同じ空間、同じ時間が意味を生む
ひとりの人間がたまたま同じ場所、同じ時間(時期)に両者に触れたというので、全然関係ない作品に関連性が見いだされていく様を、おもしろいなと思う。
例えば私は先週末に、岬龍一郎氏が編訳した「老子」(*1)と、山崎ナオコーラさんの「美しい距離」(*2)を並行して読んだ。双方にこれといった関連性はなく、老子なんて遠く紀元前の人なわけだけど、私が同時期に一緒に読んだということで、私の頭の中では老子と山崎ナオコーラ(というか「美しい距離」の主人公)の弁が勝手に関連づいて読まれたりする。
私には「美しい距離」の主人公が、仕事人の顔をもつ妻のことを思いながら、
配偶者というのは、相手を独占できる者ではなくて、相手の社会を信じる者のことなのだ
と考えるシーンが、たいそう胸に響いたが、それが同時期に読んだ「老子」の、
善く結ぶものは、縄約(じょうやく)なくして而も(しかも)解くべからず
に紐づいて、これまた共鳴する。これは「人との関係性は、縄で結ばなくても、心で結ばれていれば解ける心配もない」ってな意味。
私は配偶者をもたないけれども、配偶者にかぎらず、男女間の関係にかぎらず、「自分の大事な人を、大事にする」というのは、私にとってこういうことなんだろうなぁ、あるいはこういうふうでありたいと私は思っているんだなぁと、両者にふれて認識を新たにする。
縄で結んでおかないとほどけてしまうくらいなら、そもそも本質的な結び目が成立していないのだし、それを必死に縄でくくりつけようとすることに、私は意味を見いだせない。そう考えると、そもそも縄など必要ない。
縄で必死につなぎとめようとするくらいなら、縄などなくても互いに惹かれあえるよう、関係が深まってさらに発展していくように、自身を磨き続けて日々を生きていったほうがずっと気持ちいいと思う。それで関係がほどけてしまうなら、それはそれで仕方ないし、悔いもなかろう(とまではすっきりいかないかもしれないけど、まぁまぁ)。
と、ぐだぐだ書いているのは主題の一例で、ともかくひとりの人間が、たまたま同じ空間・場所でそれを体験したからとか、たまたま同じ時間の連なりの中でそれを体験したから、その2つに関連性が生まれて意味づけられるというのは、なんかおもしろいなと。私のもやっとした価値観を媒介にして、関連ない2つのものがふっとつながるのだ。
今後はそうした価値提供、ふっとしたきっかけを、リアルな場をもつ商業施設、カフェだったり本屋だったりが、どういう掛け算をして複合的な意味を生み出していくかが、腕の見せ所になるんだろうなぁなどとも思った。漠としているけど、ちょっとした走り書きメモ。
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