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2016-07-06

自分の役割の枠取り

「講演依頼を受ける」というのは不慣れな体験で、なんだか血迷ったことをしてしまった。本番はまだずいぶんと先の話なので実際的な問題はないのだけど、ちょっと反省文をしたためたいなと。

オープンなイベントで引き受けた時はそんなことなかったので、今回は一社の企業イベントだったことで本業たる研修稼業との線引きが曖昧になっちゃったのかなと振り返る。

普段の研修稼業だと、講師はそのテーマを本業とする実務スペシャリストに依頼する。自分ではやらないのが常だ。その講師に、どんな話をどこまでの範囲でしてもらうか、どんな構成・演出で展開するか、どんな演習をやって能力開発するかといった仕掛けを、目的や受講者分析を踏まえて組み上げるのが自分の仕事。

が、とある企業のイベントで「自分自身が講演する」という役どころの依頼を受けたとき、先のモードででしゃばったことをしてしまった。このイベントの目的はこうで、受講者像はこうだから、自分の講演はこういう位置づけで、こういう内容・構成がいいんじゃないか、当初依頼をいただいたコレではなく、一から起こしてこうしたほうがいいんじゃないかと。いや、それはそれでありっちゃありだ。うまくできるならば…。

だけど、下手にでしゃばった真似をすると結局のところ、しっくりいかなくなるのだ。あれ、こういうテーマで、こういう構成で話をするんだったら、それはそれで私じゃないもっと適任の講演者がいるはずだよな…とか。これって研修の企画になってないか?イベントの余興の役割じゃなくなってるよな…とか。

講演の企画構成を一から起こして、しばらく時間が経った後で、はっとするのだった。器と役割とパフォーマー(自分)が、しっくりなじんでいない…。気づくのが遅いんだよなぁ。なんで最初の段で、その場にあった枠取りというのをスパッと捉えられなかったのか。

イベント自体は、依頼主のほうでしっかり組み上げているのであって、そこは私の与り知らぬところ。裏方の構造づくりでなく、今回は1講演者として仕事を受けたのだから、そこの役割で向こうさんが期待している仕事をしっかりやるのが基本の務めだ(いや、できる人がさらに口を出すのは全然いい。けど私は講演者としてはペーペーで、基本を大事にすべき身の上なのだ)。

というので、もう一度、自分の役どころを枠はめ直して検討することにする。それはそれでいい、ボツにした企画要旨も、それはそれで私のトレーニングにはなっているので全然いいし、また新たに考え直せば、それも良い経験になる。

んだけど、何が恥ずかしいって、無意識に範囲拡張しちゃってたところ。自分の動きを、自分で見えていないコントロールできていないで、依頼主にさらしてしまった。そういうのが、残念な奴だなぁ、おまえは…というとこ。

まぁその時はその時で、自分なりに一所懸命に考えて手を伸ばしちゃったんだから、それが自分なのだと認めて反省して「もっと大きくなれよ」って話でしかない。ずっと気づけないより、後からでも「自分の役割の枠取りを早まった」と気づいて直せるほうがずっといいもの。自分の恥ずかしいとこは、まず自分で受け入れないと先がないのだ。

「なんかしゃべって」とか「なんか書いて」という話は、まれにお声がけいただくのだけど、無自覚に裏方まで手を伸ばして、むやみに自分の役割を拡張して、はたと気づくと、その話し手・書き手って適任者は私じゃないよねってちゃぶ台返ししているようなの、気をつけようと反省した。

向こうが何を期待しているのかって、自分が裏方だと比較的捉えやすいんだけど、自分がパフォーマーその人となると、冷静さを欠くのか慣れていないからか、捉え方に安定感が足りない。そこをきちんと切り分けて、案件ごとに自分の役割をどういうふうに枠取りすべきか、最適解を選んでコントロールできるように意識領域を広げていきたいもの。

自分の何がずれていたか、これくらい言葉に起こしておけば二の舞はないかな。そう信じたい。言語化する過程で恥ずかしさも外化されて、うまく自分と切り離せたかも。てへへ…ということで、もう一度実直に考え直そう。

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