「悪い人」認定の取り下げ方
昨日思いつきでFacebookに書いた話だけど、拡張版をメモ。己の了見の狭さと、悪人遭遇率の高さは、正比例すると思う(反比例でいったほうがいいのか…)。逆に言うと、己の了見が広ければ、そうそう絶対的な悪人って遭遇しないんじゃないかなと。向こうからの見え方や、向こう側の考え方に思いを馳せれば、己が他人に立腹する時間は減ると思っている。
って書くと、世間をわかっていないとか槍がとんできそうだけど、私がイメージしているのは、一般市民のごくごく日常のこと。人がやりとりするときに生じる、ささくれのようなものだ。
「なんてひどい人」って思う前に、いろいろ視野広げて考えれば、その人を悪人にしなくて済むことってたくさんあるよなぁと。善悪の評価を持ち込むのは常に人間なわけで、へたに善悪の価値観持ち込まず、別の捉え方をしたほうが、何かある度だれかを悪人にせずに済んで自分が楽だ。
自分の側で捉え方をコントロールしたら健康的に過ごせることってたくさんあるんじゃないかなぁと。悪人ゼロにはならないかもしれないけど、数は減らせるんじゃないか。悪人遭遇の要因はもちろん、自分の了見だけの話じゃないけど、いくらかでも減らせるなら、そのほうが楽ちんではないかと。
一歩掘り下げると、じゃあ自分が「悪い人」認定する「悪い人」ってなんなんだって話だ。
ひとつ、悪い人を「自分に悪事を働いた人」とする。たとえば、ある人が何か自分にぐさっとくるようなことを勢いよく意見してきたとする。自分は気分を害したとする。とすれば、それは他の誰にとっても悪事なのか。気を悪くしない人もいないかどうか。そう考えてみる。
そうした他者の意見を欲する人もいるかもしれない。取り入れるかどうかは別の話、後で自分で判断するとして、自分に対して率直に意見してくれる人は歓迎だという人もあろう(まぁ、その内容如何というのも多分にあるだろうけど)。
どの範囲の属性、地域、文化、時代の人までは、それを一般的に悪事と受け止めると言えそうなのか。とか考えていくと、絶対悪でもないかなぁって気がしてきて、当初自分が出した「悪人認定」を取り下げられるかもしれない。
ひとつ、悪い人を「悪気があって悪事を働いた人」としてみる。その人は、本当に悪気があったのかどうか。それが自分の気分を害すると知らなかったとするならば、教えてあげれば事足りる。その人にとっても良い学習機会になるのではないか。先の検討から、それが絶対悪でないならば、「それに気分を悪くする人もいて、それはこういう理由から」という情報提示をすれば良い。そうすると、その人を「悪人認定」する必要はなくなる。
まぁ、そんなことばかりじゃないだろうし、「悪人」を何とするかは人によってさまざまあるだろう。けど、自分の捉え方で、へたに自分にとっての「悪人」を作らず、増やさず、自分をいくらかでも楽にできることってあると思う。そこまでする間柄じゃないって感じるなら、その人は「ひどい人」なんじゃなくて「自分の好かん人」なのかも。この差は大きい。
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