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2016-06-19

人材開発の潮流メモ(2016年)

毎年米国で開催されている世界最大級の人材開発国際会議の2016年版「ATD-ICE 2016」の報告会(*1)に行ってきた。独断と偏見で切り取っているので網羅性がなく、私的メモ書きも混ざったごった煮だけど、2016年の人材開発の潮流ということで。

●組織のラーニングカルチャーが問われる
ATDのCEOであるTony Bingham氏のオープニングは、ラーニングカルチャー(日常的に学び合う、教え合う企業文化)をどう育むかが大事とのメッセージ。

◆成功している企業は、一般的な企業に比べて5倍のラーニングカルチャーが確認された
◆ラーニングカルチャーを取り入れている企業は41%にすぎない

報告会でお話しくださった人財ラボの下山博志氏いわく、「企業のトップで教育を軽視している人はそうそういないが、ラーニングのコンセプトをきちんと認識しているかは微妙」といった所感を述べられていた。

ここがずれると、「人が大事」とかは掲げているんだけど、人材開発に関する施策の方向性、具体策、予算の割き方といった実際面がずれてしまって、結局活動が本質的な意味をなしていないという事態に陥る。そして、こうしたズレは往々にして起こる。

人材開発の現場に立つ身としては、そこの抽象(人が大事、人材育成は大事)と具象(ゆえの施策)をきちんとつなぎあわせて整合性をとり、途中でずれたら都度補修し、“その組織/個人の”パフォーマンス向上まで一貫させるディレクションが、能力の発揮しどころの一つだよなと思う。クライアントとの関わりの中で、自分のできる範囲からだけど、この辺は当たり前の任として実直に重ねて、自分が提供できることを広げ深めていきたい。

って、話がずれた。ラーニングカルチャーの整備に必要な3つのポイントとしては、日常業務の中に、アイデアと人をつなげてお互いに学び合う「コネクション」の仕組みをもち、常にアクセスできる「プラットフォーム」を整備し、いつでもアクセスできて「継続的に学ぶ」環境づくりが求められる、という話。

じゃないと、研修をやっても打ち上げ花火で終わってしまう。学び合う文化をもたない組織がそれを持つのは、「企業文化を変える」取り組みで決して容易ではないが、そういう前提で腰をすえてかかる必要がある。

●リーダーの仕事は部下を信頼し、安全な場を与えること
従来のリーダー像といえば、部下に対してエンドルフィン(やる気を出す)とかドーパミン(達成感)を刺激するといった達成動機を与えるスタイルが主流だった。でも、これは一時的で短命、中毒性があり、利己的なホルモンとされる。

それよりも、セラトニン(幸せホルモン)、オキシトシン(愛情・忠誠心)を刺激する親和動機を与えたほうが、長期的に効くインセンティブとなる。

リーダーは部下に対してゴールを設定し、インセンティブを与える。そのインセンティブは、神経科学の文脈にのせると、この4つのホルモンで表わせるが、大事なのは前者より後者を与えること。従来型でやっているなら、切り替えよと。

皮肉、不信感、不安、恐れ、自己利益がはびこる危険な環境を与えるのではなくて、部下を信頼して安心・安全に働ける環境を作ってあげることで、部下は自己防衛せずに自分を出せる。部下が自己防衛に時間や能力を使い過ぎないようにせよと、そんな話。

●ニューロサイエンス流行り
ちなみに、今回はニューロサイエンス(神経科学)が大流行りだったそうで、どこもかしこもプレゼンスライドに脳の画像が貼られていたとか…。参加者によれば「これは違うんじゃないの?」ってな、うさんくさいのもあったそう。

自分の主張したいことありきで、その説得材料にニューロサイエンスを濫用しているケースもある気がするけど、まぁそれが世の常。だからといって全否定するのも雑だ。流行りにのってしまったものは、受け手側に「うまく取り入れていく」手腕が問われるもの。そういうもんだろう。

で、それらしいところを拝借。インセンティブを神経科学から語ると、こういうことらしい。

[達成動機]
◆エンドルフィン:運動時や笑っているときに分泌される。気持ちが良くなり、体の痛みを感じなくなる。やる気を出す源となる。
◆ドーパミン:達成したいと考えたときに分泌される。はっきりしたビジョンがあると達成したいと感じ、分泌される。

[親和動機]
◆セラトニン:皆の前で感謝されると分泌される。自分の行いに誇りや自信をもてるもので、関係を深める。リーダーは自分を犠牲にしても部下を守ることで、分泌を促せる。
◆オキシトシン:好きな人と一緒にいたいという気持ちや、安心感があると分泌される。愛情から、所属する組織に忠誠心が現れる。

部下を信頼し、部下の安心や能力発揮につなげるには、自分の時間を使って、へたに条件づけせず相手に寛容さと親切をもって関わる。リーダーとはトップにいることではなく、危険に真っ先に立ち向かい、メンバーの安心感を作り、人間としての満足感を出すことが大事と。教科書的だけど一応メモ。

●弱みを見せるのも部下との信頼構築に
これは潮流といっていいかわからないが、基調講演の一つだったBrene Brown氏のメッセージ。リーダーは部下に対して「弱さを見せてはいけない」というマインドになりやすいが、VUCA(*2)のご時世、万能なリーダーなど土台無理な話だし、リーダーでも迷うことや誰かに助けを求めることはある。

そういう前提に立てば、信頼しているからこそ部下に弱い部分を見せるってことで、「自分はこう思うんだけど、あなたはどう思う?」と真剣に相談するのも、部下との信頼関係を構築するのにむしろ有効では、という話。部下は頼りにされていると感じ、その信頼に応えようとする好循環が生まれる。そこで必要なのは、リーダーが部下に弱み(Vulnerability)を見せる勇気。

●優良企業の趨勢と、ミレニアル世代の主流化
1955年のFortune500社(米国の経済誌が毎年発表している企業番付)のうち、2014年に残っている企業はわずか12.2%だそう。

一方、米国の人口ピラミッドでみると、2000年以降に社会に出たミレニアル世代がビジネスの現場で主流に(日本は…)。今やミレニアル世代も30代半ば、マネージャー層に達している。そう言われてみると、そうだ。

このミレニアル世代が仕事上、動機づけられるもののランキングが紹介されていた(*3)。

Most motivating at workは、1位Impact(76%)、2位Learning(59%)、3位Family(51%)。Impactは自分がやっている仕事にインパクトがあるか、社会にどんな影響を与えられているかといったものらしい。Familyは血縁関係にこだわらず、広い意味での家族的なものじゃないか、とのこと。

一方のLeast motivating at workは、1位Prestige(22%)、2位Autonomy(22%)、3位Money(10%)。名声、自律性・自主性、お金では動機づけられませんよと。まぁでも、1位で20%台だからな、へたにレッテル貼って色眼鏡で見てしまうくらいなら、これは聞き流しておいたほうが賢明なのかも、とも思う。

報告会のなかでは、2位のAutonomy(自律性・自主性)のランクインが注目されていた。そういう前提でミレニアル世代にどう関わるか働きかけていくか、みたいな文脈だった気がするんだけど、もしこの調査結果を真正面から受け止めるなら、そここそが人材開発のテーマになるんじゃないかなとも思った。

ラーニング・テクノロジーが進化して、「個別最適化した学習ができるようになってきている、それにどう対応するか」みたいな話も出ていたし、人材開発にかぎらずパーソナライズとか多様化は時代のキーワード。でも、それって「個が自立している」ことありきでうまく循環するものじゃないかなって思う。

自立した個が集まって活動するからこそ、強い組織として個人ではできないことが達成できる。とすると、個の自律性・自主性がもし弱まっているなら、それを受けいれた人材開発をどうするかって議論より、それをこそ人材開発の重要なテーマに据えて、どう伸ばしていくかを議論するのが大事なのかも?そんなことを考えながら話を聴いていたが、その辺が何か語られていたのかは聞き損ねてしまった…。

●マイクロラーニングの一般化
「隙間時間にスマホ見る」みたいな時間の使い方が日常になり、また一口サイズのコンテンツを用意しておき、個々に最適化されたコンテンツを組み合わせて提供できるだけのラーニングテクノロジーも進化を遂げている。というので、マイクロラーニング(切片学習)が一般化してきた。

マイクロラーニングの潮流は、これまで5〜7分くらいにまとめるとかいう話が出ていたけど、今年は、ただ小分けにすればいいのではなく、どう分けて、どうつなげて、どう構造化するかが大事だ、といった話が展開されていたそう。対象者にあわせて、どう組み合わせて提供すると効果的なのか。

それはそうだ。という話なんだけど、これと別に脳裏に浮かんでくるのは、集中を持続する筋力が弱くなっているとしたら、それは放置でいいんだろうかということ。時代にあわせてコンテンツを一口サイズにするのは、個別最適化の面でも理にかなっていると思う。それはそれとして、持続する集中力を鍛えるっていう方向は放置していていいのだろうか。まぁ、やる人は普通に別の場所で鍛えているんだろうけど。どうなんだろう。

●70:20:10の再考
70:20:10の話は昔からよく話されているもので、以前自分がまとめたものだと、効果が出る「仕事の教え方」(Slideshare)の8〜9スライド目で紹介している。

もとをたどると、優秀なマネージャーを対象に「どんな経験が役立っているか」を調査したところ、70(自分の直接経験)、20(他者の観察・アドバイス)、10(公式な研修・読書)という結果に大別されたという話なんだけど、今は解釈が広がって、マネージャー層にかぎらず広く紹介されている。

今年語られていたのは、これは「だから70が大事」って話だけじゃなくて、「20」とか「10」もそれぞれに意味があり、それらをどう有機的に結びつけてパフォーマンス向上につなげていくかが大事だよね、という話。

これは私もずっとそう思っていて、人前で話すときにもそのように伝えていたから、まぁそうだよなと答え合わせができた感じ。ちなみに、今年はこの70:20:10も脳の画像と同じくらい頻繁に目にしたそう。

それはそれとして、これは言うは易し、行うは難しだ。ラーニングカルチャーを下支えに、70:20:10をどう統合的にデザインしていくか、それを現場のパフォーマンス向上につなげていくか。これを、いかに実直に実践していけるかが実務者の仕事の本分だ。

●全部の話が絡み合っている
ヒューマンバリュー会長の高間邦男氏いわく、「セッションのカテゴリーは分かれていても、全部の話がからみ合っている状態。様々な要因が影響しあっていて、分野ごとに切り分けて語るのが難しくなった」。

マインドエコーの香取一昭氏いわく、「e-learningとクラスルーム・トレーニング、同期型と非同期型、フォーマルとインフォーマルといった分断思考ではなく、全体統合が必要。部分最適では時代の要請に応えられない」。

複合的に施策を講じていかねば意味なし!という意味では、70:20:10を有機的につなげる話もそうだし、先述した3つのポイント(コネクション、プラットフォーム、継続的に学ぶ仕組みづくり)もそう。どれか1コやってどうこうじゃない、組み合わせて統合デザインしていく必要性は、今回のカンファレンス全体で強調されたことの一つと言えそう。

●ラーニング・トランスファー
リクルートマネジメントソリューションズの嶋村伸明さんは、前年も報告会でお話をうかがって、すごく面白かったので、今回も嶋村さんの話を聴きたくて参加したようなものなのだけど、やっぱり面白どころが凝縮されていて興味深く聴いた。

そのうちの一つが、研修でやったことを現場にどう転移・定着させるかというラーニング・トランスファーの話題。研修を行った後、
「新しいスキルを仕事に適用した人」が15%
「〜適用しなかった人」が20%
「〜適用しようとしたけど、元にもどった人」が65%(*4)
と、最後のscrapped learningが一番多い。

ここでの工夫としては、Idea Developmentのジェイソン・ダーキー氏の話が有用だった。転移を促す工夫として、研修プログラムを次の5点からチェックする(と言いつつ、5点目は判然とせずじまいに…)。
1.大変なのは講師より受講者だ
2.少なくとも2/3の時間が演習やフィードバックに使われている。インプット時間は1/3に過ぎない
3.職場で使うツールを中心に行われている
4.教材が、第三者からの説明っぽくなく、アクション中心に「こうせよ」という言い方になっている

●人事評価制度のRating廃止
ヒューマンバリューの川口大輔氏の話から。Fortune500社のうち、10%がすでに年1回の人事評価・ランキングを廃止しており(*5)、No Ratingが広がっている。

要因として川口さんが整理されていたのは、
1.従業員数やマネジャーのエンゲージメントを低下させる
2.マネジャーとメンバーの関係を悪化させる
3.かけるコストと得られる成果・効果がつり合わない
4.ビジネスの実態にそぐわない(VUCAの時代に、期初目標を立てて半年後に評価するのってどうなの…)

GAPは、グローバルで億単位のコストをかけて評価制度をまわしていたそうで、Ratingを廃止した企業の一つ。他に、GE、Deloitte、Microsoft、Accenture、Zappos、Pfizerなどが知られるところ。

NeuroLeadership Instituteの調査グラフをみると、2010年くらいから廃止の動きが活発化しており、2015年時点でNo Rating化した企業が50社を超えている。2017年までには、Fortune500社の50%がNo Ratingに移行し、継続的なフィードバックモデルを採用するのではないかという予想(*6)もあるのだとか。

ただ、この話は昨年話題になっていたんだけど、今年は評価をテーマにしたセッションがなかったみたい。それで廃止してどうなったの?というのが知りたいんだけど、そこがわからずもやもや。どういう仕組みに変えて、それはうまくいっているのか。結局なんらかの評価を行って、社員ごと違う給与額を支払うという営みはあるわけで、それをRating時代より高い社員の納得感を得て実現できているのか、その仕組みとは?が気になるところ。来年は復活するだろうか。

いい加減長いので、とりあえずこの辺で…。

*1: ATDとは、組織における職場学習と、従業員と経営者のパフォーマンス向上を支援することをミッションとした、世界最大の会員制組織。ATD-ICEは毎年ATDが主催する世界最大級の人材開発国際会議で、世界中から企業の人材開発関係者やコンサルタント、教育機関、行政体のリーダーなど1万人以上が集まる。400近いセッション、350以上の展示などから構成される。今年は5月に米国コロラド州デンバーで開催。私が参加したのは、日本からの参加者による報告会。

*2: VUCAとは、Valatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字をとった言葉。もとは米国の国防省用語だが、最近はビジネス文脈でも使われている。先々よくわからない時代に生きているよね、ということを言うときに使う。確か「ヴーカ」って言っている。

*3: ATD-ICE2016「W305: What Motivates Me: New Research Into Employee Engagement」

*4: ATD-ICE2016「SU217: Boost Training Transfer Using Predictive Learning Analytics (New Model) 」

*5: Cliff Stevenson (senior research analyst for the Institute for Corporate Productivity)

*6: Kris Duggan (co-founder of BetterWorks)

2016-06-14

歯ブラシの交換目安

この間TBSラジオを聴いていたら、不潔だなんだと、いいオトナが言い合いになるネタが2つあって、一つがバスタオルを洗濯するタイミング、もう一つが歯ブラシを買い替えるタイミングなんだと話していた。

私も以前、バスタオルはどれくらい使ったら洗濯するか論争には遭遇したことがある。物心ついたときから毎日替えるのが当たり前で何十年と暮らしてきた人からすると確かに、1週間とか同じの使っているのは「えぇっ!!」となるのもやむなしと察する。

一方で、お風呂に入ってきれいにした体の水滴をふいているのだから、丸めておいておくでもなければ日陰干しして1週間やそこら普通に使えるでしょ、というのも道理にかなっているように思われる。6〜7割がたは親が家でどうしていたかで、その「当たり前」が決定づけられているように思うのだけど、どうだろう。

それはそれとして、今回初めて聞いて、ほぅっと思ったのは、歯ブラシのほうだ。そのラジオパーソナリティは1週間に1回ペースで替えると言っていた。応じたもう一人も、1週間に1回ペースだと言っていた。

一人はそれが一般に比して早いタイミングであることを自覚していたが、もう一人はそうではない様子だった。「え、だって1週間以上も使ったら雑菌とか気になるでしょ」といったことを素で言っていて、正直ひょえーと思った。

ちょうどそれを聞いた後に、そろそろ替えどきだなと思っていたので歯ブラシを買いに行ったのだけど、パッケージの裏に交換目安は数字で示されておらず、「毛先がひらいたらとりかえましょう」と書いてあった。うん、私の認識、間違っていない。私は毛先の具合いで判断してきた。

おそらくこの手のことはネット上で議論が尽くされているであろうと思い、家に帰ってネットで検索して1ページ目に出てくるのをざざっと読んでみた。

そうすると、だいたいの記事内容は、毛先問題のほかに雑菌問題に言及していた。それも考慮すると「1ヶ月が替えどきです」と、皆口をそろえて言っていた(書いてあった)。毎食後使うなら、日に3回×30日も使って100円程度なら安いものでしょうと、皆一様に1ヶ月での買い替えを迫ってくる。電動のだともっと高くつくらしいが、買い替えの頻度も踏まえて、電動がいいのか安い手動がいいのか考えてみましょうという言及もあった。ちなみに私は家のを日に1回、会社のを日に2回使っている感じ。人によって日に何回どこで歯磨きするかは違いがありそうだ。

歯関係のビジネスをしているところが書き手だろうし、短期サイクルで替えるよう促す記事が多いだろうなぁとは予測しつつ検索をかけたんだけど、見事に皆同じ期間設定で、その界隈での常識を知れたのは一つ勉強になった。

あと、実際にみんながどれくらいの期間で歯ブラシを替えているのかなど調査結果をグラフ化して出してあるのも数点あったけど、1週間ごとが若干いて、2〜3週間とか1ヶ月とかがひとかたまり(3割とか)、2〜3ヶ月がひとかたまり(3割とか)、あと半年とか使い続ける人が1週間よりいくらか多いくらいいた感じだった(うるおぼえ…)。

こういうのって、ほんと自分のが「当たり前」になっていて、あるとき他の人の実態を知るとびっくりする。私はたいてい一般的か、一般より若干ずぼらな生活態度だ…。

調査結果には、歯ブラシは月初に買い替える習慣になっているというようなコメントもあった。そんなふうな習慣をもって生きている人もいるのだな、と新鮮であった。

「毎月8日は歯ブラシを替える日」(ハだけに8)なんてのを仕掛けて、こんな生活態度が世の中に普及すると、(半年使い続けている人は微動だにしないかもしれないが…)2〜3ヶ月の人の数割が年3〜4本買いを年12本買いに改める3〜4倍増も夢ではない。そうなったら、歯ブラシ屋さん的には万々歳だ。

とか書きつつ、こうした事情を知ったくらいでは、私のサイクルは短期化されそうにない。世の常識が一変するまで、私はずるずる「毛先判断」を続行しそうである。これまで何十年とそれでやってこられてしまったので、歯ブラシ買い替えの短期化によって歯の健康が著しく改善されるとは、にわかには信じがたいのだろう。ここ何十年の間に虫歯との闘争は繰り返されてきたのだが、それとこれの関連性は今のところ見いだせていないのだ。

◯◯って嫌よね、不潔よねっていう常識づくりによって、購買意欲を起こしたり購買回数を増やしたり。とか、そういうことを書いていると思い出されるのは、シャンプーのエメロン「フケいやいや」CM(*1)だ。洗髪以外の効果(フケ・かゆみを防ぐ)をうたった最初のシャンプーだとか。声高に「いやいや」と言われると、みんないやになってくるという。いろいろと面白い。特に結論めいたものはないメモ書きでした。

*1: エメロン「フケいやいや」CM(Youtubeの動画)

2016-06-13

話すための勇気

物語を読みたいときは、市場の思惑にのって、まんまと罠にはまるようにして文庫本を買い求める。本屋に足を運んで目に止まった平積みの本とか、電車内の広告を見てピンと来たものとか。誘われるままに、気分のままに買う。

プロモーションの役割は本来的に、作り手なり売り手がそれを届けたい人に、その存在や価値を伝えるところにあるわけで、私が普通に暮らしている中でそれを目にして、それによって関心がもたらされるとすれば、それに乗らない手はない。少なくとも文庫本においては、その引き合わせに身をゆだねている。

それで、この週末手にとったのが原田マハの「本日は、お日柄もよく」(*1)。新刊ってわけじゃないんだけど、地下鉄に乗っていたらステッカー広告が貼ってあったのだ。以前に「キネマの神様」を面白く読んだので、それを著した原田マハという作家名が目に止まった。そこに「言葉の持つ力」とか「スピーチライターのお仕事小説」といった文字が並んでいて、これは自分の関心テーマが面白く描かれていそうだなと期待が膨らんだ。

最近は、研修の裏方仕事だけじゃなく、自分が話し手に立つ機会も重なっていたので、スピーチライターという言わば自分の本業の「影」の役割と、時おり自身が担うようになり、通常は人に委託しているスピーカーという「太陽」の役割が、それぞれに相補的な関係として描かれているところも、ちょうど今の自分に響いた。

月9のテレビドラマにでもなりそうな展開でテンポよく物語の中に引き込まれつつ、それこそ言葉のプロフェッショナル、原田マハに、スピーチやシナリオづくりの要諦を教わっているようでもあって、一粒で二度おいしかった。

結局のところ、この物語に出てくるスピーチはすべて原田マハが書いた実践例であり、登場人物が語るポイントも原田マハがスピーチやそのシナリオづくりにおいて重んじるところを言葉に起こしたものだ。つまり、この本によって、言葉の大切さ、言葉の持つ本来の力を、彼女は体現しているのだ。

それを読者である私は、まっすぐに受け止めた。いろいろ響く言葉はあったのだけど、一つだけ取り上げるなら、これだ。

「聞くことは、話すことよりもずっとエネルギーがいる。だけどその分、話すための勇気を得られるんだ、と思います」

私はある種、とても受け身な人間だ。いつもエネルギーを人からもらって活動しているようなものだ。受託稼業は自分にぴったりだと思う。人の話を聴く。依頼主の話を聴きに出向く。真剣に、まっすぐに、いろんな話を聴いていると、こうしたらいいんじゃないか、こういうことを伝えたい、こういうふうにつなぎ合わせてみたら変わるんじゃないかというシナリオが頭のなかに描き出されていく。そうすると動き出したくなる、それを動かしたくなる。

自分で主導してディレクターを務めたり、あれこれ提案したり、質問を掘り下げたり、がっつり意見したり、時には猛然と反対したり、こうしたいって主張したり、そこに合理性があれば講師役を担うことも厭わない。そんなの、自家発電のエネルギー量では到底足りない。そういう自分の働きのもとをたどると、依頼主の話を「聴く」というところを起点にしている。そこから自分の活動が始まっているのが常だ。

人の話を聴くことで、私は生かされてきた。機会をもらい、縁をもらい、エネルギー源をもらって、社会とつながってきた。先の一文を読んだとき、そのことの認識を新たにした。自分の、話す勇気、働きかける勇気の成り立ちをたどった。

読み終えてから、この本のAmazonのレビューに目を通したら、★1つなコメントもあって、いい本だったなぁって思った自分も★1つを付けられた気分になってしょんぼりしたけど、でもやっぱりさ、物語は読んで感じ取るものがあったもん勝ちみたいなとこあるよなって開き直った。読んで心を揺さぶられるのと、そうでないのと、どっちがお得かっていったら、せっかく読んだんだもの、思いきり揺さぶられた人のほうが断然お得だ。

本を読むことが、作家の話を聴くことと捉え直せるなら、私はその作家の話を、物語を、耳を澄ませて、心を澄ませて、すなおに、まっすぐに、受け止めたいと思う。そこからできるだけのことを感じ受けたいと思う。それで心が豊かになれるなら、それで働きかける勇気が得られるなら、それが一番だ。

*1: 原田マハ「本日は、お日柄もよく」(徳間文庫)

2016-06-07

IA Summit 2016 Redux in Tokyoの参加メモ

6/6の晩に「IA Summit 2016 Redux in Tokyo」に参加してきたメモ。

IA Summitは、毎年北米で開催されている情報アーキテクチャに関する国際会議。今年のテーマは「A Broader Panorama」で、米国アトランタで開催。毎年、年度末の慌ただしい3月に開催されているものだけど、今年は5月6~8日とゴールデンウィーク中で、日本からも10数名が参加。全体での参加者は548名。

※参考:IA Summit 2016のプログラム

パラレルセッション(3つのセッションが同時間帯に別室で並行開催される)で、全部で84名のスピーカー。ほかに36のポスター(展示)セッションあり。

以前は一部のセッションに手話通訳があったが、今年はrealtime captioning(指定サイト?にアクセスすると、リアルタイムに講演内容が記述されているのを読める)があったそう。聴覚障害者にかぎらず、英語が母国語じゃない人にもありがたい。国際カンファレンスだと、もはや一般的なのか、これから一般的になっていくのか。

昨日の報告会では、日本から参加された方々が、今年のトピックやキーワードに関連するセッションを紹介、その後Q&A、ディスカッションを経て懇親会という流れ。以下、だいぶ走り書き(あと、私の関心に偏った部分的なメモ)だけど、大変有意義だったので取り急ぎ。

●今年注目のトピック、キーワード
・ダイバーシティ、インクルージョン、アクセシビリティ、ヒューマニティ
・オントロジー
・タクソノミー、フォークソノミー
・パーソナライズ
・コンテンツ/コンテキスト
・プロジェクト設計、合意形成、チームマネジメント
・持続性、メンテナビリティ

●今年のJob Board(求人票)の特徴
こうした国際カンファレンスには、テーマに関連した求人票の掲載スペースがよく設けられており、それを毎年眺めていると、そのテーマ関連の求人動向を追えたりする。今年は「メタデータ」「タキソノミスト」などのキーワードが目立ったとか。米国はやはり、専門職の細分化が特徴的だなと感じる。

●コンセント 長谷川敦士さん 「IAを3レイヤーで捉える」
情報アーキテクチャの専門家として、国内の第一人者的な存在。冒頭で解説してくださったIA、IA Summitのカバー領域の解説が大変わかりやすかった。

IAで扱うテーマは、この3つで捉えることができる。
1.オントロジー(存在論)は、ものや概念の意味の定義。情報の一番プリミティブな領域。
2.それをどう分類するかとか構造化するかといった領域が、タクソノミー(分類学)。
3.それを人に伝えるためにどう表現するかといった領域、ふるまいのデザインが、コレオグラフィ(舞踏術)。

(長谷川さんはもっと精緻に、もっと分かりやすい言葉で説明していた…)

IA Summitは、この3レイヤーに、メタ的な「組織・倫理・価値観」を加えた4領域をカバーしている。また、これらをそれぞれ独立的に究めていくというよりは、これらを掛け算してIAを考えていこうというスタンスで開催されている感じだと、お話しされていた。

※参考:スライド写真

※参考:長谷川さんのレポート記事(underconcept)
IAS16_Reframe IA Workshop
IAS16_Day1
IAS16_Day2

●サントリーシステムテクノロジー 黒沢征佑喜さん 「答えは一つじゃない」
サントリーのインハウスのシステム会社に所属、Web部門でグローバル含めサントリーのサイトを運営する立場から。

面白く聴いたのは、タクソノミーのセッション参加を受け黒沢さんご自身が考えた、サントリーのサイトの商品分類で「ハイボール」はどこにあるかという話。

サントリー ホームページ

「ハイボール」はウイスキー部門が担当しており、その組織体制に基づいてサイト上では「ウイスキー」に分類されている。「チューハイ・カクテル」の方にはない。

しかし、例えばお酒の通販サイト「カクヤス」では、「ハイボール」を「チューハイ・カクテル・ハイボール」というカテゴリーに入れて販売しており、売りの現場と合っていない。

店頭の配置と合わせて分類したほうがユーザーが探しやすいのでは?と考えたが、サントリーのサイトで「チューハイ・カクテル」のほうにも「ハイボール」を入れるのは、継続的なサイト運用を考えると事業部門的に難しいとの判断あり。

それであればと、サイトのほうを「ウイスキー」→「ウイスキー・ハイボール」とラベリング変更する策を講じようかと考えている、といった話をされていた。

「組織の事業部門前提で分類するのはやめようよ、ユーザー視点で分類しようよ」というのは簡単だけど、組織的な視点でもって運用を考えたときに無理があるようであれば、そこを押し通すことにこだわり、その案が通らなければ立ち往生(会社はわかってくれない…と泣き寝入り)するのではなく、視野を広げて他にアプローチしやすい打開策を検討し、方向転換して再提案する実践例として興味深く拝聴した。

●ミツエーリンクス 前島大さん 「VRをどう活かすかは模索中か」
国内大手のWeb制作会社(現在従業員数は300~350名ほど)で、IAとして活動。ミツエーリンクスには、5年前にIAの専門部署ができたそう。

前島さんが参加されたセッションから「VRの進展が、どうIAに関わってくるか」を紹介。VRは、医療分野でのリハビリ、危険なタスクを学ぶレクチャー、ワークアウト、教育分野などで活用されており、活用分野が多様化している。

ユーザーのインターフェイスは必ずしもGUIでなくなる。ユーザーが、指なり腕なりで、欲しいものを引き寄せるような動きが出てくる。

とすると、デザイナーは、もっとフィジカルに(物理空間的に)UXデザインを考える必要が出てくる。

IAは、サイトのナビゲーション、サイトマップ、ワイヤーフレームなどの設計、ページやスクリーンという概念、四隅があるインターフェイスのデザイン、メニューの配置が、必ずしも絶対でない前提に立つ必要が出てくる。

事例として、エンタメソフトか何かを売るVR空間を、3次元で表現しながら「ページ」として見せているものを挙げて、これは「店舗」のように見せたほうがいいのかもしれないし、といった話があったそう。

私はこれを聴いて、「店舗を再現して3D空間を歩かせるって、セカンドライフ的に数年前に逆戻りするだけで進歩感ないよなぁ?」と思いながら聴いた。

もっと現実世界・物理空間から解放されて、脳内の動き、認知的な動きに直接接続するような新たなナビゲーションの仕方なり表現の仕方なりを、今後は追究していくんじゃないかなぁと、答えないくせに違和感だけは一丁前に感じた…(後で前島さんに伺ったら、必ずしも「3D店舗」表現が正しいという言い方でもなかったそう)。

だけど、今回のSummitでは多く「physical」(肉体的というよりは、物理空間的というニュアンス)というキーワードが聴かれたようで、後で長谷川さんや前島さんにもお話を伺ったのだけど、やっぱり何も触るものがなく、抽象的・概念的になるばかりだと、捉えどころを失ってしまうんだよね、という話に納得。

「それ」をみんなと、どう指さしながら共有して話すかとか、いろいろ見回しながら回遊するかとか、そういうことを考えてみると、3D表現じゃないにせよphysicalな手がかりは必要で、それを今後どう表していくべきかって難しいし、今まさに模索している最中なんだろうなぁと思った。

あるいは、人間自体が変態していって、physicalに認知したい人間は淘汰され、新しいタイプの人間の形態が出てくるのか…。

※参考:前島さんのレポート記事
IA Summit 2016 参加報告│ミツエーリンクス

●インフォバーン 井登友一さん 「建築設計と情報設計の親和性ありよう変化」
インフォバーン京都支社長の井登さん、お話しするポイントが面白くて、ぐいっと引き込まれた。

「Architecture & IA」というセッションで、「IA100人に訊きました」的なアンケート結果を発表していて、「IAを説明するときに、建築をメタファーとして使うか」という問いに、そうだと答えた人が3割を切っていたという話からスタート。

10年前とかだと、リアルな建築設計をメタファーとして、WebのIAを説明するのってすごくしっくりいく感じがあったけど、そのときの感覚と比べると確かに今って、当時の親和性の高さを感じないという話。確かに、と思った。

IAに期待される価値が変わっていっているということで、登壇者の発表の54スライド目の対比がキーワードとして興味深かった。

※参考:Jessica DuVerneay│Architecture & IA: Expanding the Metaphor

これと別に、タクソノミーに関して、Etsy(クラフトのC2Cサービス)の例を挙げたお話が面白かった。EtsyのようなDIY的なニッチな作り手・買い手が客相手だと、事業主側が中央集権的に、厳密に(漏れなく重複なく)情報を分類しようとするのではなくて、現場の実際の売られ方、買われ方からピンとくる分類で、柔軟に対応していくほうがいい。というので、Etsyはタクソノミーに完璧さを求めるのをやめたのだとか。

井登さんが「タクソノミーの民主化」と表現されていた。タクソノミーとフォークソノミーのいいとこどりするような考え方とか、コントロールするだけでなく受け容れていくinclusivenessという言葉も、今回のIA Summitのキーワードとしてよく聴かれたといった話もあり、興味深く聴いた。

※参考:井登さんのレポート記事
”IA Summit2016”出席なかばの所感(たぶん、前編)
”IA Summit2016”帰国前の所感(実質後編)
“IA Summit2016” 出席レポート丨インフォバーン総研

●まとめと感謝
登壇者のお話の後は、Q&Aのようなディスカッションのような時間に流れ、軽食をいただきながら参加者同士で談話。私は例によって…会場後方で数名の方と長く話しこむ感じになったけれど、いろいろとお話ができて、たいへん面白かった。ありがとうございました。

ずっと話をしていて、あまり食べられなかったけど、かわいらしいお食事も目で楽しませていただいた。サントリーさんには「ザ・プレミアム・モルツ」を提供いただいたそう。会費1000円で至れりつくせりのおもてなし。相変わらずコンセント河内尚子さんの、冒頭IA Summitの概要や雰囲気を紹介しつつの場づくりも素敵で、進行の中垣美香さんのマイクさばきも面白かった。登壇、運営、参加者の皆さまに感謝。ありがとうございました。

●おまけ「夜更けのAI話、3体とは何か」
あと、帰り際の立ち話で「AI」(人工知能)について話していて、「一人がたくさんのAIを所有する」って現実的じゃなくて、裏では複数とつながっていたとしても、一人の人間の窓口としては一つのAIに統合されるものじゃないかってな話が展開されて。

そこで私が思い出したのが、この間Amazonのジェフ・ベゾスが、人工知能は家庭に3つは必要になるって言っていた記事。3つが何かって話は記事に載っていなかったんだけど、それを読んだときに、3つって何かなぁって考えた。

私がイメージしたのは、「家事系/育児系/家計系」の3種とかかなぁ。あるいは、「体育会系(体力使う系のことを一手に引き受けてくれる)/頭脳派文化系(知識豊富で、いろいろ教えてくれる)/頭脳派理系(数字や金勘定に強く、賢い世渡り上手)」みたいなの?

だったんだけど、そういう話をしたら、「いやいや、そういう分類の仕方じゃなくてさー」と全然違う見解が出てきて、こういうの他の人がどんな発想するのか聞くの、面白いなぁと思った。たしか、「対自己(内面・内省的な相手)、対社会(父親っぽい存在)、対同士(兄弟っぽい存在)とか、そういう分け方するんじゃないかなぁみたいな話だったかな。とにかく全然違う分け方が出てきて面白かった。

そんなこんなで夜更けまで、小学生が夜祭りの後の別れ際にだらだらおしゃべりを続けるように、AI話に花が咲いて、なかなか楽しいしめくくりだった。

ちなみに、その記事はこちら。
人工知能アシスタント「Alexa」はAmazon第四の収益の柱になりうるーーベゾス氏が語る│THE BRIDGE

ベゾスの語ったのを要約すると、「世界は腐るほどの人工知能エージェントで溢れかえるようになると思う。さらに得意分野が出てくるようになると思っている。あらゆることを同じ人工知能に依頼するわけにはいかないから。賭けてもいい。平均的な世帯は3台使うようになる」という話。どんな未来になるのやら。

2016-06-04

「UXデザインの教科書」の感想メモ

最近出たばかりの安藤昌也氏「UXデザインの教科書」(*1)の読書メモ。といっても例によって、まだ1/4程度しか読んでいないんだけど、70ページくらい読み進めて良書だなぁと思ったのと、冒頭にぐぐっと惹かれる一節があったので、取り急ぎ。

これはタイトルどおり、「教科書」というコンセプトを体現した本だと思う。いい意味で、ザ・教科書。UX(User eXperience)デザインの概念、考え方や方法論、プロセス、手法が、体系的に分かりやすくまとめられている。安藤先生が20年のキャリアのうち、前半は実務家として、後半は大学教員としてUXデザインに携わってこられた知見が、バランスよく注入され、洗練された一冊に仕上がっているという印象をもった。

下手な翻訳本のように無理やり米国の方法論を和訳して説明したぎくしゃく感もないし、研究者向けのがちがちなアカデミック感もなく、かといって一実務者がまとめた実践知とも違う。実務とアカデミックの世界を見渡せる安藤先生ならではの視座から、双方の読者に役立つように丹念に言葉や構成、語りや解説事例が選ばれ、わかりやすく編まれている、お手製感ある専門書。読者対象を学生から実務家まで幅広く設定しているけれど、それにきちんと対応して仕上げている良質さを感じ受けた。

あと冒頭の「本書の使い方」の中で、注意点として挙げている一節にぐぐっと惹かれたのだ。私が提供する研修稼業も、ここに書かれている「教科書」の役割と共通する位置づけな部分があり、それをこんなふうに言葉に言い表し、かつ実際に中身でもって「教科書」の価値を体現する手腕に、敬服の念を抱いた。

本書はUXデザインに関する知識を中心にした教科書である。どのような分野でも同様だが、実践の現場は教科書通りにはいかないことがほとんどである。本書も実践を意識し、著者の経験をふまえているとはいえ、この教科書通りに行えば必ずうまくいくことを保証しているわけではない。特にUXデザインは、企業などの組織で取り組むことを前提としたデザインの実践であり、正しいプロセスよりもむしろ的確な意思決定の方が重要かもしれない。しかし、個別組織の意思決定の良し悪しを本書で扱うことはそもそも困難である。
教科書が示す体系的な理論やプロセスは、既存の知識を整理するだけでなく、新たな知識を位置づけやすくする知識基盤となる。知識基盤を持つことができれば、実践による成果の振り返りが知見となり、より高い専門性を発揮できるようになる。また、チームや組織として同じレベルの知識を持つことができ、相互のコミュニケーションを円滑にし深い議論を交わす土壌を作ることができる。さらに、その効果によって良い実践につながる可能性も高まる。

中身が「教科書」としての価値を示せていなければ、これはただの言い訳にしか読めなくなってしまうわけだけど、そうとは感じさせない読み応えをそなえていて、読み進めるほどに「教科書」ならではの価値を実感させられる。一度読み通した後も、手元においておき、辞書的に何度でも引いて、長期的に都度役立てられる本だなぁと思う。

あとは、ここまでで疑問符が浮かんだことなど、いくつかメモを残しておく。

●p55(注釈10)
「ドナルド・ノーマンが区別した人間の特性」が【UXの期間別の種類】と、次のように関連していると説明しているが、

「本能レベル(概観)」→【瞬間的UX(利用中)】
「行動レベル(使うときの喜びと効用)」→【エピソード的UX(利用後)】
「内省レベル(自己イメージ、個人的満足、想い出)」→【累積的UX(利用時間全体)】

ここでは【予期的UX(利用前)】は挙げられていない。でも、ここの説明だけで解釈すると、下のように関連づくと言われたほうが自然に感じられて、疑問符が浮かんだ。

「本能レベル(概観)」→【予期的UX(利用前)】
「行動レベル(使うときの喜びと効用)」→【瞬間的UX(利用中)】
「内省レベル(自己イメージ、個人的満足、想い出)」→【エピソード的UX(利用後)】及び【累積的UX(利用時間全体)】

これは、元になっているドナルド・ノーマン著「エモーショナル・デザイン」読めよ!という話かもしれない…。

●p56の「累積的UX」の説明
「累積的UX」に次の2つの記述があり、前者は使用前の「予期的UX」を含まず、後者は含む説明と読めるのが気になった。

・「使用期間全体を振り返るときの体験」
・「製品との出会いから現在までの関わりを回顧して、ユーザーが製品との関わりをどのように感じているかに関するもの」

本文や図から受ける印象としては、「予期的UX」も含んでの「累積的UX」ってことなのかなと読んだけど、だとすると「使用期間全体を振り返るときの体験」は言い方を変えたほうがいいのかもな、と思ったが、どうだろう。

「エピソード的UXは、瞬間的UXを内包している」とも書いてあるから、下の図のような入れ子構造で「UXの期間別の種類」を表すこともできるのか、どうなのか。

書籍内の「UXの期間別の種類」(UX白書.2011)を入れ子構造で表してみた図

●誤脱字(コメント欄にメモ)
70ページくらい読んだ中で見つけた誤脱字は13点ほど。決して少ないとは言えないけど、文章そのものが読みやすいのと、誤解釈を与えるような誤りはなく、ちょっとしたものばかりなので、あまり気にならなかった。出版社のサイトから報告しておくので、重版・改訂版や電子書籍化があれば修正されるだろうか。丸善出版のサイトは、正誤表は作っているようなのに、各書籍ページからリンクされていないのは残念だ。

とにかく、UXデザインを体系的に学ぶには、とっても良い本だなぁと思った。ってここで気を抜かず、続きも読まねば…。

2016.6.11追記)
概ね読み終えての感想。やっぱり読みやすい。遊びがあるようで、無駄がない文章。ガチガチでなく、ユルユルでない、絶妙に読みやすいチューニングが施されている、そんな感じ。
体系的・網羅的に要素が押さえられているんだけど、そこから主要なものに説明を割いて、そうでないものは参考文献を提示するというメリハリがある。
手法についても、それぞれ強みと弱みを双方バランスよく提示していて、この手法を用いる際の留意点はこれこれなど、(おそらく)これまでの指導経験をもとに初心者が陥りがちな観点を具体的に提示していて、教科書として良質だなと思う。
あと読者として押さえておきたいのは、後半に進んで内容が「プロセス」「手法」に入っていくと、これはもう実体験なしに深い理解に至ることは難しいだろうこと。それを前提に、とりあえず知識として、あの手この手があることを理解して、目的や状況に応じて手段を使い分ける必要性を認識しておくこと。そこまで導くのが本書の担う役割で、また実体験をした後に読み返すと、体系的に知識として定着させるのに役立つんだろうなと思う。

*1)安藤昌也「UXデザインの教科書」(丸善出版)

2016-06-01

「聴覚」が受け止めているもの

先日とあるコーヒー屋のチェーン店に入ったところ、注文を終えて席について程なく、レジの中の店員さんがデッキブラシで床面を掃除し始めた。レジの内側スペースを掃除しているのでブラシそのものは見えないのだけど、水分を含んだデッキブラシ特有のジュワシ、ジュワシ、ジュワシという音が店内に響いて、これにはけっこう参った。プールサイドの掃除の音である。

安価にコーヒーを出す店に入ったので、贅沢を言っちゃいけないのかもしれないが、すぐ目の前でお客さんがコーヒー飲んだり軽食つまみながら本読んだりおしゃべりしたりしている中、そのジュワシ、ジュワシ、ジュワシっていうのは、だいぶ耳に障る感じがあった。

しかも、それを他の店員も一向にとがめる様子がない。何か話しながらやっていたから、この清掃業務は店を開いている時間帯にやってしまうのが、この店の普通なのかもしれなかった。

確か22時閉店で、掃除していたのは20時~21時くらい。これから徐々に客も減ってくる時間帯ではある。とはいえ、閉店まではまだ1~2時間ほどあるし、その時点では6~7割お客さんが入っている状態。

うーん、清潔を保つのはいいことだし、新しい客が来ないからと時間を持て余してだべっているだけより仕事熱心なのかもしれない。けれども、布巾を使ってやるのが小掃除だとしたら、デッキブラシを使ってやるのは大掃除。大掃除は、客が帰った後にやるくらいのバランス分けが按配よろしいのでは、と勝手ながら思ってしまった。まぁ、気にならない客が一定数いれば、私がどう思おうと構わないんだけど。

それはそれとして、それなりにわいわいがやがやしている店内だったのに、どうしてデッキブラシの音があんなに耳に響いたのか。というので、関係あるのかないのかわからないが、なんとなく思い出したのが、精神科医の中井久夫さんの言葉だ。

そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当たっているだろう)という認知に当たっている。(*1)

そう言われるとしっくりくる感じがある。普段から、道を歩いていても後ろから車が近づいているとかは耳を頼りにしているし、何事か!と様子をうかがいたいときにはたいてい自然と耳を澄ます。逆に、安定した静けさは人を無防備にしてリラックスさせる。これは人によるのかもしれないが、私は割りと静けさが好きだ。

だとすると、嫌な音、耳障りな音ほど聴覚がとらえやすく、人の認知に入りこんできやすいとか、あるのかもしれないなぁと。中井久夫さんの言葉は、その後こう続く。

声の微細な個人差を何十年たっても再認して、声の主を当てるのが聴覚である。(*2)

これも、確かに。聴覚って、視覚だけでは特定できない微細な違いをとらえて、カチッとはまるかどうかを確かめてくれる強みをもっている気がする。

直接に会って何度もやりとりある人ならともかく、直接対面した経験がない有名人などは、街中で見かけても、似ている人なのか本人なのか、なかなか特定できない。だけど、声を聴くとそこで、あぁ本物だとか、別人かとか、見分けがつく。視覚情報だけだと、どうも心もとないが、聴覚情報を持つと、そこでカチッと判別がつく。

ちょっと突飛だけど、もし輪廻転生があるとして、魂とかなんだとか内面のもの以外に、人が知覚できる何がしかも前世から引き継いでくるとすれば、それは視覚情報たる「姿・形」ではなく、聴覚情報たる「声」の素じゃないかしら。って、ものすごい想定が入り組んだ話だけど…。

何の根拠もない話だけど、同じ姿・形で生まれ変わってくるっていうよりは、それっぽいではないか。人の声を聴くことによって、その人に深い縁を感じることがある。そう言われれば、そんな気もしてくるじゃないか。

(ちなみに私はオカルトに興味はない、ただ「在るか無いかわからないもの」を無いと決めつけることもしない、不可知論者とかいう立ち位置を好む)

あと昔よく聴いた音楽を久しぶりに耳にすると、一気に自分の身が当時に引き戻されるような感覚を覚えるのも、音なのか聴覚なのか、それ特有の力を感じるところ。このとき、視覚情報はむしろないことによって、感覚が研ぎ澄まされることも多いように思う。

「百聞は一見に如かず」と言うけれど、これにも良い面と悪い面とあって、自分が獲得した「一見」の視覚情報に、過度に信頼を寄せやすい人間の特性を指摘しているようにも思う。「百聞が一見に及ばない」というのは、あくまで人間の特性であって、別に「百聞より一見して受け取った認知のほうが正しい」という話ではない。「一見」は、「百聞」や、自分の想像力とセットで使わないと、むしろ読み違えてしまうリスクを負っている。

と、とりとめない「音」なり「聴覚」の話。以前に宛てもなく「声」の話というのを書いたことがあって、まとまりなくてもいいかと開き直って書いたメモ。「数学的に不完全を承知」で、なお微細な違いを聴き分けることに働く聴覚に、愛おしさとありがたみを感じる。

*1、2:鷲田清一『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫)

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