[EDIXメモ] 「間違えない達人」から「うねりをつくる人材」へ ~子どもたちにプログラミング教育を~
前書きは二つ前の話(大規模な展示会の歩き方)に…ということで、第7回教育ITソリューションEXPO(EDIX)内で開催されたセミナーの受講メモ2/2。
「間違えない達人」から「うねりをつくる人材」へ ~子どもたちにプログラミング教育を~
南場 智子 氏(ディー・エヌ・エー取締役 会長)
●日本から、これぞ!というサービスが出てこない
日本から、あっと言わせる夢のあるサービスや、生活インフラとなるサービスが出てこない。自分たちが注目している企業として、Google、Apple、Amazon、Bitcoin、23andMe、Tesla Motors、Airbnb、Uberを例に挙げ、これらはすべて他国であると。
●日本は、他国と比べて圧倒的に起業に対する意欲が低い
日本は、他国と比べて圧倒的に起業に対する意欲が低く、失敗に対する恐れが高いというのをデータで示していた。起業に対する印象や意欲は70カ国中68~70位で軒並みびりっけつ、その一方で失敗に対する恐れだけは70カ国中2位で上位を獲得。
●日本の教育は「正解を言い当てる」ための教育
日本は「間違えない人づくり」の教育システムを築いてきた。DeNAの新卒採用には数万人の応募者があり、東大、慶応、早稲田など優秀な大学からやってくるが、学生の中に創造力を探しだすのが難しい。就職活動でやってくる学生と接すると、面接の最後にする「何か質問はありますか」という問いにすら、ここでどういう質問をするのが正解かを考えてしまう。そういう教育を受けてきたのだから仕方ないが、これでは会社に入ってからロクな活躍はできない。私が言ったことを答えだと思われては、議論する意味がない。
今日、日本が直面している課題は、経済にしても外交にしても何にしても、前例のない状況下にある。産業界からの視点から言わせてもらえば、「間違えない人」を育てても意味がない。「新しい価値が作れる人」じゃないと意味がない。これまでの常識や、上司の言うこと、前例に答えを求めがちな若者は、ほぼ無価値になってしまう。
●何が足りないのか
1.一つの正解を言い当てるのではなく、今までにないアイディア・付加価値を創造する力
2.パッション(熱意)を伝える力
3.文化的な背景の異なる人たちと協業する力(コラボレーション)
シリコンバレーでは小学1年生から「Show & Tell」という授業?があって、自分が素晴らしいと思うもの、はまっているものをスピーチする時間があるらしい。対する日本は、本人がはまっているものがあっても、それはそれ、学校は学校と切り分けて、そういう変わった趣味の話などは学校では披露しないほうが一般的(という話を実体験を通して説明)。
小1からパッションを伝える教育を受けてきた人間と、将来競争するのは大変だろう。米国の教育の全部を礼賛する気はなく、あっちにはあっちで教育格差などの根深い問題を抱えているが、日本で将来のうねりを作り出すリーダーが育まれていないのは残念。
大学でも、アメリカではハーバード・ビジネス・スクールなど米国人を一定数にとどめて多国籍・様々な宗教の多様な学生を受けいれるよう意図的に環境づくりをしているが、それに比べると日本の大学は同質性が高すぎる。そういう環境にいれば、多様性の高い環境は苦手になって当然。
でも今日、国境に閉じた問題解決はないと考えている。オープンでいることで、問題解決の質もスピードもインパクトも変わってくる。
●コンピュータとの関わり3タイプ
オックスフォード大学のオズボーン博士は、今後47%の仕事がAIに置き換わると言っている。これに対して、リーダーにならなくともなんとか食べていければいいんじゃないの?という意見もあるかもしれない。
でも今後、人材は次の3つのタイプに分かれる。
1.コンピュータに使われる人材
2.コンピュータと競争する人材
3.コンピュータにコマンドを出す人材
1と2は賃金が安くなる。どういう人材がいるかが、その国の競争力に直結するし、その子の幸せにも大いに関与する。仕事の範囲も、収入も、生活レベルも違ってくる。これが、今後の日本の教育課題だと捉えている。
●進化する「デジタル・デバイド」の意味
これまでのデジタル・デバイドは、スマートデバイスを「使える」「使えない」で語られてきた。でも、これからの日本では、隔離でもしないかぎり「使えない」人は出てこない。これからのデジタル・デバイドは、「作れる」「使える」の差異になる。「作れる」人は、うんと大きな自由度を手に入れることができる。
●だから、プログラミングはほぼ全員に学んでほしい
DeNAも、今のところ事業として展開できているわけではないが、実証研究を実施している。公立の小学校で、武雄市で2件、横浜市で1件行った。
CTOが自ら学習用のアプリを開発し、先方の担任の先生などと入念な打ち合わせを行って、ビジュアルプログラミングの授業を小学1年生に対して全8回(後半4回で作品制作)で行った。
児童はひとりずつタブレットを手にし、自分の描いたイラストをカメラで取り込んで、キャラクターや背景にできる。そこにコマンドを入れていって、ゲームやアニメーションを作る。最後には、自分の作ったものの発表会をする。
実際、小学1年生が作ったものがスクリーン上に投影されたが、ゲーム性をもったものもあった。どんなお話にして、どんなキャラクターを登場させて、どんな背景の中に置いて、どういう刺激に対してどういう反応を返すシナリオにするのか、全部自分の頭で考えて、それを作って、アウトプットしている。
小学1年生では、「もし~だったらこう、そうでなかったらこう」というifを使ってものを作り、2年生では変数も取り入れて「何回~したら、こうなる」を使って作品を作っていた。
自分(子ども)がいて、テーブルの上にケーキが置いてあって、その間にお父さんが立ちはだかっている。自分が10回、お父さんにハートマークを送りつけると、お父さんはメロメロになって、テーブル前をどく。自分はテーブルの上のケーキを食べられる。と、そんなようなのを作っていたり。あと、サウンドを取り入れて鍵盤を作ってメロディを奏でている子もいた。
この授業で設定した「子どもに身につけてほしいこと」は、
・アプリやゲームは、自分で作れるものだと自然に思えるようになること
・より豊かな創造力を働かせられるようになること
・楽しい、もっと学びたいと思うこと
というようなゴール設定だった。
CTOと担任の先生との事前打ち合わせでは、ビジュアルプログラミングのコマンドを出すブロックを「指示」といった言葉ではなく「お願いブロック」と言い換えて説明するようにしたり、「これから大事なことを言います」と間に挟んで説明するなどを話し合い、授業の最後には担任の先生が「まとめ」をするなど、コラボレーションしながら進めた。
小学低学年でビジュアルプログラミング、小学高学年でコーディングへ、その後グループワークで遠隔地(他校や他国)との連携作業、ロボットなどモノを動かすプログラミングへと、段階的に進めていけたらいいのではないか。
小学1年生の段階からプログラミングには触れていければ、20年後は大きく違う。もちろん他の教科と同様に得意な子もいれば苦手な子もいるだろうけれども、そうやって裾野を広げていければ、一握りのマーク・ザッカーバーグも出てくる可能性は高まる。
「使える」ではなく「作れる」人になっていくために、こうした取り組みで創造する力を養っていくことはとても大事だと。こういう授業をやると、同じプログラム、同じシナリオは決してできない。コラボレーションはどこでもできるし、発表会を通じてパッションを伝える力も養われる。英語も学びたくなる。ITが子どもの将来の扉を開く。
と、こちらも走り書き的メモですが、ご参考まで。こういう「作り手」の頭の動かし方を、幼い頃から経験しておくこと、今後主流となる道具を前提にした創造力を養う機会提供は、大変に有意義だと思った。
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