐぐっと鮮明になっていった。それで、都度都度行けるところまで突き進んで分析や提案をまとめては提示してきた。

そこから得た、一筋の光だったのだ。はぁ、嬉しい。力になれるといいなぁ。力になりたい。まぁ引き続きの暗中模索、自分のできるかぎりを尽くすのみ、それでどうなるかはお客さんの判断だ。ここまでの道中だけ振り返っても、すごく良い経験をさせてもらった。この先も悔いのないように、こつこつ頑張ろう。

2016-08-24

ニュースにならない日常

昨日、倉庫をリノベーションしたという都内のオフィスビルに打ち合わせに出向いたのだけど、ビル前までは問題なくたどり着いたものの、その入り口で立ち尽くしてしまった。ビル名は合っている、間違いない。が、目の前のフロア案内に、目的地の社名がない。さらに、この倉庫ビルの入り口は、A、B、C、3つあると書いてある。

もう2つの入り口は、だいぶ遠くにありそうだ。大きな倉庫ゆえ、通りに面してずーっと先まで外壁が続いていて、建物の終わりが見えない。2つ目、3つ目の入り口前まで移動して、1Fのフロア案内にその社名があるか調べていったら、訪問時刻を過ぎてしまうにちがいない。

しかし、目の前の入り口から指定階まで上がって、果たして目的地にたどり着けるか、これも怪しい。これは、あれじゃないか、入り口ごとにたどり着けるところが違って、入るところを間違えると一向に目的地にたどり着けないってやつじゃないか(そういうので何度も痛い目にあっている。特に大きな駅…入り口じゃなくて出口だけど)。とりあえず指定階に上がってみて、その会社がなかったら、これまた時間のロスが大きい。

その会社のサイトに情報はないし、ここは電話をして入り方を確認するのが早いか…などと10秒20秒思案していたところに、郵便やさんがやってきた。これは!なんという巡り合わせ。郵便やさんこそ、こうしたビルの内部構造を知り尽くしているにちがいない、相談相手にうってつけの人物登場だ。しかも、これからまさに、このビルの中を一通り配達してまわろうという感じだ。というので、郵便物の束を抱えて入ってきたお姉さんに躊躇なく声をかけた。

「あの、どこそこって会社に行きたいんですけど、ご存じですか。サイトにはこういう表記しか書いていなくて。この入り口から◯階に上がって、たどり着けますかね?」と相談を持ちかける。すると、「あぁ、うーんと、じゃあ一緒に上がりますよ」と案内してくれることに。本当はいつもの配達ルートがあると思うんだけど、私が行きたいと言っているフロアを先にしてくれるらしい。「大丈夫。そのフロアにも用あるので」と、着いてきな!って感じで前を歩いていく。

お礼を言って足早に彼女を追いかけ、1Fのエレベーター前まで来ると、そこの各フロア案内には目当ての会社名が書いてあった。「あ、ありました!社名書いてありました。あとは大丈夫そうです」と指差して言うと、彼女「あぁ、でも、そのフロアはシェアオフィスだから、入り組んでいてわかりづらいんですよ」と言って、やはり一緒に上がってきてくれた。

そして、目的の会社のドア前までたどり着いたところで、私がガラス越しの先方担当者を目にとめて視線を向けているうちに、郵便屋さんは「じゃあ」と言って足早に曲がり角を折れていった。向かう途中に何度かお礼やら詫びやら伝えていたものの、私は最後にきちんと頭を下げてお礼を言えずじまいに。

こちらは心残りだったけど、彼女にとってはたぶん、日常のちょっとした当たり前の善意なんだろうという気がする。私も彼女の立場だったら、まぁ同じようなふるまいをするだろうとも思う。思うんだけど、私はそのことを何度となく、この一日半くらいの間に思い出しては感じ入った。

なんというのかな、そうやって私たちは毎日を生きているんだよなって思ったのだ。こうしたささやかな善意は、何のニュースにもならない。けど、たぶん日々そこら中で起こっているのだ。当たり前のことは、ニュースにならないのだ。

そうした日常の、ニュースにならないこと、悪いことではなく善いことを、気に留めて、目を向けて、言葉を与えて、意味を与えて、価値を見いだすのは、誰のすることか。私なのだ。メディアじゃなくて、一市民である一人ひとりの私が、やるかやらないかなんだよな。そうやって自分が生きる世界の見え方は、自分がつくっていくのだ。

2016-08-08

過去を変える、未来の作用

今年のリオデジャネイロ・オリンピックは生中継を観られる。NHKが実験的に、テレビと同時中継でWebサイトにも映像を流してくれているのだ。

テレビを持たない私は、長いこと生中継でスポーツ観戦する経験をもたなかったが、開会式翌日に行われた競泳400m個人メドレーの萩野選手が金、瀬戸選手が銅メダルを獲得したレースは、観ていて力が入った。

あとで動画を観るのとライブでは、やっぱりだいぶ感覚が違う。別に「動画よりライブ」と言いたいわけでもない。一通りを終えて振り返る体験には、また別の意味が宿る。

そうしたことに思い巡らせているうち、今読んでいる小説「マチネの終わりに」(*1)の一節と脳内でリンクした。

登場人物が少し前に亡くなったおばあちゃんの話をする。おばあちゃんは90歳になって足元もおぼつかなくなり、転んだ時に庭石に頭を打って亡くなってしまう。自分が子供の頃、よくテーブルに見立ててままごと遊びしていた石が、大切なおばあちゃんの命を奪うことになる。それまで何十年と、良い思い出の風景として在り続けた石が、未来の一件で意味を変えてしまう。その石を良い思い出の風景としてだけ思い出すことはできなくなる。

ギタリストはこう返す。

人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

音楽もまたそうで、聴き始めは手探りでその主題の行方を追い、最後まで見届けたとき、振り返ってそこに広がる風景をよむ。

展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。

繊細で、感じやすい人の解釈が「過去」の印象を塗り変え、意味合いを書き変えていく。大人になればなるほど、たくさんの過去をもち、未来の自分がその意味づけを変えていく機会に巡りあう。それは決していいことばかりじゃないかもしれないが、それでも点をつなげて、意味を深めて、価値を広げていくポテンシャルを、過去はたくさん秘めている。大人は過去持ちだから、そのことは大事にしたい。「今」もまた、「未来」に書き変えられていくのだと自覚しながら受け止めていきたい。

時も偉大だが、人間の解釈も偉大だと思う。そもそも「過去」というものが一時的な人間の解釈に立脚した、やわいものだと言ってしまえばそれまでだけど。

*1: 平野 啓一郎「マチネの終わりに」(毎日新聞出版)

« 2016年7月 | トップページ | 2016年9月 »