不可避のライン
Pokemon Goに個人的な好き嫌いが出るのは当然と思うのだけど、あれを今時点で社会的な価値づけとしてダメと論評するのには、えぇー…と思った。一部のノイジーマイノリティの声が目立って聞こえてきているだけかなとも思うのだけど、実際のところがよくわかっていない。
ともあれ、アプリが出て数日の、まだみんなが使い慣れてもいないいっときを切り取って、あれは危ないからとか、人をダメにするから良くないとか断じてしまうのは早計に感じられる。
これだけの社会現象を巻き起こしたとあれば、使い方マナーの啓発活動は、提供主側もする必要があるかもしれないし、それで人があふれているところなどは、一時的に対策を講じなくてはならないこともあるだろう。
でも、それぞれに1週間2週間と使えば、遊び方はこなれていくだろうし、1ヶ月後も2ヶ月後も同じだけの人数が同じ場所に通い詰めているとも思えない。隅田川の花火大会なり、フジロックフェスティバルのように、いっときのお祭りと思えば、イレギュラー的にいっとき一所に大量に人が押し寄せているという見方におさめることもできる。それに応じて、期間イメージをもった対策を考えるのが妥当だろう。
いつまで経っても学習が進まずケガが絶えないということであれば改まった対策が必要だけど、出て2〜3日のアプリを、数日の混乱をみて、その存在自体断罪するのは浅薄だし、無期限を想定してルールを作ろうとするのは合理性に欠ける気がする(無期限を想定して作られたルールは、そのルールが不要になっても残ってしまいがちだ)。
人は新しいものを、段階的に使いこなせるようになったり、関わりあえるようになっていく。そうやって時代とともに、新たな道具を取り入れ、合理性と自由と、その次に得られる可能性を獲得してきたのだ。それが何ものかわからない時点では、評価をくださず留保するというのも、評価能力の一つだよなぁなどと思う。
そんなことをうだうだ考えているときに、「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則」(*1)の「はじめに」を読んで、まさしくだなぁと心に響いた。
われわれはあまりに早く変化していて、新しい機能を発明する速度がそれを文明に取り入れる速度を超えてしまっている。あるテクノロジーが出現すると、それが何を意味するものか、それを飼い馴らすためにどういうマナーが必要かという社会的な同意ができるまでに、10年はかかっている。
ということで、
テクノロジーを使い始めた頃の反応はすぐに消えていくもので、別に本質的でも不可避でもない。
私がだらだら書き連ねてしまうことを、ある人はこんなにシャープに表現できてしまう。こなれた翻訳者の手腕もあるかもしれないが、ピーター・ドラッガーの文章を読んだときのような心持ちで、聡明な世の中の捉え方にふれ快く味わう。「はじめに」だけでも買った甲斐があったなぁと。まだ「はじめに」にしか読んでいない…とも言う。
この本は、著者がここ30年の技術進化にもとづいて、この先30年がどう形作られるか、不可避なテクノロジーの力を12コ挙げて説くものだ。小さなトレンドがどうなるかというのは、予測がつかないけれど、
テクノロジーの性質そのものに、ある方向に向かうけれど他の方向には向かわないという傾向(バイアス)がある。
そのバイアスを項目立てて、ここ30年の大きな流れから、この先30年を見通すことはできると。
そのバイアスがもたらす変化は、すべてが歓迎されるものではなく、既存ビジネスが立ちゆかなくなったり、今就いている職業では食べていけなくなったり、今の法を逸脱して違法な領域にも踏み入ったり、心を痛めるような事件、紛争、混乱も生じるだろう、と。
それでも、
不可避なものを阻止しようとすれば、たいていはしっぺ返しに遭う。禁止は一時的には最良の策であっても、長期的には生産的な結果をもたらさない。
であれば、
生まれてくる発明が実際に(つまり可能性としてでなく)害悪にならないように、われわれは法的、技術的な手段によって制御する必要がある。個々の性質に合わせて、文明化し手なずける必要もある。ただそうするためには、まずは深く関わり、手を出して試してみて、警戒しながらも受け入れていく必要がある。
人間には制御不能な変化も起こる世の中に生きているという前提に立って、テクノロジー進化がもたらす変化も例外ではないことを踏まえるなら、これまでのテクノロジーの大きな流れから、不可避のことと、制御できることを見通して、己をわきまえて、受け入れていくという態度で関わりたい。人間はまったく万能じゃない、大きな流れの中に身をおいて、さまざまな不可避のことを抱えて生きているんだと思うから。
*1: ケヴィン・ケリー(著)、服部桂(翻訳)「〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則 − 未来を決める12の法則」(NHK出版)
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